「無理だ」
三浦屋の一室で冷たくあしらう梅雨を前に、明依は土下座をしていた。
「そこを何とか!!」
「お前はバカなのか?」
しかし明依の言葉に聞く耳を持たない梅雨は、時間の無駄だったとでも言いたげに溜息を吐き捨てると、あっさりと座敷を去ろうとした。
明依はとっさに梅雨の足に絡まりついた。
「お願いお願い!! 梅雨ちゃんにしか頼めないの!!」
「だーから、梅雨ちゃんって言うな!! はなせ!! 俺を巻き込むな!!」
二年間〝梅雨ちゃん〟と呼んでいるのだからそろそろ慣れてほしい。
いまさら呼び名は変えられない。明依としては仲良くなって一年たったくらいの友達に〝って言うか呼び捨てでいいよー〟と言われた時くらいの違和感だった。
しかし思い返してみると、そういえば二年前の宴会で初めて〝梅雨ちゃんっていうな〟と言われた時からすでに梅雨ちゃん以外の呼び名は検討すらしなかったな、と他人事のように思った。
だが、今はそんなことはどうでもいい。
梅雨に協力してもらわない事には手詰まりだ。そして今は、自分の力不足を呪っている時間はない。
「地獄屋の中に入る為に協力しろって? 本当にどうかしてるぞ」
足にしがみつく明依の首根っこを掴んで引き離した梅雨は、先ほどよりも落ち着いた様子で口を開く。
「いいか、黎明」
「いいよ」
「冷静に話す」
「うん」
「お前は日奈と旭が死んだところを見た。間違いないな?」
梅雨は明依にただ現状を認識させるように問いかける。
「間違いないよ。だからわからないの。私はあの日、確かに日奈と旭を見た」
「だから、」
「梅雨ちゃんも見たでしょ?」
明依の問いかけに、梅雨は何も答えない。
梅雨の言いたい事は分かっている。明依も同じ気持ちだった。
〝一度死んだ人間が、この世界にいるはずがない〟
「終夜は何も教えてくれないの」
「そりゃそうだろ。雛菊と旭の事なんかお前に知られたら、飛び出して行くに決まってるんだから」
冷静な梅雨の言葉に、確かにそうだと納得する。
日奈と旭の事だと聞けば飛び出していくというのは大正解。そして終夜の想定内だ。終夜は予想通りだったから、日奈と旭の事を話題に出した日に自ら珠名屋に足を運んで自分を連れ帰ったのだという事は分かっていた。
「あの地獄屋、珠名楼が絡んでいるってことは危険な事かもしれない。終夜はお前の事が大切だから隠そうとするんだろう。見て見ぬふりをしてやるのも優しさだぞ」
「だけど、私は知りたいの」
「真実を知る事だけが幸せとは限らない。お前は二年前、身をもって経験したはずだ」
二年前。
吉原にある災いの全ての元凶が自分だと知った時の感覚を覚えている。
そして今も、全ての真実を知った事でいい事ばかりだったかと言われれば、そうではない。
どうしようもなく、苦しくなる夜がある。
だけど真実を知り得なければ、終夜と一緒になる未来はなかっただろう。
しかし今となっては、これでよかったと胸を張って言い切る事は出来そうにない。
終夜との距離がある今は、日奈と旭の死を度外視しても本当にこれでよかったのだろうかと思わずにはいられない。
地獄大夫の言う通り、終夜は優しい。
だからきっと、何も知らなくて済むように目を閉じて耳をふさいでいろと言いたいのだろう。
じゃあ一体、何のために一緒にいるというんだ。
日奈と旭の存在が、明依がこの街にいるという事実が、明依と終夜に幸せを分かち合うという事を拒む。
それなのに、終夜は苦しみを分け合う事すらも拒んでいる。
一体、何のために一緒にいるのだろう。
誰彼構わずわかってもらえる気持ちではない。
二人にだけわかるからこそ、二人にだけ解き明かせない。
「お前が旭と雛菊を大切に思ってたのはわかるよ。だけど、」
「わかってないよ」
明依は梅雨の言葉を明確にさえぎって、心の整理をつけるより前に口を開いた。
沈黙の中でゆっくりと心の整理がついても、〝わかってない〟と突発的に発した言葉はひとつも間違いではないと思う。
