「いや……さすがにもう、食べられない……ごめん……ゆき」
明依は主郭にある自身の寝室でいつも通り一人きりで寂しい夜を乗り越えて朝を迎えていたが、明依自身はまだ夜の続きを見ていた。
「じゃあ遠慮なくやっちゃって~」
遠くから終夜の声が聞こえる気がして、明依はゆっくりと目を開けた。大きく伸びでもしたい、そんな朝。ドゴオーーーンとすぐ側から爆音が聞こえて、明依は伸びなんて人生のささやかなるおまけのような快楽は忘れて飛び起きた。
「なに!?」
終夜の自室がある方向の壁が、ちょうど人が一人通れるくらいの隙間を開けて壊れている。昨日までこんな穴はなかった。という事は、この穴が開いたのが爆音の正体。
「まだ寝てたんだ」
そこから遠慮なく明依の寝室に足を踏み入れたのは終夜。彼はいつも通りに笑っている。
「おはよう、明依」
「……おはよう」
された挨拶には返事をせねば、という条件反射で挨拶をしながらも、明依はハンマーをもって屋号の入った半被を羽織った二人の男の姿に釘付けになっていた。
二人の男は「えーい」とも「うぇーい」とも「うぉーい」とも聞こえる掛け声に合わせてハンマーを振り上げ、振り下ろし、どんどん壁を壊していく。
「……えっ、なに?」
夢か。いや、夢じゃない。でも夢じゃなければ何なんだ。
いや、終夜だぞ。夢みたいなことが当たり前に起こって当然じゃないか。
「危ないよ」
飛び起きたままの状態で放心して壁と二人の男を見つめる明依をよそに、終夜は明依が座り込んでいる敷布団をずるずると引っ張って襖の方へと移動させる。掛け布団が自分と敷布団において行かれそうになり、明依は反射的に掛け布団を握る。直線に伸びる掛け布団をよそに、明依は壊されていく壁を眺めていた。
「ねえ、あれ……なにしてるの?」
「だってもう壁いらないじゃん。壊して一つの広い部屋にしようと思ってさ。一緒に暮らそうよ」
いや別にいいよ。一緒に暮らすのは。嬉しいよ、そりゃ。しかしだ。発想が野蛮過ぎないか。いらないと思ったから壁を壊しているという事だ。なるほど、とは全然ならなかった。別にわざわざ壁なんて壊す必要はない。どっちかの居住場所で暮らしたらいいじゃないか。
ある程度終夜の事をわかっているつもりになっていたが、どうやら終夜はさらにその先を行くつもりらしい。
「この部屋広いから、居間にしようよ。リビングみたいな。とにかくゆっくりできるスペース」
間取りを検討する新婚夫婦だろうか。
明依は訳が分からないまま、あっという間に壊されていく壁を見ながら「……うん」と呟いた。
「じゃあ、準備したら俺の部屋に集合ね」
「……うん」
「早く立ってよ」
訳が分からないまま返事をしていることを察した終夜は、さっさとそこどけよ、と言いたげに敷布団を引っ張る。
居心地が悪い明依はしぶしぶ布団から降りて、掛け声に合わせてハンマーを振る男を背に寝室から出て身支度を整えた。身支度中も終始、二人の男の掛け声が聞こえてくる。
まさか自室が壊されている最中に身支度をする日が来るとは思わなかった。
準備を終えた明依は、言われた通り終夜の部屋に向かった。終夜の寝室、というか隣り合わせになっていた二人の寝室の方から未だに壁を壊す音が聞こえてくる。
二年前に修繕をしたばかりの主郭も、まさかこんなにすぐに壁を壊されるとは思っていなかったことだろう。
「大事な話があるんだけどね」
「うん」
よく隣の部屋で壁を壊されていてここまで冷静になれるなと思いながら、明依はテーブルの向こう側にいる終夜を見ていた。
「まず俺は、6歳の時に吉原に来たんだ。それから施設で日奈と旭と過ごした」
