新病棟での最初の一週間は悪夢のようだった。
「203号室の点滴ラインが詰まっています!」
「板垣先生!220号室の患者さんのバイタル低下してます!」
「新しい電子カルテシステムがまたフリーズしました!」
ナースステーションは常に怒号と警告音に包まれていた。
蕾は一日中病室とステーションを行き来し、リーダーとして各チームに指示を出さなければならなかった。
「吉岡さん!207号室の酸素流量確認してください!それから山本さん、薬剤チェックお願いしますっ」
休む暇もない。
有澤先生もほとんど似たような状況だった。
措置入院後の患者管理に追われながら新病棟の医療機器の調整にも奔走しているようだ。
そんな慌ただしい日々の中で、一度だけ病棟の廊下で有澤先生と擦れ違ったことがあった。忙殺されていた蕾は彼が声をかけてくれても挨拶だけで立ち去ってしまうのが精一杯だった。
「桜井さ……」
「先生ごめんなさい。いま急いでてっ…」
それだけで終わってしまう短い遭遇が何度か繰り返された。寂しいとは思ったけれど、それどころではなかった。
3ヶ月目に入ると少しずつ改善の兆しが見え始めた。新しいシステムにも慣れ始め、人員配置も最適化されてきた。
初霜が地面を白く彩る朝のこと。
病院内はインフルエンザ予防接種の準備で慌ただしかった。
新病棟に移ってから初めての冬。
蕾は朝からワクチンの予防接種リストと睨めっこしていた。
「桜井さん、9時半から病棟で予防接種始まるからお願いねー。」
吉岡さんの声に頷く。
有澤先生も参加するはずだ。胸が高鳴る。
「はーい、了解です。」
時間が来て病棟の人材室に行くと既に行列ができていた。
有澤先生は白衣の袖をまくりながら患者の問診を始めていた。
その横で吉岡さんがテキパキと書類整理をしている。
「桜井さんは隣の診察室でお願いできる?」
有澤先生の柔らかな指示に緊張しながら頷いた。
自分の受け持った患者の接種準備を進めていると、隣から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「大丈夫ですよ。すぐに終わりますから。」
その声に思わず顔を上げると、有澤先生が問診票を見ながら、若い患者にワクチンの注射を打つ準備をしていた。
「◯◯さん、左腕出しましょうね。」
蕾は直ぐに患者の体制を整え、打ちやすいように患者の腕を支えた。
彼のシリンジを持つ手際よい動きに目を奪われる。ふとした瞬間、蕾の視線が彼と交差した。
ーーその時だった。
次の患者の腕を押さえていた蕾の手に、不意に有澤先生の手が重ねられた。
「……っ。」
体温の高い大きな手が、蕾の白い手袋の上に重なる。
ドキンと心臓が跳ねた。
周りの目がない隙をついた巧妙なスキンシップに呼吸が乱れる。
「では、あちらで待機しててくださいねー。」
そう言いながらさりげなく手を離す有澤先生。
だがその温もりは長く蕾の指先に残った。



