蝶々結び【完結】

夕方。




 陽が沈みかける頃、更衣室には勤務を終えた医師たちの笑い声が響いていた。


 陽向碧はシャツのボタンを外しながら、耳の端にひっかかる言葉を聞いた。



「なあなあ、聞いたか?内科A棟の橘さん、マジで綺麗だよな。」


「わかるわー。なんか冷たそうだけど、そこがまた良いんだよな。」


「彼氏いないらしいぞ。あんな美人が独身とか信じられないよな。」



 くだらない冗談混じりの会話。
 陽向は黙って聴いていた。
 彼女の名前が出た瞬間、胸の奥が小さくざわついた。


「そう言えば陽向先生、橘さんと何度か話したことありますよね?」


 一人の若い医師が声をかけてきた。


「もしかして連絡先とか知ってたりします?よかったら――」
「――やめといたほうがいいよ。」


 陽向は穏やかに笑った。だが、その目は笑っていなかった。



 若手医師たちは一瞬、息を呑んだ。

 陽向はそのままタオルで髪を拭きながら、静かに言葉を続けた。



「彼女は冷たいんじゃない。まっすぐなんだよ。
 あなたたちみたいに軽い気持ちで近づく人たちがいるから、
 そう見えるだけなんじゃないかな。」



 その言葉に、空気が一瞬で冷えた。



 若手医師たちは気まずそうに顔を見合わせ、



「……す、すみません。単なる冗談ですから。」と笑って更衣室を出ていった。



 残された陽向は、鏡の中の自分と目が合った。
 穏やかな顔の下で、何かが静かに揺れていた。



「……あれ、なんでこんなに腹立ってんだろ。」


 呟いた声は、冷房の風にかき消された。