唐突に始まった話だが、確かにそれは〝大事な話〟だ。
ずっと終夜の事を知りたかった。しかし何となく終夜は自分の生い立ちの話なんてしないのだろうと思っていたのだ。だけど今、向き合って自分の過去を話して聞かせようとしてくれている。
明依は姿勢を正して、改めて終夜の話に耳を傾けた。
「約一年施設にいた後、俺は旭と一緒に暮相兄さんの直属として主郭に配置になった。暮相兄さんに出会って、二年近く三人でいつも一緒にいた。稽古したり、べろべろに酔った暮相兄さんを介抱したり、妓楼まで迎えに行ったり。……暮相兄さんがいなくなってから、陰に所属になって、稽古をしながら主郭の中で仕事をしていた」
終夜は本当にただ淡々と、これまでの出来事を話す。
明依はただ黙って、終夜の話に耳を傾けていた。
「これはその頃のもの」
終夜はそう言うと、鍵の束を取り出した。
日奈と旭の着物がストラップ代わりに結びつけてある、あの鍵の束。
「主郭のいいポジションにつくのが許せなかった大人たちの嫌がらせが結構酷かったんだけど、いつか見返してやるって思ってあんまり気にしてなかったんだ。でも、気付いた旭と日奈が庇ってくれて、その時に思った。本当は、すごく悲しかったんだなって。親が親だったから、感覚がマヒしていたんだと思う」
以前、吉原の外に一時的に出た時に鳴海から終夜の親の話を聞いた。虐待気味だった親の影響で、その頃の終夜は我慢の限界というものが分からなくなっていたのだろう。
「でいろいろと頑張って、明依の知る〝吉原の厄災〟っていう状況が出来上がって、抗争があって、今がある。……ここからが本題なんだけど」
終夜は最後をトントン拍子でまとめ上げるが、どうやら自分の過去を話して聞かせる事だけが目的ではないらしい。
「実際に出せないから意味はないんだけど、形だけでもどうかなって思って」
そう言って終夜が差し出してテーブルの上を滑らせたのは紙とボールペン。紙には、〝婚姻届〟と書いてある。
予想していなかった状況に驚きながらも、明依は紙の一点から視線を逸らせなかった。
先に記載された、〝夫〟の欄にはすでに終夜の達筆な字が書かれていた。
もう訪れた季節。
旧暦、冬の真ん中。
和風月名。
〝霜月終夜〟
初めて見る、終夜の名字だった。
ただ名字を知っただけだ。もしかすると終夜は、聞いたら答えてくれたかもしれない。
しかし明依は、名字を必要としない吉原の街で終夜の名字を知ることが出来たことが特別に嬉しくて。それはまるで、終夜の全てを知ったような感覚だった。
「結婚してください」
終夜はそう言うと姿勢を正して深く頭を下げた。
明依は思わず目に涙が浮かんで、上を向く。そして笑顔を作って涙を拭いた後、ボールペンで名前を書いた。
〝茅岡明依〟
そしてその婚姻届を終夜の方へ向けて、終夜と同じように深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします」
そう言って顔を上げてから、二人で笑い合う。
地に足がついていない様な、夢のような時間だ。こんな未来を誰が想像できただろう。
「さて」
終夜はそういうとテーブルの下から額縁を取り出した。
「なにそれ」
「これに入れて飾っておこうと思って」
終夜はそう言うと婚姻届を額縁に入れ、テーブルを移動させてからその上に上り、欄間に額縁に入った婚姻届を飾った。
「これでよし」
終夜がテーブルの上から降りて来て、二人で堂々と掲げられた婚姻届を眺める。
「……なんか婚姻届に見下されてる感じするんだけど」
「気のせいだよ。喧嘩したら初心に戻ってこの婚姻届の前で話し合いするんだよ」
