「桜井さん、本当に申し訳なかった。」
数日後の朝、病院の廊下で板垣先生が蕾の前に立ちはだかった。
その表情には先日までの傲慢さは消え、深い反省の色が浮かんでいる。
「私の未熟さが君を追い込んでしまった。
過去のことを持ち出して責めたのは完全に私の間違いだ。」
率直な謝罪に蕾は戸惑いを隠せない。
長年蓄積された不信感は簡単には溶けないものの、板垣先生の誠実な態度には心を打たれた。
「私も……大人げない態度でした。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。」
二人の和解に周囲のスタッフたちも安堵の表情を浮かべる。長引いていた緊張感がようやく緩和されたのだ。
ーーあの日のキスの夜から10日ほど経っていた。
翌日は非番だったため翌々日に出勤したところ、有澤先生はすでに他の患者対応で忙しそうにしていた。
その後もタイミングが合わず、きちんと話す機会がないまま日々が過ぎていった。
(夢じゃない、よね?……私、有澤先生と、キスしたんだよね……?)
蕾は、仕事中もふとそのことを考えてしまう。
医師である有澤先生が、職場でそのような行動に出たことに困惑していた。それでも心の奥では嬉しさも感じていた。
「桜井さん?」
突然の声に我に返る。
そこには患者の一人、田村さんのお見舞いに来ていた母親の姿があった。
「あ、田辺さんの。こんにちは。どうされましたか?」
「うちの母が最近落ち着かないみたいなんです。少し診てもらえませんか?」
蕾はすぐに業務モードに切り替える。
感情的になってはいけない。
これが私の仕事なのだから。
夜勤交代の時間が近づき始めると、病棟全体がほっとした雰囲気に包まれる。
この時間帯には通常夜勤帯のスタッフが集まってくるはずだが、今日はどこか様子が違っていた。
「お疲れ様ー。」
聞き覚えのある声に振り向くと、有澤先生が微笑みながら立っていた。
昨夜の出来事が頭をよぎり、つい視線を逸らしてしまう。
「調子はど?」
彼の問いに答える前に別の声が割り込んできた。
「有澤先生!ちょっといいですか?」
別の看護師が急ぎ足で駆け寄ってくる。その表情には焦りが見え隠れしていた。
「ん?何かあった?」
有澤先生の態度が即座に仕事モードへと変わる。
蕾も自然と気を引き締めた。
「実は……新規入院患者さんについて相談したいことがありまして……」
看護師が話し始めると、有澤先生は真剣な表情でメモを取り始めた。
彼の仕事ぶりを改めて目の当たりにすると、その姿勢に尊敬の念を抱かずにはいられない。
昨夜の甘い出来事とは正反対の厳しい現実がここにある。
「分かった。後で確認してみるよ。」
看護師が去った後、有澤先生が再び蕾に向き直る。
「ーー桜井さん、少し話せる?」



