蝶々結び【完結】

病院に着くと、朝の廊下はすでに人でいっぱいだった。


 看護師たちが忙しそうに行き交い、患者さんの笑い声も聞こえてくる。




 その中に――いた。




 陽向先生。

 白衣の袖をまくり、入院患者の小学生の男の子に笑顔で話しかけている。





「じゃあ、退院したらちゃんと宿題やるんだよ?」


「はーい!」




 そのやり取りに周囲の看護師たちがくすっと笑う。
 陽向先生の爽やかな笑顔は、まるでテレビドラマの医者みたい。




「今日も陽向先生、爽やかイケメンだよねぇ~!」


 隣で柚希が、朝からテンション高く囁いた。



「ねぇ結衣、あの笑顔ずるくない?患者さんも看護師もみんな落ちてるよ?」



「……はぁー。」



 結衣はため息をついて、カルテを整理しながらぼそっと呟いた。



「別に……そんなに爽やかでもないけどね。」


「え?」と柚希が顔を向ける。




 結衣は視線を泳がせた。



(昨日の陽向先生、全然“爽やか”じゃなかったもん……)



 頭に浮かぶのは、冷静じゃなく、少し意地悪で、
 でも真剣な眼差しで抱きしめてきた陽向先生の姿。




 思い出すだけで、また頬が熱くなる。



「……結衣?」
 柚希がじっと覗き込む。




「な、なに?」



「ちょっとー!顔、赤くない?!」
 柚希がにやにやしながら近づいてくる。





「え、まさか!陽向先生と進展あったの?!」



「な、なんにもないよっ!」



 あわてて手を振る結衣。

 でも声が少し上ずってしまって、逆に怪しく聞こえる。





「ほんとぉ~?だってその反応、絶対なんかあったやつじゃん!」



「ち、違うってば!昨日は……ただ……っ!」





 そこまで言いかけて、ふと前方に気づいた。




 ――陽向先生。

 ちょうどこちらを振り向いた彼と、目が合った。




 ほんの一瞬。
 けれど、心臓が止まりそうになるほど長い時間に感じた。





 彼はふっと目を細めて、いつもの“完璧な笑顔”を浮かべた。
 柔らかく、穏やかで、何事もなかったかのような微笑み。




 だけど――その笑顔の奥に、
 昨日の夜の“あの眼差し”が一瞬だけ覗いた気がした。



「……っ!」



 結衣はとっさに視線をそらして、カルテに顔を埋めた。





「きゃぁぁぁぁ!!今の何?!今の見た!?目、合ったよね?!
 しかもあの笑顔、完全に特別待遇じゃん!!」




 柚希が興奮気味に肩を揺さぶってくる。



「ちょ、やめてってば!ほんとに違うからっ!」
 焦りながらも、耳の奥まで真っ赤になっていくのを感じる。



(……やっぱり、いつもの顔なんてできない。)






 結衣は胸の奥をぎゅっと押さえた。

 昨日の温もりと、今日の笑顔。

 どちらも“陽向先生”だけど――どちらも、私を揺らしてくる。





 そして、ほんの少しだけ。
 その揺れが心地いいと感じている自分に気づいて、
 結衣はまた、そっと視線を逸らした。