何かの宗教だろうか。
そんなことを考えている明依の身体が、急に浮いた。
「明依」
「うわっ!!!」
気付けばまるで子どもを持ち上げるみたいにして、終夜に抱き上げられていた。
終夜より高い場所から、終夜を見下ろしている。
「子ども、何人ほしい?」
「こっ、子ども!? それはちょっと気が早すぎなんじゃ……」
「全然早くないよ。俺はもう今夜にでも、」
「終夜さま、明依さま」
生涯黒歴史になったであろう終夜のド直球発言は、陰の一声で途切れた。
「お取込み中申し訳ありません」
「本当だよ」
終夜は少し面倒そうに返事をしながら、明依を下ろして廊下に正座する陰に向き合った。
明依は胸を撫でおろしながら、〝どうした私は元遊女だぞ〟と〝ダメだ心臓がもたない〟を行ったり来たりしていた。
「松ノ位の方々から贈り物が届いておりまして。すぐに開封するようにとのことです」
そう言って陰が襖をさらに大きく開けると、そこには段ボールが四つ並んでいた。
「こちらが高尾大夫から」
「大きいね」
終夜の声をよそに、陰が一際大きな段ボールを開けるとそこには布団が入っていた。
姐さま方はきっと二人の行末を思って品物を送ってきてくれたのだろう。
嫌な予感がする人物もいるが、とりあえず高尾は前回食事をした時と同じ。上質な布団を準備してくれたらしい。
「うわ~気持ちいい~」
明依は取り出された上質な布団に触れた後で頬をすりよせた。フワフワしているのに弾力がある。今夜はこの布団で眠れると思うとそれだけで幸せだった。
「こちらは元・吉野大夫、日和さまから」
吉野から送られてきた段ボールには、お揃いの箸やマグカップ。パジャマ等、お揃いでごり押ししたセットが入っていた。
「全部かわいい」
明依がそう言いながら一つずつ持ち上げて段ボールの外に出すと、まるでこれを隠すために今までのお揃いシリーズを入れたのでは。と言うくらい底のド真ん中に、スケスケの下着が入っていた。夫の天辻はどうして止めてくれなかったのだろう。
しかしまだかわいらしさがある。大事な所はちゃんと隠れていた。
明依は見なかったことにしてお揃いセット達を段ボールの中に戻した。
「……こちらは、勝山大夫から」
雲行きが怪しくなってきた所で勝山という恐怖があり、一瞬だけ夕霧の箱を先に開けてしまおうかと思ったが、苦しい事は先に済ませておいた方がいいと思い、陰の行動を見守った。
「……どうぞ」
なるべく中身を見ない様に開けてくれる陰に感謝しつつ、明依は段ボールの中をのぞいた。
勝山からの段ボール中には、制服、メイド服、警察官、SM譲、ありとあらゆるコスプレがテキトーに詰め込んであった。一つだけ感謝すべき点があるとするなら、どれもこれも無駄に上質な生地でできているという事だ。嫌な予感がした明依はコスプレをかき分けてみる。そこには案の定、やあ僕を見つけたね、とでも言いたげに輝いている何もかもが透けていて紐だけが実体を持った下着がある。この下着に一体何の意味や楽しみがあるのだろう。スケスケの下着も恥ずかしいがコスプレも恥ずかしい。どうして彼女の中でスケスケの下着は一番下に隠して、コスプレはオールオッケーだったのだろう。
ぶん殴られた様な疲労感のさなか、明依はそっと段ボールを閉じた。
「……次、いいですか」
明依は最後の希望、夕霧の箱を見つめた。
「これは夕霧大夫からです」
やっぱり苦しい事は早めに終わらせておくべきだ。勝山以上はさすがにないだろう。なんだろう。やっぱり前開きのシャツと薄い黒のストッキングだろうか。
明依はわくわくしながら段ボールを開いた。
シンデレラフィットした箱たち。
