蝶々結び【完結】

夜。



 陽向先生の部屋のドアをノックすると、
 中からふわりとカレーの香りが漂ってきた。



「いらっしゃい。」

 陽向先生はエプロン姿で迎えてくれた。



「先生、料理できるんですね。」

「失礼だな。こう見えて、一人暮らし長いから。」




 テーブルにはカレーとサラダ、そして温かい紅茶。
 特別なものではないのに、結衣は胸がいっぱいになった。



「なんか、こういうの……不思議です。」

「何が?」

「病院ではいつも“陽向先生”って感じなのに、今は……。」




「今は?」



「……ただの"碧さん"、って感じで…。」



自分で言って急に恥ずかしくなる結衣。


 陽向先生も少し照れたように笑った。



「ははっ、そう呼ばれるの、嬉しい。」




 食事のあと、二人でソファに座りながら、
 テレビを眺めたり、他愛もない話をした。



「橘さん、仕事のときと違ってよく笑うね。」


「え?」


「うん。その顔、ずっと独り占めしたい。」



 結衣は頬を赤らめて、小さくつぶやいた。



「……もう、陽向先生、ずるいです。」


 陽向先生は、優しく笑いながら、
 そっと彼女の手を握った。



「あれ、名前で呼んでくれないの?」




 心臓が跳ねる。
 けれど、その響きはどこまでも穏やかで、
 あの日の川辺の光を思い出させた。




「えっと……、碧…さん。」


「結衣…。」




呼び慣れていないのと不意に名前を囁かれ、
顔を真っ赤にする結衣。
それを愛おしい目で見つめる、碧。



 二人の間に、やわらかな沈黙が流れる。
 手と手がほどけないように、優しく結ばれていた。