ヒューゲル家の離れにある一人息子マティアスの部屋に入ったわたしは、壁掛け燭台(しょくだい)に光の魔素(マナ)を送り込んだ。
 真っ暗だった部屋が途端に明るくなる。
 外から覗かれるのを懸念して、念の為カーテンは開けないでおく。

 白猫のアルがなぜだか不機嫌そうな顔で、探偵よろしく部屋の中を勝手に歩き回り始めた。
 それを横目に見ながら、わたしも早速室内のチェックに入る。

 空気がよどんでいるが、中身は思っていたより普通の部屋だ。
 勉強熱心だったようで、本棚には専門書がギッシリ詰まっている。

 羊皮紙や重ねられた本で埋まった机。何やら色々書き殴られた大きめの黒板。部屋の隅に置かれたベッド。
 魔法学の専門家だと言っていたが、この部屋は研究室を兼ねていたのだろう。

 と、アルが部屋の中央でしゃがみ込むと、いきなりそこに敷いてあった小さなラグをめくった。
 不審に思って近づいたわたしは、そこに現れたモノを見て息を飲んだ。
 板張りの床に白墨(チョーク)で何かの模様が描かれた形跡がある。
 ほとんど消えているが、それでもこの気配は間違えようがない。 

「……召喚した(よんだ)ね。アルはどう思う?」

 アルは振り返りもせず吐き捨てた。

「ボクに聞くかね! ここで悪魔の書を召喚し、成功したんだ。完全にアウトだよ!」
「写本の所有者はマティアスさんか。参ったわね」
「人間ってやつは本当に()しがたいな! なぜ身の丈に合ったもので満足しないのか!」

 ありゃ。珍しくアルが怒っている。
 とはいえ気持ちは分からないでもない。
 勝手に自分のコピーを作られて不特定多数にばら撒かれてたら、わたしだって怒る。

「お願い、機嫌を直して、アル。わたしだって人間なのよ?」

 すると、アルがいつもの斜に構えた猫じゃない、悪魔そのものの表情になってわたしの顔を覗き込んだ。
 金色の目が禍々しさ全開で光る。
 あ、駄目だ。アルってば本気で怒ってる。

「人間? キミが? ちゃんちゃら可笑しいね! キミはまだ人間のつもりでいるのか? 忘れたか? キミがボクを! 悪魔の王の力を得るために対価として差し出したもの、それは!! ……ごめん、言いすぎた」

 わたしの頬を、涙が伝う。
 さすがにそれはひどすぎる。わたしにだって感情はある。

 部屋の中を沈黙が流れる。 
 わたしは黙って涙を拭って言った。

「それでも……わたしはまだ人間だわ。猶予はあまり残っていないかもしれないけれど」
「そう……だな。悪かった。謝る。ごめん」
「ううん。アルが怒るのも分かるから。でも、あの時誓ったように、わたしが責任持って悪魔の書を一冊残らず処分するから」
「二人で、な。……おい見ろ、ボク自身を召喚した形跡もある。でもおかしいな。時系列からすると悪魔の書の入手後だ」
「え?」

 アルが(ひざまず)いて床を丹念に触る。
 悪魔王だけあって、わたしの使う魔法とは精度が違う特殊な分析魔法を使っているのだろうか。
 
「だってアル、召喚に応じられないでしょ?」
「そうだね。今だとエリンと契約しているし、召喚が行われたであろう当時も、ボクは『蒼天のグリモワール』を通してイーシュファルト王国に縛り付けられていたから召喚したところで出現することすらできない。現に失敗した形跡がある」
「悪魔の書を入手していながら新たに悪魔を召喚する目的って何? しかもアルを名指しで?」
「可能性としては……いや、まさかね」

 アルが気になる言い方をして途中で打ち切った。
 気にならないではないが、とにもかくにも今は調査だ。
 わたしは更に丹念に床の召喚陣を調べているアルを放って、今度は本棚を覗いた。
 背表紙を見ただけで部屋主のレベルが分かる。

「蔵書から推察するに、マティアスさんは相当に頭がいいね。村の分校の教師にはもったいないレベルだわ。ほら、悪魔学の本まで置いてある」

 手に取った悪魔学の本を何気なくパラパラっとめくったわたしの手が止まる。
 よりにもよって、悪魔王ヴァル=アールのページに折り目が付けてある。
 間違いなくアルが目当てだ。でも何で?

 黙って本棚に本を戻したわたしの耳に、誰かの(ささや)きが聞こえた。
 ハっとして立ち止まったが、すぐに、リアルタイムで誰かが呼んだわけではないと分かり、魔力の流れを探った。
 録音だ。この本棚に接触するであろう悪魔の書の持ち主に反応して、自動メッセージを送りつけるタイプのものだ。

 声はアルにも聞こえたようで、床の分析をストップしてわたしの傍にくる。
 わたしは囁き声の指示通り、本棚の隅にあったアルバムを取り出した。
 何ページかパラパラっとめくったわたしは、そこで意外なモノを見つけた。

「ありゃ。そうきたか」

 アルバムには学生時代の写真なのか、マティアスが学友数人とこの部屋でくつろいでいる様子が写っていた。
 その中の一人に見覚えがある。
 ヒゲこそ生えていないが、間違いなく御用馬車に乗っていた貴族だ。

「繋がってたんじゃない。なら調べ物はやっぱりこの部屋だったんじゃないの?」 
「そうだな。どう考えても捜索はマティアスさん絡みだもんな。でも黒ヒゲは、この部屋の存在を知ってるんだろ? だったら母屋なんか探さずに真っ直ぐここを目指すはずだよな? 母屋なんてただの生活の場でしかないんだから。するってーと、何か別の目的があったのか……」

 本棚から離れたわたしは、次に黒板を見に行った。
 色々貼られた羊皮紙の中の一枚に、剣呑なモノが見えたからだ。
 魔法陣の図柄だ。
 早速解析する(よんでみる)

「キャプティス(捕獲)……アグレガツィオ(集約)……コンベルシオ(変換)……。何かを大量に集めて変換しようとしているのか……。 んー、なんだろ。術式からするとかなり大規模な魔法を行使しようとしているけど、マティアスさんはいったい何をしようとしているんだろう」 

 コンコン。
 不意に聞こえたノックの音に、緊張が走る。
 瞬間的に白猫アルと目を合わせたわたしは、反射的にうなずいた。
 意を悟ったアルが姿を消す。
 魔法生物であるアルは普通の人には見えないが、念のためだ。

「……はい?」
「エリンさん、調べ物は済んだ? お茶の用意ができたんだけど、飲まない?」

 ハンナの声だ。
 どうやら普通にお茶のお誘いらしい。
 
「今いきます!」

 解けぬ謎を抱えながらも気分転換を兼ねて、わたしは母屋にお邪魔することにしたのであった。