油断した。
 だって、そんな気配などまるでなかったのだ。

「うかつだったなァ、お嬢さん」

 白い清潔なベッドの上で、男のとがった爪が、乙女の細い首をカリリとひっかく。それから下へと指を動かし、豊かなふくらみをそっと抑えた。白い皮膚の下にあるのは心臓だ。男の瞳孔がキュウと絞られ、人型をしていながらも獣のように思えた。
 獲物をいたぶるようなその戯れは、「今からお前を食らうぞ」という宣言に等しい。
 乙女は下唇を噛んだ。両手は頭上に束ねられ、何とか動かせる指先で宙に魔法式を書くも、パスン、と間抜けな音を立てて光が散る。両手首に貼られた、不思議な文字の描かれた紙が乙女の魔力をすっかり無効化していた。

「かわいそうにな。まあ恨むなら、こんな場所にあんたを遣わした父親を恨みなよ。聖女さま?」

 そう告げて、酷薄に笑った男の口から、鋭い牙がのぞいた。


 ***


「——クラウディア先生!」

 夕日の差し込む廊下に名を呼ぶ声が響き渡り、その乙女は振り返った。

 氷柱のような銀髪を後ろの低い位置でひとつに結わえ、紺色を基調とする質素なワンピーススカートの背中に腰の位置まで流している。
 白皙の美貌は清らかで、周囲を圧倒するような華やかさはないものの、百合の花のように楚々としている。銀色のまつ毛にふちどられた双眸は、神秘的なヴァイオレットに色づいていた。

 白百合の聖女。その乙女の名を、ユリア・クラウディアという。

「どうしました。エリナ、ナージャ」

 ユリアは、自身を呼び止めた少女たちを見下ろし、小さく首を傾げた。にこりともしないその表情は冷たい印象を与えがちで、生徒、特に新しく入ってきた一年生には恐れられている。
 しかし、二年生の制服(胸元のリボンの色が青。ちなみに一年生は赤で、三年生は緑)に身を包んだ少女ふたりは頬を赤らめ、あの、えっと、と口ごもる。ユリアの腰ほどの背丈しかない、妖精族の愛らしい少女たちであった。

「あの。明日から、エルグナンド公国に出張に行かれると、校長先生からお伺いして。無事にお戻りになられるよう、御守をお渡ししたくて……」
「一族に代々伝わる、女神クリュティアのご加護を受けた魔除けの石なの。どうか受け取っていただけませんか」

 小さな手のひらにそっと乗せられていたのは、琥珀色の石のペンダントだった。
 そっと受け取り、まじまじと検分する。ただの宝飾品ではなく、強い魔力が封じ込められており、ユリアは目を瞠る。

「こんな貴重なものを……。よろしいのですか?」
「ええ、ぜひ」
「お休みのときも、肌身離さずつけていてくださいまし」

 きっと、無事にお戻りになってね。約束よ。
 大きな目を潤ませて、両手を胸の前でにぎる生徒たち。ユリアに祈りをささげているようにも見える。

(な……なんて健気で心優しい子たちなのでしょう……!)

 ユリアは決して表情には出さず、歓喜に打ちふるえた。もらった御守に頬ずりをしたい気持ちをなんとか抑え込む。
 こう見えてユリアは子ども好きで、生徒たちを心から愛している。感情が表に出にくいだけで決して冷酷ではないのだ。むしろ気持ちが昂れば、ちょっと暴走気味になる。
 もう十九歳になったのだからと己を律し、ユリアはこほんと咳ばらいをした。

「ありがとうございます。ええ、心配は無用ですよ。三日後には戻ってきますから。私が不在にしている間も、しっかりと勉学に励むように」
「……! はい!」

 少女たちはぱあっと頬をほころばせ、それから「失礼します」とおじぎをして駆けていった。
 ふっと吐息をこぼしたその表情は珍しくほころんでいたが、それに気づく者はいなかった。
 

 つづく

(コンテストの「1話だけ応募」部門参加のため、冒頭のみですが完結設定にしています)