「え、どうしたの?顔赤いけど…」
吉岡さんの問いに慌てて首を振る。
「え?あ……ちょっと暖房が強くて……」
その嘘を信じてくれたようで吉岡さんは納得した表情を見せた。
だが蕾の胸の高鳴りは収まらない。
予防接種リストに集中しようとしても、頭の中は彼のことでいっぱいだった。
「次の方どうぞー、」
呼びかける声も僅かに震えているかもしれない。
それでも必死に平静を装った。
白衣を纏う有澤先生の背中を見つめる度に、身体の芯が熱くなっていくのを感じる。
冷たい冬の空気とは裏腹に、病院内の一部屋だけは二人の間で生まれる熱気で満たされていた。
年末に向けて慌ただしい日々が続いていた。
病棟は通常より混雑し、誰もが少し疲れていた。
そんな中で起こしてしまった医療ミスは、蕾にとって今の病棟では最も深刻なものだったかもしれない。
「桜井さん!緊急事態よ!」
吉岡さんの悲痛な叫びに飛び起きた時、すべてが遅すぎたことを悟った。
誤った量の安定剤を服用してしまった患者はすでに過度の鎮静状態になっていた。
即座に対処に当たって事なきを得たが、結果的に板垣先生への報告が不可避となった。
「桜井!」
板垣先生の怒声が響き渡った。
ナースステーション全体が凍りつく。
「どういうことだ!どうしてこんな基本的なミスを……!」
蕾の顔から血の気が引いた。手に持っていたカルテが床に落ちる音だけが静寂を破る。
「申し訳ありませんでした。」
声が震える。普段からミスをしないように細心の注意を払ってきたのに、こんな時に限って……。
「申し訳ないで済むか!」
板垣先生の怒りは収まらない。
「こんな初歩的なミスが命に関わることだってあるんだぞ!」
周囲の看護師たちが心配そうな表情で見守る中、板垣先生はさらに言葉を続けた。
「全く……君みたいな看護師がいるとチーム全体の質が下がる!」
言葉の刃が次々と刺さる。蕾は唇を噛みしめ、必死に耐えていた。
「特に……」板垣先生が一瞬間を置く。「5年前に自殺した患者さんの件もあるしな。」
その瞬間、さくらの中で何かが砕けた。5年前のあの出来事ーーー
ーーーねえ、
蕾ちゃん。ーーー
彼女、千尋さんの笑顔が走馬灯のように蘇る。
トイレで自殺を図り、ひとりで窒息死してしまった千尋。
その光景が脳裏に蘇り、全身から力が抜けていく。
「あんなことが起きるのも無理はないな。いつまで経っても成長しないんだから。」
ーーもう聞いていられない。
蕾は無意識のうちに駆け出していた。
ナースコールの音さえも耳に入らないほど混乱したまま、病棟を飛び出す。
階段を駆け上がり屋上へ。
涙が止まらなかった。
「なんで……」
5年経ってもなお癒えない傷を掘り返され、過去の痛みが鮮明によみがえる。
あの日から何人の患者を救ってきたか分からないのに、1つの失敗が全てを否定されるような気がした。
一人泣き崩れる。
誰にも見られたくない。
そんな状態の自分を認めたくなくて。
冬に近づく空は、とても冷たかった。



