目の前にいる彼女を今の今までずっと眺めていたのに、目が合った途端に命を吹き込まれた人形のように急に人間らしくなったと思うなんて、どうかしている。
どうして名前を知っているんだろう。
「日奈と旭に会わせてあげよう」
心に浮かんだ疑問は、まるで波が砂をさらうように書き換わる。
ゆるりとしているのに、人間味のない声色。
鼓膜を震わせて、神経を通っている間に、ただの音になるみたい。
やはり彼女の声音は、言葉の意味よりも音に意識を奪われる。
声が美しくて、人間の耳では拾う事がやっとなのかもしれない。
ゆっくりと彼女の一言を咀嚼して、飲み下す。それは、明依の中にあるたくさんの感情経路を辿った。
例えば期待、不安、希望。
だけど結局、本能に近い部分で目の前の彼女のこの言葉を待っていたのだろう。
「日奈と旭はもう死んだの。あれは、誰?」
「日奈と旭ではないのなら、お前が見たものはなに?」
彼女が明依の問いかけにこたえる事はなく、代わりに平然とそして淡々と、ただあるべき事実を述べているみたいに言う。
あまりにも当たり前に言うから、死んだ日奈と旭を見る訳がないと思っているこちらがおかしいのではないかと思うくらい。
「幻覚か?」
あれは、幻覚なんかじゃない。
「精巧なからくり人形か?」
作り物なんかじゃない。
あれは間違いなく、日奈と旭だった。
「日奈と旭は生きてる」
二人が死んでいる所を見た。だから心の中は、意味が分からない、辻褄が合わないとがなっている。
だけど〝そうだったらいい〟と思う事の全てを、彼女はたった一言で片づける。
有利な一手を打った時のように、白い部分が行儀よく黒に代わる。
この感覚をもっと直接的な言葉にするなら、本来の気持ちが書き換わっている。
意識すればなんて事のない、何度も味わった感覚だ。
心の中に自分ではない他の誰かが踏み入って、勝手にコツコツと何かを積み上げていく。言動の全てを使って、丁寧に、一つずつ。
今持っている感情と繋がるように。後は勝手に自らの思考と絡んで派生できるように、格子越しで目の前に座る彼女が今自分の中に何かを積み上げているという感覚が明依にはあった。
かつての終夜、あるいは宵のように。
それはまるで毒だとわかっている甘い夢だ。
わかっているのに、身を委ねて騙されたいとすら思う。
日奈と旭が生きている真相を知る事が出来るなら。
いやそんな事より、二人を正面から、一目でも見る事が出来るなら。
ふいに浮かぶ考えを振り切るように明依は息を吐いた。
よぎってはいけない考えだ。
日奈と旭は、間違いなく死んだ。
ただ真実を知りたいだけだと、明依は自分に言い聞かせる。
終夜の隠しているだろう真実が知りたいだけだ。
だから明依は騙されているとは思いつつも、自分の中に詰み上がる感覚を黙って受け入れる。
彼女の目をまっすぐに見る。同じように見つめ返す遊女からは、何の感情も伝わってこない。
「この二年で、終夜はお前に一体何をくれた?」
自分の中に踏み入られる感覚を受け入れる覚悟があったのに、彼女のたった一言で、ペースは一気に乱れた。
「お前は一体終夜に、何をあげた?」
考えるな、と言い聞かせても、高性能なのか低性能なのかわからない脳みそは勝手に過去をたどって質問の答えを算出し出す。
応答を待つみたいに、彼女は口を閉ざした。
最初は終夜の側にいるだけでいいと思って、終夜が生きている所を見るたびに幸せを感じて。しかし、自分が何か一つでも終夜にあげられていると思えたことはない。
自分を律することが出来ない。
外部からの一言で、自分の頭の中に振り回される。
「お前が日奈と旭について〝知りたい〟と思う事を、終夜は否定しただろう。何も知らないと言って。……だけど終夜は、本当は知っているんだ。この珠名屋の中に、日奈と旭がいる事を」
心臓が、嫌な音を立てる。
遊女の表情が初めて動いた。上品に口角を上げる。
