蝶々結び【完結】

春の風が、やさしく頬を撫でた。




 病院の庭に咲く桜は、淡く薄紅色の花びらを散らしながら空へ舞い上がっていく。



 結衣はベンチに座り、カルテ整理の合間に小さな弁当箱を開けた。

 その隣には、いつの間にか陽向先生が腰を下ろしていた。



「相変わらず、手作りなんだ。」


「ええ。陽向先生は最近コンビニのおにぎりばかりで健康に悪いので、今日は余分に作ってきました。」


「……バレてたか。」


 そう言いながら、陽向先生は箸を取り、少し照れたように笑った。


 その笑顔が春の日差しよりもあたたかく、結衣の胸にじんわりと染みていく。



 桜の花びらがふたりの肩に落ちた。

 陽向先生がそれを指先で拾い上げ、結衣の髪にそっと留める。



「……綺麗だね。」

「ほんと、今年の桜も綺麗ですね。」

「違うよ、橘さんが。」



 不意に心臓が跳ねた。

 でも、もうあの頃のように逃げ出したくはならない。

 どんなに恥ずかしくても、この人の隣で笑っていたいと思えるから。





 ふと、結衣は膝の上に置いた小さなリボンを見つめた。

 昼休みに、患者の子どもが落としていった髪飾りだ。

 ほどけてしまった蝶々結びを、指先で直そうとしていると――陽向先生がそっと手を重ねた。



「貸して。……一緒に、結ぼうか。」




 二人の手が重なり、ゆっくりと紐が形をなしていく。

 柔らかく、でも確かに結ばれたそのリボンは、光に透けて小さく揺れた。





「……できましたね。」


「うん。ほら、ほどけそうに見えて、ちゃんと強い。」


「まるで……私たちみたい。」



 結衣が小さく笑うと、陽向先生も微笑んだ。




「そうだね。たまに緩むかもしれないけど、何度でも結び直せばいい。」



「ええ。……その度に、ちゃんと隣にいてくださいね。」




 陽向先生は答えの代わりに、結衣の頬にそっと唇を寄せた。


「…っ!もう、陽向先生?」


「ははっ、ついね。」






 風がふたりの間を抜けていく。

 桜の花びらが、結ばれたリボンの上にひとひら、舞い落ちた。






 あの日、ほどけてしまった蝶々結び。


 もう一度結び直せる日が来るなんて、思ってもみなかった。



 けれど今、結衣は知っている。
 ――蝶々結びとは、支え合う心そのものなのだと。



 どちらかが緩んでも、もう片方がそっと引き寄せれば、また結ばれる。




 その形は不器用でも、真っ直ぐで、優しい。



 そして、春の風が運ぶ。
 ふたりの“結び”は、ほどけることなく――これからも、永遠に。














Fin.