蝶々結び【完結】




「え、ちょっと、橘さん?」




 陽向先生が慌ててもう片方の手を伸ばす。




 けれど結衣はそれを振り払うように続けた。




「こんなことして、女が喜ぶとでも……?」
「女遊びしたいんだったら――っ!」





 その言葉の途中で、ぐいっと身体が引き寄せられた。
 次の瞬間、強く、しっかりと抱き締められる。





「……っ!陽向先生?!ちょ、やめっ……!だめっ……!」





 必死に胸を押して離れようとするが、びくともしない。

 陽向先生の腕は、ただ静かに、けれど確かに結衣を包み込んでいた。






「……ごめん。」






 耳元で、低く優しい声が囁かれる。




「可愛いくて……意地悪しすぎた。泣かせるつもりじゃなかったんだ。」



 その言葉と同時に、結衣の右目から涙がこぼれ落ちた。
 あたたかい腕の中で、胸の奥がぐちゃぐちゃになる。





(なんで、泣いてるの……?)




 自分でも分からない。
 けれど涙は止まらなかった。




 抵抗していた手が、だんだんと力を失っていく。
 腕をだらんと下ろすと、陽向先生の胸の鼓動が、すぐそこに聞こえた。





 静かに、でも確かに響く音。

 それがなんだか懐かしくて、心が少しずつ溶けていく。





「……でも聞いて?」





 陽向先生が、結衣の髪に顔を寄せたまま、小さく囁いた。






「僕はずっと――ずっと、橘さんしか見てない。」







 その声は、嘘を許さないほど真っ直ぐだった。

 鼓動と息遣いが混ざって、胸の奥まで響く。





「本当だから。信じてほしい。」





 ぎゅっと、さらに強く抱き締められる。
 その温もりに包まれながら、結衣は何も言えなくなった。







 胸の奥に固く結んでいた“心の糸”が、
 少しずつ、ゆっくりとほどけていくのを感じる。





 ――この人は、優しいだけじゃない。
 怖いほど真っ直ぐで、不器用なくらい本気だ。




 そんな陽向先生の腕の中で、
 結衣はもう抵抗することをやめた。







 夕方の診察室には、
 ほんのりとした温もりと、二人の呼吸音だけが満ちていた。