それは柔らかい笑顔で。優しすぎて、安心感よりも先に恐怖心が勝るような笑顔だった。
「終夜は全部、自分で片付けようと思っているのだろう。日奈と旭がいるなんて知れればきっとお前は傷つくだろうから。一緒に暗い夜を越えようと誓いあった事でさえ、終夜にとってはもはや取るに足らぬこと。なぜならお前が傷つくからだ。終夜は本当に優しい男だな、明依」
心の隙間に付け入る声で、彼女は言う。
そんな優しさはいらない。一緒に夜を越えようと思ったのに。
これはまるで――
「一体何が違うのだろうな。自分に都合のいい世界だけを見せた宵と、今の終夜は」
まさに今思っていたことを、彼女は言う。
「宵の魅せていた夢の方が、まだ痛みはなかったろう」
何も言い返せない。
どうしてこの人は宵を、たくさんの事実を知っているのだろう。
「終夜はお前を日奈と旭から引き離す」
「引き離すって、どういう意味……?」
「そのままの意味だ。終夜は優しい。だから明依の中になるべく日奈と旭の思い出を芽吹かせないように振る舞うのさ。思い出すと辛いだろう? お前も終夜も、あの二人の想いの全てを裏切って吉原に残り、側にいる事を選んだんだから。それなのに、終夜は何を考えているのだろうな」
ゆっくりと息を吸う遊女の次の一手を、明依はもはや黙って見ている事しかできない。
とどめを刺されると感じているのに。
「憎しみ合う事も愛し合う事すらも出来ない関係に価値がない事は、終夜もよく分かっているだろうに」
明確に狙って刺されたような気持ち。
価値はない。きっと終夜とのこの関係は、何も生み出さない。
本来なら増幅するはずの幸せも、半減するはずの悲しみもない。
ただどこまでも無関心に似せて、ただ互いを近くで眺めているだけ。
「日奈と旭に聞いてみるといい。どんな気持ちでいるのか」
「日奈と旭は、もう死んで……」
「その話は、さっきしたな」
かろうじて取り戻した理性で口にした言葉も、彼女はあっさりと振り払う。
日奈と旭はもしかすると、本当に生きているのだろうか。
死んだところを見たはずの二人は偽物で、本物はまだ生きているとか。
ありえない事だと思うのに、自分の目で見た日奈と旭の姿と目の前の彼女の言葉が重なれば、生きていない方がありえないような気すらしてくる。
それをおかしな話だと、俯瞰して眺めている事も事実で。
本当の自分がどこにあるのか。自分の事だというのに明依にはよく分からなかった。
「あの二人が今、何を思っているのか。知りたくないのなら構わない」
急に釣れない態度をとる様子は、遊女そのもの。
「覚悟がないのなら、さようならだ」
言葉に絡んで明依の中でなにかしらの感情が芽吹くより前に、彼女は格子から手を伸ばし、明依の胸元の着物の重なりを掴んで引き寄せた。
そして明依の耳元に唇を寄せる。
「覚悟があるのなら、終夜の目をかいくぐって来るんだな」
「こんばんは。地獄大夫」
あっさりとした声。
それからすぐ隣に感じる気配。
隣では終夜が格子に腕を入れて、遊女の頭に拳銃を突き付けていた。
気にする素振りも見せずに、遊女は薄い笑顔を張り付けて終夜を見た。
「今晩は月が綺麗に出ておりますね、裏の頭領さま」
「明依に何を吹き込んだ?」
「私の口からお伝え出来る事はなにも。どうぞご自身で確認なさいませ」
終夜は拳銃にゆっくりと指をかけた。
「まさかまさか。たかが一人の女の為にたくさんの人間のこれまでを棒に振るとは。ご存じの通り。私が死ねば真相は闇の中でございますよ」
大して抑揚のない声で、遊女は言う。
「それとも地獄に身を晒してご自身で探されますか」
終夜は無表情。表情を作る余裕のない時の顔だ。
「地獄の業火はさぞその身に沁みますでしょうな、終夜さま」
終夜はゆっくりと息を吐くと、拳銃をしまった。
「いくよ」
終夜はぶっきらぼうにそう言うと、踵を返す。
明依は終夜の方向を振り向くギリギリまで遊女を見ていたが、目が合う事はなかった。