意識の外側で、やはり人間というのはよくできていると他人事のように考えていた。
「じゃあ梅雨ちゃんはもし高尾大夫が死んだとしても、言おうとした言葉の先を言える?」
明依の言葉に、梅雨は息を呑んだ。
きっと梅雨が言いたかったのは、〝死んだ人間は生き返る事が無いんだから、考えるだけ無駄だ〟と言った内容の、明らかに突き放す言葉。
突き放す言葉はきっと、梅雨なりの優しさだ。
「死んだ人間には会えない事なんて、私にもわかってるよ。だけど、もしも高尾大夫が梅雨ちゃんの目の前で死んだとして。その後絶対に高尾大夫だって思う人を見かけたら、その人が入って行ったのが不気味な妓楼だったら。〝俺は危険だからって追いかけない〟って言える?」
協力してくれる可能性があるのは、終夜の目をかいくぐって珠名屋の中にたどり着く事ができる可能性があるのは、梅雨以外にはいない。
座敷の中は沈黙。
もしかすると〝高尾大夫が死んだら〟なんて不謹慎すぎて梅雨が怒ったのかもしれないと思ったが、これ以上に梅雨を説得できる話を明依は知らなかった。
「お願いします」
明依はそう言ってもう一度畳に手をついて頭を下げた。
当然、梅雨を困らせる事は明依の本望ではなかった。だからこれでダメなら、自力で何とかするしかない。
だけど、他にあてはない。
藁にもすがる思いだった。
痛いと感じる間もないほど怒涛の沈黙が流れた後、梅雨は深いため息を一つ吐き捨てた。
「今回だけだ」
ぶっきらぼうな様子で言う梅雨に、明依は自分の気持ちと表情が蕾から花になるように明るく広がるのを感じながら顔を上げた。
「それから、珠名楼に入ってからのお前の身の保証はしない。俺は主郭で死にかけた日、高尾大夫を看取るまで生きるって誓ったんだ。珠名楼に入るのはお前が望んだことだ。俺の命までは賭けないからな」
これで珠名屋の中に入れる。そうしたら、日奈と旭の真相がわかる。
三浦屋からの帰り道に見た二人が一体何者なのかを知ることができる。
「梅雨ちゃん、本当にありがとう」
「行くぞ。それから、梅雨ちゃんって言うな」
そう言いながら、梅雨は座敷を出て行こうとしていた。
「え、今から……?」
「俺は隠居生活しているお前みたいに暇人じゃないんだ。都合は合わせろ。行くぞ」
梅雨はあっさりとした口調で言うと、まだ座敷に座り込んでいる明依をよそに襖の向こうに姿を消した。
「ちょっと……! 待ってよ!」
梅雨に何とか追いついて三浦屋を出て、にぎわう吉原の夜の街を歩く。
今日もにぎわっている。
しかし、照明を落とした街の中は不気味だ。
恐怖心を含んだ不気味さなのに、何か平凡とは少し離れた何かが起こるのではないかという期待も孕んでいる感情。
吉原の街が大きく様相を変えるハロウィンの季節が来る度に、同じことを思っている気がした。
それはよく考えてみれば、終夜が見せてくれた新しい世界に胸を躍らせている感覚に近い。終夜の見せてくれる世界に魅了されるだけの素質は、もともと持っていたに違いない。
だけど、いつもの緊張感とは少し違う。
下腹部を締め付ける感覚は、旭が死んだと聞かされた時に主郭に向かった時と似ている。
大通りは長蛇の列。
丹楓屋・勝山大夫が雪女の恰好をして花魁道中をしていた。
雪が反射した薄青にも見える真っ白な着物の胸元を大きく開ける勝山は、高下駄も履かずに裸足で花魁道中をしている。
たくさんの妖怪たちが勝山を中心に目的地まで歩いていた。挑発するように脅しをかける妖怪や、おぼつかない足取りで歩く妖怪。
妖怪が歩く花魁道中の列はまさに、百鬼夜行。
その真ん中を、勝山が歩いている。
最近、特に肌寒い。
しかし勝山は薄着である事も気温もまるで自分には関係のない事のように、真っ直ぐに前だけを見て歩いている。
素直にただ、今の勝山はかっこいいと思った。
憧れた人と同じ舞台に立っていた。
今、憧れた人と同じ舞台に立っていた時のように、自分を誇れているだろうか。
