蝶々結び【完結】



その日の空は、灰色だった。



 朝からどんよりとした雲が広がっていて、病棟の窓から見える街並みもどこかぼやけていた。



 橘結衣は、カルテの入力を終えて椅子にもたれた。


 画面に映る自分の無表情な顔が、やけに冷たく見える。



(……何してるんだろ、私。)



 自分でも気づかないうちに、ため息が漏れた。
 陽向先生を避けるようになって、もう一週間が経っていた。



 理由は明確だ。


 ――噂。



 あの話を聞いて以来、どうしても目を合わせられなくなってしまった。


 別に、嫌いなわけじゃない。
 むしろ……。



 窓の外に目をやる。


 雲の切れ間から、かすかに光が差している。



「雨、降りそう……。」


 呟く声が、病室に小さく響いた。



 こんな空の日は、どうしても思い出してしまう。





 ――早瀬先生と別れた日のこと。




 外は、今日と同じように曇っていた。

 あの時、心はぐちゃぐちゃで、何を信じたらいいかも分からなかった。

 病院の裏口から飛び出した時、雨の冷たさも感じないほど、泣きそうだった。

 どしゃぶりの中を歩きながら、「もう信じない」と心の奥で固く結んだ。



 誰かを好きになるたびに、自分が壊れていくような気がしたから。



 そのはずなのに――。




 最近、陽向先生の笑顔を見るたびに、

 胸の奥で何かが少しずつほどけていく。



(でも、ダメだ。もう傷つきたくない。平穏でいたいの。)




 そう言い聞かせても、ふとした瞬間に、彼の声を探している自分がいる。



 廊下で聞こえる足音、ふいに呼ばれる「橘さん」の声。



 それだけで、心臓が一拍早く跳ねる。




(ほんと、情けない……。)




 そう思うたび、また息が苦しくなる。




 もしこのまま、噂が続くようなら――
 ちゃんと、陽向先生に伝えよう。
 




 病院には可愛くて明るい看護師がたくさんいる。



 みんな陽向先生に優しいし、彼にお似合いの人は他にいる。






 そう考えた瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。


 でも、その痛みには気づかないふりをした。


 ――気づいてしまったら、もう戻れなくなるから。