遊女は自らの輪廻すら憂いているような表情で、俯いていた。
「こうなると思ったよ」
沈黙を破ったのはいつも通りの様子の終夜だった。
明依は後ろから終夜の背中を見る。きっといつも通りの口調の向こう側ではまだ、薄ら笑いを浮かべる余裕はないのだろうと、明依は何となくそう思った。
「日奈と旭は死んだんじゃないの?」
「死んだよ」
「じゃあ、私が見たのは、」
「見たはずだよ」
終夜ははっきりとした口調で、明依の言葉を遮った。
「旭が死んだところも、日奈が死んだところも。明依はその目でしっかりと見て、それから触れたはずだ」
日奈と旭が死んだところは確かに見た。
自分の手で触れたのだから、間違いない。
ただ、それとこれとは話が別だ。
じゃあ先ほど見た日奈と旭。あれは何だったのか。
知りたいのはそれだけなのに、終夜は全部をはぐらかそうとする。
「何を吹き込まれたかは知らないけど、明依には本当の事がわかるはずだよ。あの遊女は嘘をついてる」
終夜が地獄大夫と呼んだ遊女が嘘をついているかどうかなんて、どうでもいい。
ただ、先ほど見た日奈と旭の正体を。あれが何だったのかを知りたいだけだ。
明依はもうほとんど確信していた。
終夜は、真相を語ってはくれない。
「……何も、教えてくれないんだね」
「明依が知りたいことを、俺は何も知らない」
あれは絶対、亡霊でも、幻覚でも、作り物でもなかったのに。
終夜は絶対に何か知っているのに、何も教えてくれない。
明依は自分の目に涙が浮かぶのを感じて、落ち着こうとゆっくり息を吐いた。
「二年前」
終夜は明依の一言を聞いて歩くことをやめた。
二年前。一緒に、月も星すらない夜を越えたいと思った、あの日のこと。
「私は終夜と一緒にいたいと思った」
それはまるで、告白を掘り返しているかのようで。
ただ、今、ここには何の感情もない。
二年前、一緒に光のない夜を越えたいと思った気持ちが一緒だったなら、あの時の気持ちを感じ直してくれることだけを祈っていた。
「一緒にいろんなことを乗り越えたいって思ったのは、私だけなの?」
「……形が違うだけだよ」
そういう終夜は、目を合わせない。
「終夜は二年前。現実から目を背けるなって言って、私を宵兄さんが見せた世界から引きずり出したの」
泣きそうになるのをぐっとこらえて、明依はさらに口を開いた。
「今の終夜がしている事と、宵兄さんが私にした事の何が違うの……?」
終夜は救ってくれたじゃないか。現実を見せてくれたじゃないか。
その終夜が今では、現実を隠して非現実を見せようとする。
辛すぎる現実を見ないように、という理由なのかもしれない。
そうだとしても、宵がしたことと今の終夜は一体何が違うというのだろう。
「宵と同じでいいよ。それでも俺は、自分が間違っている事をしてると思ってない」
終夜は少しの間黙っていたが、振り返ると明依と目を合わせる事もなく、しかし明依の手を握って歩き出した。
「帰ろう。夜に一人で出歩くのは危ない」
終夜に手を引かれて歩く。
仕事を放り出してきたのなら、いつもみたいに飄々とした態度で、じゃあここでバイバイとかなんとか言って、仕事に戻ればいい。
それなのに、自分に都合の悪い話をされているのに、手を握ってでも主郭に戻ろうとする。
大切にされているんだろうと、嫌でも思ってしまう。
触れると胸が痛い。
だから、触れられない。
日奈と旭の事さえ二人で向き合わないのなら、一体何のために側にいるというのだろう。
『終夜はお前を日奈と旭から引き離す』
地獄大夫の言葉を思い出す。その理由は〝思い出すと辛いから〟それは、お互い様なのではないだろうか。
自分が辛いと感じる思い出は終夜も辛いという事を明依はよく知っていた。
それでも終夜は、何も話してくれない。
いつか終夜は、人間は他人に触れてもらわないと自分の形が見えないと言った。
しかし人間は意外と、一人で生きていけるものなのかもしれない。