三浦屋の一室で冷たくあしらう梅雨を前に、明依は土下座をしていた。
「そこを何とか!!」
「お前はバカなのか?」
しかし明依の言葉に聞く耳を持たない梅雨は、時間の無駄だったとでも言いたげに溜息を吐き捨てると、あっさりと座敷を去ろうとした。
明依はとっさに梅雨の足に絡まりついた。
「お願いお願い!! 梅雨ちゃんにしか頼めないの!!」
「だーから、梅雨ちゃんって言うな!! はなせ!! 俺を巻き込むな!!」
二年間〝梅雨ちゃん〟と呼んでいるのだからそろそろ慣れてほしい。
いまさら呼び名は変えられない。明依としては仲良くなって一年たったくらいの友達に〝って言うか呼び捨てでいいよー〟と言われた時くらいの違和感だった。
しかし思い返してみると、そういえば二年前の宴会で初めて〝梅雨ちゃんっていうな〟と言われた時からすでに梅雨ちゃん以外の呼び名は検討すらしなかったな、と他人事のように思った。
だが、今はそんなことはどうでもいい。
梅雨に協力してもらわない事には手詰まりだ。そして今は、自分の力不足を呪っている時間はない。
「地獄屋の中に入る為に協力しろって? 本当にどうかしてるぞ」
足にしがみつく明依の首根っこを掴んで引き離した梅雨は、先ほどよりも落ち着いた様子で口を開く。
「いいか、黎明」
「いいよ」
「冷静に話す」
「うん」
「お前は日奈と旭が死んだところを見た。間違いないな?」
梅雨は明依にただ現状を認識させるように問いかける。
「間違いないよ。だからわからないの。私はあの日、確かに日奈と旭を見た」
「だから、」
「梅雨ちゃんも見たでしょ?」
明依の問いかけに、梅雨は何も答えない。
梅雨の言いたい事は分かっている。明依も同じ気持ちだった。
〝一度死んだ人間が、この世界にいるはずがない〟
「終夜は何も教えてくれないの」
「そりゃそうだろ。雛菊と旭の事なんかお前に知られたら、飛び出して行くに決まってるんだから」
冷静な梅雨の言葉に、確かにそうだと納得する。
日奈と旭の事だと聞けば飛び出していくというのは大正解。そして終夜の想定内だ。終夜は予想通りだったから、日奈と旭の事を話題に出した日に自ら珠名屋に足を運んで自分を連れ帰ったのだという事は分かっていた。
「あの地獄屋、珠名楼が絡んでいるってことは危険な事かもしれない。終夜はお前の事が大切だから隠そうとするんだろう。見て見ぬふりをしてやるのも優しさだぞ」
「だけど、私は知りたいの」
「真実を知る事だけが幸せとは限らない。お前は二年前、身をもって経験したはずだ」
二年前。
吉原にある災いの全ての元凶が自分だと知った時の感覚を覚えている。
そして今も、全ての真実を知った事でいい事ばかりだったかと言われれば、そうではない。
どうしようもなく、苦しくなる夜がある。
だけど真実を知り得なければ、終夜と一緒になる未来はなかっただろう。
しかし今となっては、これでよかったと胸を張って言い切る事は出来そうにない。
終夜との距離がある今は、日奈と旭の死を度外視しても本当にこれでよかったのだろうかと思わずにはいられない。
地獄大夫の言う通り、終夜は優しい。
だからきっと、何も知らなくて済むように目を閉じて耳をふさいでいろと言いたいのだろう。
じゃあ一体、何のために一緒にいるというんだ。
日奈と旭の存在が、明依がこの街にいるという事実が、明依と終夜に幸せを分かち合うという事を拒む。
それなのに、終夜は苦しみを分け合う事すらも拒んでいる。
一体、何のために一緒にいるのだろう。
誰彼構わずわかってもらえる気持ちではない。
二人にだけわかるからこそ、二人にだけ解き明かせない。
「お前が旭と雛菊を大切に思ってたのはわかるよ。だけど、」
「わかってないよ」
明依は梅雨の言葉を明確にさえぎって、心の整理をつけるより前に口を開いた。
沈黙の中でゆっくりと心の整理がついても、〝わかってない〟と突発的に発した言葉はひとつも間違いではないと思う。
