夕方のナースステーション脇の水道で、裕紀は静かに花瓶を洗っていた。
ガラスに映る自分の顔が少し疲れていることに気づく。
今日は朝から病院の研修があり、その後すぐに美桜の病室へ駆けつけてきたのだ。
「あれ?有澤さん。」
柔らかな声が背後からかけられた。
振り返ると50代半ばの女性が立っていた。
病棟看護師長の倉橋だ。
白髪交じりの髪を後ろで一つにまとめ、優しげな眼差しの奥に鋭い観察眼を秘めている。
「お疲れさまです。」
裕紀は頭を下げた。
「花瓶洗わせてもらってすみません。」
倉橋は手を振りながら近づいてきた。
「構わないですよ。それにしても……」
彼女は裕紀の手元の花瓶を見て微笑んだ。
中には今日買ったばかりの八重桜が活けられている。
淡いピンクの花弁が透明なガラスの中で可憐に踊っていた。
「綺麗ね。これ、奥さんが選んだの?」
「いいえ、僕です。昨日の大学の帰りに花屋で選びました。」
倉橋さんの表情が僅かに曇った。
「そう…美桜さんも外出できたらいいのだけど、…最近は少し症状が長引く時間が増えてきてるようね。」
「ええ……でも。」
裕紀は洗い終わった花瓶を大切そうに両手で包んだ。
「美桜は花が好きですから。症状だけに囚われず、少しでも気分転換になればなと。」
倉橋さんは裕紀の肩にそっと手を置いた。
「本当に素敵な方よね。美桜さん。」
「ありがとうございます。師長さんは…よく美桜と話してくださってるんですか?…」
「もちろんよ。入院当初から担当させてもらってるから。」
倉橋さんは少し遠い目をした。
「初めて会った時は随分不安そうだったけど……有澤さんがいつも側で見ていてくれてるから、すごく表情が明るくなっりましたね。」
その言葉に裕紀の胸が温かくなる。美桜が自分を必要としてくれている証拠のような気がした。
「僕こそ……師長さんをはじめ皆様のおかげで……美桜は安心して治療を受けています。」
「とんでもない」倉橋は照れたように笑った。「むしろ逆よ。私たちはあなた達夫婦に救われてるの。」
「僕たちに……ですか?」
「ええ。」
倉橋さんは周囲を見回し、声を落とした。
「正直なところ……最期を看取る準備を始める患者さんに対して、職員の中にも色々思うことがあるわ。
でも美桜さんのような前向きな姿勢を見ていると……私たちも諦めずに向き合えるの」
裕紀は言葉が出なかった。
病院という厳しい現場で働く人たちの思いを、今まで深く考えたことがなかった。
「特に美桜さんみたいに若い方が……ね。」
倉橋さんの目に僅かな光が宿った。