終夜の人生はまるでそれを体現しているみたいだ。
どうして名前を知っているんだろう。
「日奈と旭に会わせてあげよう」
心に浮かんだ疑問は、まるで波が砂をさらうように書き換わる。
ゆるりとしているのに、人間味のない声色。
鼓膜を震わせて、神経を通っている間に、ただの音になるみたい。
やはり彼女の声音は、言葉の意味よりも音に意識を奪われる。
声が美しくて、人間の耳では拾う事がやっとなのかもしれない。
ゆっくりと彼女の一言を咀嚼して、飲み下す。それは、明依の中にあるたくさんの感情経路を辿った。
例えば期待、不安、希望。
だけど結局、本能に近い部分で目の前の彼女のこの言葉を待っていたのだろう。
「日奈と旭はもう死んだの。あれは、誰?」
「日奈と旭ではないのなら、お前が見たものはなに?」
彼女が明依の問いかけにこたえる事はなく、代わりに平然とそして淡々と、ただあるべき事実を述べているみたいに言う。
あまりにも当たり前に言うから、死んだ日奈と旭を見る訳がないと思っているこちらがおかしいのではないかと思うくらい。
「幻覚か?」
あれは、幻覚なんかじゃない。
「精巧なからくり人形か?」
作り物なんかじゃない。
あれは間違いなく、日奈と旭だった。
「日奈と旭は生きてる」
二人が死んでいる所を見た。だから心の中は、意味が分からない、辻褄が合わないとがなっている。
だけど〝そうだったらいい〟と思う事の全てを、彼女はたった一言で片づける。
有利な一手を打った時のように、白い部分が行儀よく黒に代わる。
この感覚をもっと直接的な言葉にするなら、本来の気持ちが書き換わっている。
意識すればなんて事のない、何度も味わった感覚だ。
心の中に自分ではない他の誰かが踏み入って、勝手にコツコツと何かを積み上げていく。言動の全てを使って、丁寧に、一つずつ。
今持っている感情と繋がるように。後は勝手に自らの思考と絡んで派生できるように、格子越しで目の前に座る彼女が今自分の中に何かを積み上げているという感覚が明依にはあった。
かつての終夜、あるいは宵のように。
それはまるで毒だとわかっている甘い夢だ。
わかっているのに、身を委ねて騙されたいとすら思う。
日奈と旭が生きている真相を知る事が出来るなら。
いやそんな事より、二人を正面から、一目でも見る事が出来るなら。
ふいに浮かぶ考えを振り切るように明依は息を吐いた。
よぎってはいけない考えだ。
日奈と旭は、間違いなく死んだ。
ただ真実を知りたいだけだと、明依は自分に言い聞かせる。
終夜の隠しているだろう真実が知りたいだけだ。
だから明依は騙されているとは思いつつも、自分の中に詰み上がる感覚を黙って受け入れる。
彼女の目をまっすぐに見る。同じように見つめ返す遊女からは、何の感情も伝わってこない。
「この二年で、終夜はお前に一体何をくれた?」
自分の中に踏み入られる感覚を受け入れる覚悟があったのに、彼女のたった一言で、ペースは一気に乱れた。
「お前は一体終夜に、何をあげた?」
考えるな、と言い聞かせても、高性能なのか低性能なのかわからない脳みそは勝手に過去をたどって質問の答えを算出し出す。
応答を待つみたいに、彼女は口を閉ざした。
最初は終夜の側にいるだけでいいと思って、終夜が生きている所を見るたびに幸せを感じて。しかし、自分が何か一つでも終夜にあげられていると思えたことはない。
自分を律することが出来ない。
外部からの一言で、自分の頭の中に振り回される。
「お前が日奈と旭について〝知りたい〟と思う事を、終夜は否定しただろう。何も知らないと言って。……だけど終夜は、本当は知っているんだ。この珠名屋の中に、日奈と旭がいる事を」
心臓が、嫌な音を立てる。
遊女の表情が初めて動いた。上品に口角を上げる。
それは柔らかい笑顔で。優しすぎて、安心感よりも先に恐怖心が勝るような笑顔だった。
