カラス化ガール

 その直後、廊下の向こうから、ゆっくりと足音が近づいてきた。
 歩く反響が強めなので、上履きではなく、革靴のようだ。教師か。

 二人が振り返ると、グレーの背広を着た、中年の男性教師。
 恵萌(めぐも)初子(はつこ)の順で、ほぼ同時に、
菅山(すがやま)先生!」
「おはようございまーす!」

「おー、おはよう」
 のんびりした口調。菅山先生。
 社会科の教員で、剣道部顧問である。
 大柄な菅山は、少しパーマのかかった髪を、太い指でコリコリかきつつ、
梅原(うめはら)さん、降幡(ふりはた)さん。やっぱり、君たちか。声がすると思ったら」
 「梅原」は、初子の名字である。
 初子が、首をぐいっと上げる。身長は、菅山の胸を、ちょっと越えたぐらいだ。
「今、第三十八回目の、公式戦が終了したところなのです」
 かしこまった態度。もちろん、冗談半分である。

 菅山は苦笑するが、微笑(ほほえ)みとも取れる。この教師の笑い方には、どこか、人をホッとさせるものがある。
「はい、御報告ありがと。ごくろうさま。どっちが勝ったの?」
「えっ……と」
 口ごもる初子。自分が勝ったため、遠慮をしたのか。
 代わって、恵萌が答える。
「スーパーボール同好会の勝利でした。これで二十四勝。私――紙飛行機同好会は、まだ十勝」
「あとの四回は?」
 菅山はいつも、生徒の話を真面目に聞いてくれる。くだらなそうな話題でも、茶化すことがない。
 今度は初子が、
(いち)引き分け、三無効試合」
「なるほどね」
 うなずきつつ、菅山は、そばに立ててあるポールスタンド看板をちらりと見る。手製で、高さは、一メートル程度。

 スタンドの先端に、画用紙の看板が付いている。赤に白抜きで、「DANGER! 左右確認! スーパーボール注意!」。クレヨンの手書きだ。初子作。ぶ厚く塗りたくられ、まるで、岡本太郎の絵を思わせる。
 校内でスーパーボールを(はず)ませる際には、毎回、この看板を、廊下の曲がり角に立てているのだ。

「……だけど、梅原さんね、廊下で物を投げるのは、原則禁止なんだからね。――こういう、立て看板で注意喚起してるのは、まあ、えらいとは思うけど」
 と、菅山は、教師として、くぎを刺すのも忘れなかった。
「えー、あっ、はい」
 初子が、笑みを小さくして、ここは神妙にうつむいた。スカートのポケットにスーパーボールをしまって、腕を下ろし、左右の手を、太ももの前に添える。
 そっとスカートの(すそ)を押さえるような、しおらしいポーズ。
 自分の損得を考えて、あえて黙ったのだ。親しい初子と恵萌は、時々この話題で盛り上がるので、それを見抜けた。
 特に、菅山先生は、自分たちの味方となってくれている大人である。機嫌を損ねたくはない。女子高生なりの処世術であった。

(まあ、結局、世の中は、さじ加減とバランス感覚、妥協で成り立ってるってことよね)
 と、恵萌は心の中でつぶやく。

 初子のスーパーボールは、厳密には「投げてる」わけではない。床に、弾ませているのだ。直接、速球で投げる場合に比べ、だいぶ危険性は低い。
 また、人が少ない場所・時間帯を選んでもいる。
 もっと言えば、連日の雨天の時には、例外的に、運動部が校舎の廊下でランニングをしていることだって、あるのだ。あれの方が、よっぽど危ないはずである。
 生徒の安全を考慮するのであれば、あっちこそ先にやめるべきだ。

 ……など、など。
 教師側とて、決してクリーンなわけではない。別に、ことさら、そこを強調してケンカを売る必要はないが、反撃の材料は、隠し持っておいた方がよい。
 初子も、今、腹の中でそう計算しているはずであった。

(……まあ、こういう、いい加減で不安定な所こそ、人間社会の素晴らしさなんだろうけどね)
 断じて、皮肉っているわけではなく、これも恵萌の本音なのだった。
 なぜなら……
(――まさに、その(すき)を突いて、私は、人々の中に紛れ込んで、目をくらまして、溶け込んでるのだから)
 ということであった。