春の風が、病院の中庭をやわらかく撫でていた。
 古い桜の木が一本、そこに立っている。


毎年、他の木々より少し遅れて咲くその桜は、患者たちの間では人気の場所であった。




精神科病院に勤めて
1年目の看護師、桜井蕾(サクライ ツボミ)。


私は今日も白衣のポケットに手を突っ込み、ぼんやりと廊下を歩いていた。


春の陽気とは裏腹に、病院の中はどこかひんやりとしている。


そんな中、ふと耳に飛び込んできたのは、すすり泣く声。



どこの病室だろうかと耳を澄ますと、どうやら3階の奥の方から聞こえてくるようだ。




顔見知りの患者さんじゃない。新しい患者さんかな。



 
 「失礼します。」
 
 


ノックもそこそこに病室のドアを開けると、そこには、ベッドにうずくまって泣いている彼女がいた。



肩は小刻みに震え、時折、嗚咽が漏れる。黒く染まった髪が、彼女の悲しみを物語っているようだった。



 
 「あの、大丈夫? 誰か呼ぼうか?」


 
 声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。大きな瞳は涙で潤んでいて、頬にはまだ温かい涙の跡が残っている。そばかすが薄っすらと見える、儚げな顔立ち。20歳くらいの年だろうか。



 
 「...大丈夫...。」


 
 か細い声でそう答えたものの、その声は震えていた。私は、彼女のそばにそっと腰を下ろす。




 
 「私、看護師の桜井 蕾。今日から担当させてもらうことになったんだ。よろしくね。」




 
 「猪尾 千尋(シシオ チヒロ)...。」




 
 「千尋さん、だね。つらい時は、我慢しなくていいんだよ。泣きたい時は、泣いていいんだから。」




 
 そう言って、私はそっと千尋さんの背中を撫でた。


温かい感触が、私の指先から伝わる。千尋さんは、しばらくの間、私の肩に顔をうずめて泣いていた。





その間、私はただ静かに、彼女の背中をさすり続けた。



病院の廊下から聞こえる食器の音、遠くで鳴る救急車のサイレン、そんな日常の音がかき消されるほど、千尋さんのすすり泣く声は続いていた。



 
 「ありがとう...。」



 
 しばらくして、千尋さんは顔を上げた。




涙でぐしゃぐしゃになった顔で、私にそう微笑みかけた。

その笑顔は、まだ幼さを残していて、思わず胸がきゅっとなった。


中学時代のいじめが原因で心を病んだという彼女の背景を知っているだけに、これからどう接していけばいいのか、少し不安がよぎった。



でも、この子の笑顔を、もっと見たい。そう強く思った。



これが、千尋さんと私の、そして私たちの物語の始まりだった。