「終夜は全部、自分で片付けようと思っているのだろう。日奈と旭がいるなんて知れればきっとお前は傷つくだろうから。一緒に暗い夜を越えようと誓いあった事でさえ、終夜にとってはもはや取るに足らぬこと。なぜならお前が傷つくからだ。終夜は本当に優しい男だな、明依」
心の隙間に付け入る声で、彼女は言う。
そんな優しさはいらない。一緒に夜を越えようと思ったのに。
これはまるで――
「一体何が違うのだろうな。自分に都合のいい世界だけを見せた宵と、今の終夜は」
まさに今思っていたことを、彼女は言う。
「宵の魅せていた夢の方が、まだ痛みはなかったろう」
何も言い返せない。
どうしてこの人は宵を、たくさんの事実を知っているのだろう。
「終夜はお前を日奈と旭から引き離す」
「引き離すって、どういう意味……?」
「そのままの意味だ。終夜は優しい。だから明依の中になるべく日奈と旭の思い出を芽吹かせないように振る舞うのさ。思い出すと辛いだろう? お前も終夜も、あの二人の想いの全てを裏切って吉原に残り、側にいる事を選んだんだから。それなのに、終夜は何を考えているのだろうな」
ゆっくりと息を吸う遊女の次の一手を、明依はもはや黙って見ている事しかできない。
とどめを刺されると感じているのに。
「憎しみ合う事も愛し合う事すらも出来ない関係に価値がない事は、終夜もよく分かっているだろうに」
明確に狙って刺されたような気持ち。
価値はない。きっと終夜とのこの関係は、何も生み出さない。
本来なら増幅するはずの幸せも、半減するはずの悲しみもない。
ただどこまでも無関心に似せて、ただ互いを近くで眺めているだけ。
「日奈と旭に聞いてみるといい。どんな気持ちでいるのか」
「日奈と旭は、もう死んで……」
「その話は、さっきしたな」
かろうじて取り戻した理性で口にした言葉も、彼女はあっさりと振り払う。
日奈と旭はもしかすると、本当に生きているのだろうか。
死んだところを見たはずの二人は偽物で、本物はまだ生きているとか。
ありえない事だと思うのに、自分の目で見た日奈と旭の姿と目の前の彼女の言葉が重なれば、生きていない方がありえないような気すらしてくる。
それをおかしな話だと、俯瞰して眺めている事も事実で。
本当の自分がどこにあるのか。自分の事だというのに明依にはよく分からなかった。
「あの二人が今、何を思っているのか。知りたくないのなら構わない」
急に釣れない態度をとる様子は、遊女そのもの。
「覚悟がないのなら、さようならだ」
言葉に絡んで明依の中でなにかしらの感情が芽吹くより前に、彼女は格子から手を伸ばし、明依の胸元の着物の重なりを掴んで引き寄せた。
そして明依の耳元に唇を寄せる。
「覚悟があるのなら、終夜の目をかいくぐって来るんだな」
「こんばんは。地獄大夫」
あっさりとした声。
それからすぐ隣に感じる気配。
隣では終夜が格子に腕を入れて、遊女の頭に拳銃を突き付けていた。
気にする素振りも見せずに、遊女は薄い笑顔を張り付けて終夜を見た。
「今晩は月が綺麗に出ておりますね、裏の頭領さま」
「明依に何を吹き込んだ?」
「私の口からお伝え出来る事はなにも。どうぞご自身で確認なさいませ」
終夜は拳銃にゆっくりと指をかけた。
「まさかまさか。たかが一人の女の為にたくさんの人間のこれまでを棒に振るとは。ご存じの通り。私が死ねば真相は闇の中でございますよ」
大して抑揚のない声で、遊女は言う。
「それとも地獄に身を晒してご自身で探されますか」
終夜は無表情。表情を作る余裕のない時の顔だ。
「地獄の業火はさぞその身に沁みますでしょうな、終夜さま」
終夜はゆっくりと息を吐くと、拳銃をしまった。
「いくよ」
終夜はぶっきらぼうにそう言うと、踵を返す。
明依は終夜の方向を振り向くギリギリまで遊女を見ていたが、目が合う事はなかった。
遊女は自らの輪廻すら憂いているような表情で、俯いていた。
