一年後の東京の春。
大学病院からの帰り道、精神医療センター沿いの桜並木に差し掛かると、裕紀は自然と足を緩めた。
まだ十分に咲ききらない桜の枝先が青空に向かって伸びている。
蕾は膨らみ始めているものの、まだ開花は先だ。
ベンチに腰を下ろし、深く息を吸い込む。
肺に広がる都会の空気は、故郷の山々の澄んだそれとは違うけれど、なぜか今は心地よい。
明日からここで働き始めるという現実が、まだ夢の中の出来事のように感じられる。
「美桜……」
無意識に名前が口をついて出た。
あの日からちょうど一年。
美桜の言った通りに精神医学の道を選び、今日こうして研修を終えた。
彼女の願いが叶ったのだと思うと同時に、胸の奥が締め付けられる。
この決断に後悔はない。
しかし彼女がここに居ないことへの空虚感は、時間が癒してくれるどころか日に日に増していく。
ポケットからスマートフォンを取り出し、カメラロールを開く。
一番上にあるのは去年の春、二人で撮った桜の下での写真。
その写真には美桜が車椅子に座ったまま、裕紀は彼女を支えながら笑っている。
「桜、もうすぐだな……」
花弁を孕んでふくらむ桜の蕾を撫でながら呟く。蕾が満開に花開くまであと一歩だ。
彼女は最期まで生きようとしたのだ。
その証として今ここに自分がいる。
「(ありがとう…)」
と心の中で感謝を伝えながら、スマートフォンをポケットにしまったその時だった――
足元で何かが光った気がした。
よく見ると、土で汚れて滲んでいた名札が落ちていた。
そこに書かれている名前に、裕紀は微かに目を見開く。
「……っ」
裕紀は思わず声をあげた。地面を探ると土で汚れた白い名札が見つかった。
すぐに拾い上げる。
「………?」
震える手で汚れを払うと、名字は土で汚れ、滲んでいてわからなかったが、持ち主であるだろう名前が書いてあった。
ーーいつか、、"蕾が芽吹くかもしれないでしょ?"
「……っ」
美桜が最後に言った言葉を思い返し、
名札をぎゅっと握りしめた。
暫くしてから、裕紀はベンチにその名札を置いてゆっくりと立ち上がり、その場を立ち去った。