神業を持った業者が詰めたであろう大人のおもちゃたちだった。
明依は一瞬で見なかったことにして段ボールを閉じた。
ねえ、前開きのシャツと薄い黒のストッキングは? もしかしてあのシンデレラフィットの下に、吉野・勝山スタイルで入っているの? それなら隠してほしいところが逆なんだが。
「まだ見てたんだけど」
後ろから文句を言う終夜に明依は遠い目をしながら返事をする。
「見なくていいの。目に毒だから」
「ええー。もっとちゃんと見たい。ちょうどよかったじゃん、いろいろ」
ちょうどよかったって何。いろいろって何。
「後でゆっくり見よ。……悪いけど段ボール邪魔だから、全部中身出して持って行ってよ」
「いいですいいです!! 私がやりますから!!! 段ボールくらい私が後で持って行きますから!!」
部下にとんでもない命令をし出す終夜に心臓が口から飛び出るかと思った明依は焦って早口で言った。
この男、中に何が入っていると思っているのだろう。
「いいじゃん別に。もう見られてるよ」
「そういう問題じゃないの。お願い、黙って。ちょっと冷静に話そう」
「男と女が一つ屋根の下にいるんだからヤる事なんて、」
「わかったから!!! わかったからちょっと静かにしてて!!!」
羞恥心から終夜につかみかかる明依を終夜がからかって笑う。
それを見た陰はどちらの言葉を信じていいかわからずあたふたとした後、「あの……必要であればお呼びください」と言い残して、段ボールを部屋の中に押し込んで襖をしめた。
「ねえ、なんで? なんでそうなるの?」
「あ、そうだ忘れてた」
これから一発目の夫婦喧嘩が幕開けになろうかというとき、終夜が急に着物の袖に手を突っ込んだ。
話そらしたな、騙されないぞ。と意気込む明依をよそに、終夜が明依の左手を掴んだ。
「これもあったんだった」
終夜はあっさりとした様子で明依の左手薬指に指輪を通した。
シンプルで細い指輪が手になじんでいる。明依が自分の指に飾られた指輪を眺めている間、終夜は自分の左指に同じ指輪を通していた。
婚姻届けもそうだが、まさか指輪まで貰えるとは思っていなかった明依は感極まり泣きそうになり息を止めた。
「機嫌なおった?」
「……なおった」
涙をこらえてカタコトでいう明依に、終夜は笑顔を浮かべた。
「じゃあ仲直り」
終夜はそう言うと明依の方へと腕を大きく広げた。
なんだかいいようにされている気がしなくもないが、明依はふっと息を漏らして笑い、終夜の胸に飛び込んだ。
こんな未来を、誰が想像できただろう。
「今度はちゃんと、大事にする」
「私も、そうする。……今度はちゃんと、一緒に幸せになろう」
11月某日。
造花街・吉原。
主郭、天守閣。
地獄を歩むと誓った時と同じように、二人は唇を重ねた。
きっと他愛ない日々が続く。
改めて明依は思っていた。
やっぱり、この人生でよかった。
明依は主郭にある自身の寝室でいつも通り一人きりで寂しい夜を乗り越えて朝を迎えていたが、明依自身はまだ夜の続きを見ていた。
「じゃあ遠慮なくやっちゃって~」
遠くから終夜の声が聞こえる気がして、明依はゆっくりと目を開けた。大きく伸びでもしたい、そんな朝。ドゴオーーーンとすぐ側から爆音が聞こえて、明依は伸びなんて人生のささやかなるおまけのような快楽は忘れて飛び起きた。
「なに!?」
終夜の自室がある方向の壁が、ちょうど人が一人通れるくらいの隙間を開けて壊れている。昨日までこんな穴はなかった。という事は、この穴が開いたのが爆音の正体。
「まだ寝てたんだ」
そこから遠慮なく明依の寝室に足を踏み入れたのは終夜。彼はいつも通りに笑っている。