「こうなると思ったよ」
沈黙を破ったのはいつも通りの様子の終夜だった。
明依は後ろから終夜の背中を見る。きっといつも通りの口調の向こう側ではまだ、薄ら笑いを浮かべる余裕はないのだろうと、明依は何となくそう思った。
「日奈と旭は死んだんじゃないの?」
「死んだよ」
「じゃあ、私が見たのは、」
「見たはずだよ」
終夜ははっきりとした口調で、明依の言葉を遮った。
「旭が死んだところも、日奈が死んだところも。明依はその目でしっかりと見て、それから触れたはずだ」
日奈と旭が死んだところは確かに見た。
自分の手で触れたのだから、間違いない。
ただ、それとこれとは話が別だ。
じゃあ先ほど見た日奈と旭。あれは何だったのか。
知りたいのはそれだけなのに、終夜は全部をはぐらかそうとする。
「何を吹き込まれたかは知らないけど、明依には本当の事がわかるはずだよ。あの遊女は嘘をついてる」
終夜が地獄大夫と呼んだ遊女が嘘をついているかどうかなんて、どうでもいい。
ただ、先ほど見た日奈と旭の正体を。あれが何だったのかを知りたいだけだ。
明依はもうほとんど確信していた。
終夜は、真相を語ってはくれない。
「……何も、教えてくれないんだね」
「明依が知りたいことを、俺は何も知らない」
あれは絶対、亡霊でも、幻覚でも、作り物でもなかったのに。
終夜は絶対に何か知っているのに、何も教えてくれない。
明依は自分の目に涙が浮かぶのを感じて、落ち着こうとゆっくり息を吐いた。
「二年前」
終夜は明依の一言を聞いて歩くことをやめた。
二年前。一緒に、月も星すらない夜を越えたいと思った、あの日のこと。
「私は終夜と一緒にいたいと思った」
それはまるで、告白を掘り返しているかのようで。
ただ、今、ここには何の感情もない。
二年前、一緒に光のない夜を越えたいと思った気持ちが一緒だったなら、あの時の気持ちを感じ直してくれることだけを祈っていた。
「一緒にいろんなことを乗り越えたいって思ったのは、私だけなの?」
「……形が違うだけだよ」
そういう終夜は、目を合わせない。
「終夜は二年前。現実から目を背けるなって言って、私を宵兄さんが見せた世界から引きずり出したの」
泣きそうになるのをぐっとこらえて、明依はさらに口を開いた。
「今の終夜がしている事と、宵兄さんが私にした事の何が違うの……?」
終夜は救ってくれたじゃないか。現実を見せてくれたじゃないか。
その終夜が今では、現実を隠して非現実を見せようとする。
辛すぎる現実を見ないように、という理由なのかもしれない。
そうだとしても、宵がしたことと今の終夜は一体何が違うというのだろう。
「宵と同じでいいよ。それでも俺は、自分が間違っている事をしてると思ってない」
終夜は少しの間黙っていたが、振り返ると明依と目を合わせる事もなく、しかし明依の手を握って歩き出した。
「帰ろう。夜に一人で出歩くのは危ない」
終夜に手を引かれて歩く。
仕事を放り出してきたのなら、いつもみたいに飄々とした態度で、じゃあここでバイバイとかなんとか言って、仕事に戻ればいい。
それなのに、自分に都合の悪い話をされているのに、手を握ってでも主郭に戻ろうとする。
大切にされているんだろうと、嫌でも思ってしまう。
触れると胸が痛い。
だから、触れられない。
日奈と旭の事さえ二人で向き合わないのなら、一体何のために側にいるというのだろう。
『終夜はお前を日奈と旭から引き離す』
地獄大夫の言葉を思い出す。その理由は〝思い出すと辛いから〟それは、お互い様なのではないだろうか。
自分が辛いと感じる思い出は終夜も辛いという事を明依はよく知っていた。
それでも終夜は、何も話してくれない。
いつか終夜は、人間は他人に触れてもらわないと自分の形が見えないと言った。
しかし人間は意外と、一人で生きていけるものなのかもしれない。
終夜の人生はまるでそれを体現しているみたいだ。



