その部屋は、ダンスの練習室だ。部屋の中は明かりが点いておらず、窓から差し込む月明かりのみが広々とした空間を薄く照らしている。鏡張りの壁が月光を反射し、静寂に包まれたムードのある美しさが部屋を満たしていた。
 部屋の中央に立ち、私はシヴァと向き合った。ポケットから、もう1つ準備していた箱を取り出す。

「明日には、バルバラとかルネとか、皆に配るプレゼントもあるんだけどね」

「これは、シヴァのためだけに用意したの」

 お父様の物に比べれば比較的簡素な箱。それを私はシヴァに渡した。

「これを、俺に?」

 しげしげと箱を眺めながら、シヴァは私の顔を見た。微笑みを返すと彼は箱を開ける。
 箱の中には、銀の細い輪に小さな一粒の宝石があしらわれた、シンプルなピンキーリングが入っていた。宝石は私の瞳と同じ、薔薇色のロードナイト。質は良いが小ぶりなものを頑張って探したのだ。指輪はは月明かりを浴びて、控えめな輝きを放っている。

「あのね、ピンキーリングって言って小指に付ける物なの。願い事が叶うんだって」

 なんだか恥ずかしくなってあれこれと説明してしまう。今、私はどんな顔をしているんだろう。

「私、シヴァに幸せになってもらいたくってね。だから、シヴァの願い事が何か叶えばいいなって……」

 恥ずかしくて、シヴァの顔が見れなくて。俯きながらあれこれと言葉を口走る。視界の端で、さっそく左手の小指に彼が指輪を付けたのが見えた。ルネに協力してもらって、こっそりサイズも調べてあったのだ。それはシヴァの指にぴったりサイズが合う。
 受け取ってもらったことに安堵していると、指輪を付けた手が私の頬に触れた。強制的に顔を上げさせられて、驚いてしまう。

「え?」

 視界いっぱいに広がる、シヴァの美しい顔。美女とも見紛う、中性的な顔。鼻筋や彫りの深さが男性的に見え、月明かりが影を落としている。シミ1つない真っ白な肌は、心なしか赤くなっていた。空色の澄んだ瞳が私を映す。彼の動きに合わせて、束ねたシルバーグレイのサラサラの髪が揺れる。

「え? え?」

 そっとシヴァの顔が近づいてくるのが分かって、咄嗟に私は目を瞑る。え? もしかして、キスされちゃうの⁉



 チュッと軽いリップ音。



 予想していた感覚は、唇ではなく頬に当たった。
 あまりの予想外のことに驚いて私は目を開ける。すでに離れたシヴァは、いたずらっ子のようにちょろっと舌を出していた。そんな表情、今まで見たことがない。可愛い。というか、色っぽい。

「ありがとな、リリー」

「へ? あ……」

 そこまで来て、ようやく私は揶揄われていたことに気付いた。一気に顔が赤くなったのが分かる。

「シヴァ! 遊んでるでしょ!」

「ははっ」

 私が掴みかかると、シヴァは声を上げて笑う。その姿は年相応の少年のようで、いつもの事務的でほとんど表情の変わらない彼からは想像ができなかった。

「そんなにふざけるなら、返してもらうから! 返して!」

「いや、悪い悪い」

 私が指輪に手を伸ばすと、彼は慌てて身を翻した。大事そうに右手で指輪を覆ってしまう。

「大事にするよ。願い事も、考えておく」

「うん、そうして」

 その言葉に安心し、私は手を引っ込めた。

「願い事はね、誰にも言わない方がいいって聞いたことがあるよ。だから、一人でしっかり考えてね」

「分かった」

 シヴァは微笑むと、大切そうに指輪にキスをする。頬へのキスを思い出して、私は再び顔を赤くする。そんな様子をちらりと横目で見ると、シヴァは私から少し離れた。

「じゃあ、俺は仕事に戻るから。リリーは少し時間を置いて戻ってくれ。誰かに見つかって、変な噂立てられたくないだろ?」

「う、うん……」

 そのことにはじめて気付いた。一緒に戻ろうかと思っていたが、確かにアレクサンドという婚約者がいる令嬢が執事とはいえ男と密室にいたことがバレたら大変だ。
 シヴァが部屋から出るのを、私は黙って見送った。

「なんか、逢引きみたい……」

 顔の赤みが引くまでは、まだまだ時間がかかりそうだ。





***





 長い廊下を歩く影。パーティの喧騒から離れたその空間は、静寂に包まれている。一人になったシルヴィオは、歩きながら指輪の入った箱を漆黒の執事服のポケットに仕舞った。
 彼は窓のない壁に向かって歩きながら、深く考え込んでいる。その美しい横顔には、先ほどの茶目っ気は消え失せ、苦悩と真剣な決意が入り混じった表情が浮かんでいた。

「昔っから、変わらないな……」

 一人でそう呟きながら、彼は皮肉気に笑う。その笑みは、リリアンナに向けられたものではなく、自分自身の立場に対するものだった。

『シヴァにはしあわせでいてほしいの』

 幼い時から、ずっとそう言って屈託なく笑ってくれていたリリアンナの姿を思い出す。明るくて、頑張り屋で、どこまでも自分を信じ、愛してくれているのが分かる。そんな彼女への気持ちは、十二分に育っていた。

(あいつが、欲しい。本当は、アレクサンドなんかに渡したくない)

 リリアンナがアレクサンドとの婚約を拒もうとしているのを、彼はよく分かっていた。それでも、不十分なのだ。本当に婚約解消できるかは分からない。それに、今の自分の身分では、たとえ彼女が一人身になったとしても、結婚相手として迎えることすら叶わない。

「チャンスが、欲しい」

 無意識に、彼はピンキーリングを付けた左手の小指をそっと握りしめた。

「そしたら、きっと……」

 彼は立ち止まり、握りしめた手を開いて指輪をじっと見つめる。ピンキーリングは月明かりのない暗闇の中でも、光り輝いている。薔薇色の宝石はリリアンナの瞳を連想させ、彼女の温かい気持ちを宿しているかのように見えた。

「手袋を買わないとな」

『願い事はね、誰にも言わない方がいいって聞いたことがあるよ』

 隠した方が願いが叶いやすくなるなら、この指輪だって同様だろう。それになにより、大切なこれを人に見られたくなかった。

(もしも、願いが叶うなら)

 再び彼は指輪にそっと口付けた。大切な女性に触れるかのように。

(どうかいつか、リリーと結ばれますように)

 胸中で誓う。その途端、心臓が激しく脈打った。
 あの時、唇にキスしなかった自分を褒めてもらいたい。理性を保った自分に感謝しながら、先ほどの出来事を思い出して顔を赤くする。彼は片手で顔を覆ってそれを隠した。