「おはよう、明依」
「……おはよう」
された挨拶には返事をせねば、という条件反射で挨拶をしながらも、明依はハンマーをもって屋号の入った半被を羽織った二人の男の姿に釘付けになっていた。
二人の男は「えーい」とも「うぇーい」とも「うぉーい」とも聞こえる掛け声に合わせてハンマーを振り上げ、振り下ろし、どんどん壁を壊していく。
「……えっ、なに?」
夢か。いや、夢じゃない。でも夢じゃなければ何なんだ。
いや、終夜だぞ。夢みたいなことが当たり前に起こって当然じゃないか。
「危ないよ」
飛び起きたままの状態で放心して壁と二人の男を見つめる明依をよそに、終夜は明依が座り込んでいる敷布団をずるずると引っ張って襖の方へと移動させる。掛け布団が自分と敷布団において行かれそうになり、明依は反射的に掛け布団を握る。直線に伸びる掛け布団をよそに、明依は壊されていく壁を眺めていた。
「ねえ、あれ……なにしてるの?」
「だってもう壁いらないじゃん。壊して一つの広い部屋にしようと思ってさ。一緒に暮らそうよ」
いや別にいいよ。一緒に暮らすのは。嬉しいよ、そりゃ。しかしだ。発想が野蛮過ぎないか。いらないと思ったから壁を壊しているという事だ。なるほど、とは全然ならなかった。別にわざわざ壁なんて壊す必要はない。どっちかの居住場所で暮らしたらいいじゃないか。
ある程度終夜の事をわかっているつもりになっていたが、どうやら終夜はさらにその先を行くつもりらしい。
「この部屋広いから、居間にしようよ。リビングみたいな。とにかくゆっくりできるスペース」
間取りを検討する新婚夫婦だろうか。
明依は訳が分からないまま、あっという間に壊されていく壁を見ながら「……うん」と呟いた。
「じゃあ、準備したら俺の部屋に集合ね」
「……うん」
「早く立ってよ」
訳が分からないまま返事をしていることを察した終夜は、さっさとそこどけよ、と言いたげに敷布団を引っ張る。
居心地が悪い明依はしぶしぶ布団から降りて、掛け声に合わせてハンマーを振る男を背に寝室から出て身支度を整えた。身支度中も終始、二人の男の掛け声が聞こえてくる。
まさか自室が壊されている最中に身支度をする日が来るとは思わなかった。
準備を終えた明依は、言われた通り終夜の部屋に向かった。終夜の寝室、というか隣り合わせになっていた二人の寝室の方から未だに壁を壊す音が聞こえてくる。
二年前に修繕をしたばかりの主郭も、まさかこんなにすぐに壁を壊されるとは思っていなかったことだろう。
「大事な話があるんだけどね」
「うん」
よく隣の部屋で壁を壊されていてここまで冷静になれるなと思いながら、明依はテーブルの向こう側にいる終夜を見ていた。
「まず俺は、6歳の時に吉原に来たんだ。それから施設で日奈と旭と過ごした」
唐突に始まった話だが、確かにそれは〝大事な話〟だ。
ずっと終夜の事を知りたかった。しかし何となく終夜は自分の生い立ちの話なんてしないのだろうと思っていたのだ。だけど今、向き合って自分の過去を話して聞かせようとしてくれている。
明依は姿勢を正して、改めて終夜の話に耳を傾けた。
「約一年施設にいた後、俺は旭と一緒に暮相兄さんの直属として主郭に配置になった。暮相兄さんに出会って、二年近く三人でいつも一緒にいた。稽古したり、べろべろに酔った暮相兄さんを介抱したり、妓楼まで迎えに行ったり。……暮相兄さんがいなくなってから、陰に所属になって、稽古をしながら主郭の中で仕事をしていた」
終夜は本当にただ淡々と、これまでの出来事を話す。
明依はただ黙って、終夜の話に耳を傾けていた。
「これはその頃のもの」
