「実は急遽、当直の香川先生と交代になってね。風邪ひいたらしくて。」
爽やかに笑う陽向先生。
「あ、そうだったんですね。じゃあ、今晩よろしくお願いします。」
結衣は努めて平静を装うが、内心は(聞いてないんですけど……!)と心臓が暴れていた。
陽向先生はクスッと笑い、少しだけ首を傾げた。
「そうだ、橘さん。308号室の田中さんの件で相談したいんだけど、ちょっといい?」
「308号室……?」
結衣は一瞬、眉をひそめた。
(あれ? あの部屋、今は空室のはずだけど……。)
首を傾げながらも、「わかりました」と返事をして、陽向先生の後をついていった。
人気のない廊下を抜け、空いた個室の前で陽向先生がドアを開ける。
結衣は中に入り、戸が閉まった瞬間――
静寂がふたりを包みこんだ。
空気が、少しだけ重たく感じる。
「……あの、陽向先生。308号室って、今どなたも入ってないですよね?」
結衣が不思議そうに尋ねる。
その問いに、陽向先生はゆっくりと結衣の方へ歩み寄った。
そして、すぐ目の前まで近づくと――
顔の横に手をつき、壁に追い詰めた。
トン、と静かな音。
「……っ!?」
結衣の呼吸が止まる。
(ま、まさか……。)
陽向先生は、にやりと唇の端を上げた。
「橘さん、大丈夫? 僕だったからいいけど、こうやって簡単に男の人について行ったらダメだよ?」
その声は、いつもの爽やかで優しいトーンより少し低くて、耳に心地よく響いた。
思わず結衣の鼓動が早まる。
「な、なに言ってるんですか。もう……っ、仕事中ですよ!」
小声で怒りながらも、結衣は動揺して陽向先生の白衣の袖をつかんだ。
陽向先生は、目を細めて笑う。
「だって、あれから橘さん、僕のことまた避けようとしてたでしょ? ちょっと寂しいなぁ。」
そう言いながら、結衣の髪の一房にそっと指先が触れた。
結衣の心臓が跳ねる。
「や、やめてください……っ。」
小さく声を震わせる。
陽向先生は意地悪そうに目を細めた。
「ん~? 橘さんを堪能したいだけだよ?」
「……っ、ほんとに何言ってるんですか!」
焦りと、どこかくすぐったいような感情が入り混じる。
結衣は必死に目をそらすが、陽向先生の瞳があまりにも近くて、逃げ場がない。
「橘さん。」
低い声が耳元に落ちてくる。
「……あれから、僕のことしっかり意識してくれた?」
その囁きに、背筋がゾクリとした。
「そ、それは……っ……」
返事に詰まる。何も言えない。
――そのとき。
陽向先生の胸ポケットが、ブルブルと震えた。
当直当番用の電話だ。



