蝶々結び【完結】



 片付けをしながら、結衣は少し迷った末に口を開いた。



 「……陽向先生。電話に出るの遅かったですけど、他の病棟で何かありましたか?」



 淡々とした口調。でも、その声の奥には、結衣の静かな苛立ちが混じっていた。



 陽向先生は一瞬きょとんとして、それから少し照れたように笑った。



 「あぁ、ごめんね。ちょっと寝落ちしてて、電話に気付かなかったんだ。申し訳ない。」





ーは?



 寝落ち――?






 結衣は思わず眉をひそめる。





 「陽向先生。お疲れなのはわかりますが、いつ急変してもおかしくない患者さんもいるんですよ。
  当直でも気を引き締めてください。」




 言いながらも、心のどこかで自分が言い過ぎたかも、と思っていた。



 でも、彼の返事は意外にも柔らかかった。





 「うん。ごめんね、橘さんにも迷惑かけた。気をつけるよ。」




 それを言う時の笑顔が、どうしても憎めなかった。


 ――言ってることと、表情が違う。
 なんで、そんなに笑っていられるの。



 訝しげな視線を送る結衣を、陽向先生は相変わらず穏やかな目で見ていた。
 どこか、子どもみたいに。




 「……お疲れ様でした。」

 そう言って、早くこの空気を断ち切ろうと背を向けかけたその時。



 「――あ、ちょっと待って。」



 腕を、軽く掴まれた。


 驚きで、心臓が一瞬止まる。




 「えっと……何か?」



 陽向先生は少しだけ真剣な表情になっていた。



 「橘さんがいてくれたおかげで、本当に助かった。ありがとう。」



 その言葉に、息が詰まる。
 触れている腕の部分が、じんわりと熱を帯びていく。



 どうしよう。心臓の音が、うるさい。
 気づかれたくないのに。



 「いえ、仕事ですので。」


 努めて冷静に答えると、彼はすぐに手を離して、
 「あ、引き止めてごめんね。」と、また柔らかく笑った。



 ほんの数秒の出来事。
 けれど、その短い時間が、やけに長く感じた。



 ナースステーションに戻る途中、掴まれていた腕をそっと押さえる。







 熱い。
 ――なんで?