終夜はそう言うと、鍵の束を取り出した。
日奈と旭の着物がストラップ代わりに結びつけてある、あの鍵の束。
「主郭のいいポジションにつくのが許せなかった大人たちの嫌がらせが結構酷かったんだけど、いつか見返してやるって思ってあんまり気にしてなかったんだ。でも、気付いた旭と日奈が庇ってくれて、その時に思った。本当は、すごく悲しかったんだなって。親が親だったから、感覚がマヒしていたんだと思う」
以前、吉原の外に一時的に出た時に鳴海から終夜の親の話を聞いた。虐待気味だった親の影響で、その頃の終夜は我慢の限界というものが分からなくなっていたのだろう。
「でいろいろと頑張って、明依の知る〝吉原の厄災〟っていう状況が出来上がって、抗争があって、今がある。……ここからが本題なんだけど」
終夜は最後をトントン拍子でまとめ上げるが、どうやら自分の過去を話して聞かせる事だけが目的ではないらしい。
「実際に出せないから意味はないんだけど、形だけでもどうかなって思って」
そう言って終夜が差し出してテーブルの上を滑らせたのは紙とボールペン。紙には、〝婚姻届〟と書いてある。
予想していなかった状況に驚きながらも、明依は紙の一点から視線を逸らせなかった。
先に記載された、〝夫〟の欄にはすでに終夜の達筆な字が書かれていた。
もう訪れた季節。
旧暦、冬の真ん中。
和風月名。
〝霜月終夜〟
初めて見る、終夜の名字だった。
ただ名字を知っただけだ。もしかすると終夜は、聞いたら答えてくれたかもしれない。
しかし明依は、名字を必要としない吉原の街で終夜の名字を知ることが出来たことが特別に嬉しくて。それはまるで、終夜の全てを知ったような感覚だった。
「結婚してください」
終夜はそう言うと姿勢を正して深く頭を下げた。
明依は思わず目に涙が浮かんで、上を向く。そして笑顔を作って涙を拭いた後、ボールペンで名前を書いた。
〝茅岡明依〟
そしてその婚姻届を終夜の方へ向けて、終夜と同じように深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします」
そう言って顔を上げてから、二人で笑い合う。
地に足がついていない様な、夢のような時間だ。こんな未来を誰が想像できただろう。
「さて」
終夜はそういうとテーブルの下から額縁を取り出した。
「なにそれ」
「これに入れて飾っておこうと思って」
終夜はそう言うと婚姻届を額縁に入れ、テーブルを移動させてからその上に上り、欄間に額縁に入った婚姻届を飾った。
「これでよし」
終夜がテーブルの上から降りて来て、二人で堂々と掲げられた婚姻届を眺める。
「……なんか婚姻届に見下されてる感じするんだけど」
「気のせいだよ。喧嘩したら初心に戻ってこの婚姻届の前で話し合いするんだよ」
何かの宗教だろうか。
そんなことを考えている明依の身体が、急に浮いた。
「明依」
「うわっ!!!」
気付けばまるで子どもを持ち上げるみたいにして、終夜に抱き上げられていた。
終夜より高い場所から、終夜を見下ろしている。
「子ども、何人ほしい?」
「こっ、子ども!? それはちょっと気が早すぎなんじゃ……」
「全然早くないよ。俺はもう今夜にでも、」
「終夜さま、明依さま」
生涯黒歴史になったであろう終夜のド直球発言は、陰の一声で途切れた。
「お取込み中申し訳ありません」
「本当だよ」
終夜は少し面倒そうに返事をしながら、明依を下ろして廊下に正座する陰に向き合った。
明依は胸を撫でおろしながら、〝どうした私は元遊女だぞ〟と〝ダメだ心臓がもたない〟を行ったり来たりしていた。
