さくらびと。【長編ver.完結】







「誠に、残念ですが……」


医師の言葉は霞がかかったように遠く聞こえた。


白衣の男がパソコンの画面に写るCT画像を指差している。


腹部に広がる不自然な影が裕紀の目に飛び込んできた。


「膵臓癌です。しかも肝臓にも転移しています。ステージⅣですね。」



点滴をされ、病院の診察室のベッドで横になっている美桜は言葉を失い、青ざめた顔をしている。




震える手で布団のカバーを握りしめていた。




「標準治療として抗がん剤がありますが……」




医師が言いよどむ。

その意味は専門家志望の裕紀には痛いほど分かっていた。




「効果は限定的だと?」




「率直に申し上げると、延命効果はあるかもしれませんが副作用が非常に強い。そして……」




一呼吸置いて医師は続けた。




「予後は極めて不良です。正直にお話しすると……平均生存期間は長くても半年程度かと。」



待合室の椅子に腰掛ける裕紀の横で点滴をぶら下げ、車椅子に乗った美桜が小さく震えていた。



診察室を出てから一言も発しない。




時折鼻をすする音だけが静かな空間に響く。




「大丈夫だ。」




そう言った自分の声も掠れていた。

何が大丈夫なのか分からなかった。

現実を受け止めきれないのは美桜だけでなく自分も同じだ。




「嘘だよね……?」



ようやく絞り出した彼女の声は囁くように弱々しかった。



「何それ…こんな……冗談みたいに終わるの?」


「そんな…、そんなことって……」



裕紀は答えなかった。

代わりに彼女の肩を抱き寄せた。

裕紀の左肩に、じわじわと美桜の涙が染み込んでいく。

柔らかな髪に顔を埋めると消毒液の匂いが鼻を突いた。


「美桜…ごめん…、もっと…もっと早く気づいていれば……!」


「裕紀のせいじゃないよ。」



意外にも彼女の方が冷静だった。

涙を拭いながら続ける。





「むしろ私の方こそ……少しでも、変だなって思ったときににすぐ言わなかったから…」


「はは、私、何で言わなかったんだろう、何で…」




「馬鹿野郎」



思わず語気を強めてしまった。

美桜の目が驚きに見開かれる。




「そういうこと言うなよ。美桜が悪いことなんか一つもないんだよ!」




怒鳴りたくなる気持ちを必死で抑える。



感情的になるべきではない。


今は彼女を支えるのが最優先だ。






帰りの車の中、二人は無言のまま手を繋いでいた。




窓ガラスに映る夫婦の姿は他人のように見えた。




いつもの会話の火花が消え去り、冷たい空気だけが流れていた。


「ねぇ」



美桜が突然口を開いた。





「最後に何したい?」



あまりにも直接的な質問に裕紀は戸惑った。彼女はすでに現実を受け入れ始めているのか。




「そんなこと……」


彼の反応など気にも留めずに美桜は続ける。




「やりたいことリストを作ろうよ。まだ半年あるんだから。」



その言葉に裕紀は胸を衝かれた。彼女の方がよっぽど前向きじゃないか。



「分かった……一緒に考えよう。」


家に着くなり二人はダイニングテーブルに向かい合って座った。



ノートとペンを取り出す美桜の横顔は悲壮感よりも決意に満ちていた。



「まずは旅行かな?」


「どこ行きたい?」


「海が見たい。昔一緒に行った湘南の海。あの時みたいに手を繋いで砂浜を歩きたい。」



ページの上に『湘南海岸ウォーキング』と書く彼女の手元を見つめながら、裕紀は過去の記憶を辿った。

確かにあの日の美桜は太陽のように輝いていた。


「他には?」

「温泉も行きたいな。山奥の秘湯とか…」

「了解。調べてとくね。」





少しずつ書き出される夢の数々。

それを追ううちに裕紀の心にも小さな灯火が灯り始めていた。


「そういえば新婚旅行、してなかったね。」


「あっ!そうだね!」


突然美桜が顔を上げた。


「ハワイ行きたい!ハネムーンしてないなんてあり得ないよ!」

その勢いに思わず吹き出してしまった。こんな時でも彼女は変わらない。



「じゃあ、ハワイにいこう。」