意識の外側で、やはり人間というのはよくできていると他人事のように考えていた。
「じゃあ梅雨ちゃんはもし高尾大夫が死んだとしても、言おうとした言葉の先を言える?」
明依の言葉に、梅雨は息を呑んだ。
きっと梅雨が言いたかったのは、〝死んだ人間は生き返る事が無いんだから、考えるだけ無駄だ〟と言った内容の、明らかに突き放す言葉。
突き放す言葉はきっと、梅雨なりの優しさだ。
「死んだ人間には会えない事なんて、私にもわかってるよ。だけど、もしも高尾大夫が梅雨ちゃんの目の前で死んだとして。その後絶対に高尾大夫だって思う人を見かけたら、その人が入って行ったのが不気味な妓楼だったら。〝俺は危険だからって追いかけない〟って言える?」
協力してくれる可能性があるのは、終夜の目をかいくぐって珠名屋の中にたどり着く事ができる可能性があるのは、梅雨以外にはいない。
座敷の中は沈黙。
もしかすると〝高尾大夫が死んだら〟なんて不謹慎すぎて梅雨が怒ったのかもしれないと思ったが、これ以上に梅雨を説得できる話を明依は知らなかった。
「お願いします」
明依はそう言ってもう一度畳に手をついて頭を下げた。
当然、梅雨を困らせる事は明依の本望ではなかった。だからこれでダメなら、自力で何とかするしかない。
だけど、他にあてはない。
藁にもすがる思いだった。
痛いと感じる間もないほど怒涛の沈黙が流れた後、梅雨は深いため息を一つ吐き捨てた。
「今回だけだ」
ぶっきらぼうな様子で言う梅雨に、明依は自分の気持ちと表情が蕾から花になるように明るく広がるのを感じながら顔を上げた。
「それから、珠名楼に入ってからのお前の身の保証はしない。俺は主郭で死にかけた日、高尾大夫を看取るまで生きるって誓ったんだ。珠名楼に入るのはお前が望んだことだ。俺の命までは賭けないからな」
これで珠名屋の中に入れる。そうしたら、日奈と旭の真相がわかる。
三浦屋からの帰り道に見た二人が一体何者なのかを知ることができる。
「梅雨ちゃん、本当にありがとう」
「行くぞ。それから、梅雨ちゃんって言うな」
そう言いながら、梅雨は座敷を出て行こうとしていた。
「え、今から……?」
「俺は隠居生活しているお前みたいに暇人じゃないんだ。都合は合わせろ。行くぞ」
梅雨はあっさりとした口調で言うと、まだ座敷に座り込んでいる明依をよそに襖の向こうに姿を消した。
「ちょっと……! 待ってよ!」
梅雨に何とか追いついて三浦屋を出て、にぎわう吉原の夜の街を歩く。
今日もにぎわっている。
しかし、照明を落とした街の中は不気味だ。
恐怖心を含んだ不気味さなのに、何か平凡とは少し離れた何かが起こるのではないかという期待も孕んでいる感情。
吉原の街が大きく様相を変えるハロウィンの季節が来る度に、同じことを思っている気がした。
それはよく考えてみれば、終夜が見せてくれた新しい世界に胸を躍らせている感覚に近い。終夜の見せてくれる世界に魅了されるだけの素質は、もともと持っていたに違いない。
だけど、いつもの緊張感とは少し違う。
下腹部を締め付ける感覚は、旭が死んだと聞かされた時に主郭に向かった時と似ている。
大通りは長蛇の列。
丹楓屋・勝山大夫が雪女の恰好をして花魁道中をしていた。
雪が反射した薄青にも見える真っ白な着物の胸元を大きく開ける勝山は、高下駄も履かずに裸足で花魁道中をしている。
たくさんの妖怪たちが勝山を中心に目的地まで歩いていた。挑発するように脅しをかける妖怪や、おぼつかない足取りで歩く妖怪。
妖怪が歩く花魁道中の列はまさに、百鬼夜行。
その真ん中を、勝山が歩いている。
最近、特に肌寒い。
しかし勝山は薄着である事も気温もまるで自分には関係のない事のように、真っ直ぐに前だけを見て歩いている。
素直にただ、今の勝山はかっこいいと思った。
憧れた人と同じ舞台に立っていた。
今、憧れた人と同じ舞台に立っていた時のように、自分を誇れているだろうか。