「松ノ位の方々から贈り物が届いておりまして。すぐに開封するようにとのことです」
そう言って陰が襖をさらに大きく開けると、そこには段ボールが四つ並んでいた。
「こちらが高尾大夫から」
「大きいね」
終夜の声をよそに、陰が一際大きな段ボールを開けるとそこには布団が入っていた。
姐さま方はきっと二人の行末を思って品物を送ってきてくれたのだろう。
嫌な予感がする人物もいるが、とりあえず高尾は前回食事をした時と同じ。上質な布団を準備してくれたらしい。
「うわ~気持ちいい~」
明依は取り出された上質な布団に触れた後で頬をすりよせた。フワフワしているのに弾力がある。今夜はこの布団で眠れると思うとそれだけで幸せだった。
「こちらは元・吉野大夫、日和さまから」
吉野から送られてきた段ボールには、お揃いの箸やマグカップ。パジャマ等、お揃いでごり押ししたセットが入っていた。
「全部かわいい」
明依がそう言いながら一つずつ持ち上げて段ボールの外に出すと、まるでこれを隠すために今までのお揃いシリーズを入れたのでは。と言うくらい底のド真ん中に、スケスケの下着が入っていた。夫の天辻はどうして止めてくれなかったのだろう。
しかしまだかわいらしさがある。大事な所はちゃんと隠れていた。
明依は見なかったことにしてお揃いセット達を段ボールの中に戻した。
「……こちらは、勝山大夫から」
雲行きが怪しくなってきた所で勝山という恐怖があり、一瞬だけ夕霧の箱を先に開けてしまおうかと思ったが、苦しい事は先に済ませておいた方がいいと思い、陰の行動を見守った。
「……どうぞ」
なるべく中身を見ない様に開けてくれる陰に感謝しつつ、明依は段ボールの中をのぞいた。
勝山からの段ボール中には、制服、メイド服、警察官、SM譲、ありとあらゆるコスプレがテキトーに詰め込んであった。一つだけ感謝すべき点があるとするなら、どれもこれも無駄に上質な生地でできているという事だ。嫌な予感がした明依はコスプレをかき分けてみる。そこには案の定、やあ僕を見つけたね、とでも言いたげに輝いている何もかもが透けていて紐だけが実体を持った下着がある。この下着に一体何の意味や楽しみがあるのだろう。スケスケの下着も恥ずかしいがコスプレも恥ずかしい。どうして彼女の中でスケスケの下着は一番下に隠して、コスプレはオールオッケーだったのだろう。
ぶん殴られた様な疲労感のさなか、明依はそっと段ボールを閉じた。
「……次、いいですか」
明依は最後の希望、夕霧の箱を見つめた。
「これは夕霧大夫からです」
やっぱり苦しい事は早めに終わらせておくべきだ。勝山以上はさすがにないだろう。なんだろう。やっぱり前開きのシャツと薄い黒のストッキングだろうか。
明依はわくわくしながら段ボールを開いた。
シンデレラフィットした箱たち。
神業を持った業者が詰めたであろう大人のおもちゃたちだった。
明依は一瞬で見なかったことにして段ボールを閉じた。
ねえ、前開きのシャツと薄い黒のストッキングは? もしかしてあのシンデレラフィットの下に、吉野・勝山スタイルで入っているの? それなら隠してほしいところが逆なんだが。
「まだ見てたんだけど」
後ろから文句を言う終夜に明依は遠い目をしながら返事をする。
「見なくていいの。目に毒だから」
「ええー。もっとちゃんと見たい。ちょうどよかったじゃん、いろいろ」
ちょうどよかったって何。いろいろって何。
「後でゆっくり見よ。……悪いけど段ボール邪魔だから、全部中身出して持って行ってよ」
「いいですいいです!! 私がやりますから!!! 段ボールくらい私が後で持って行きますから!!」
部下にとんでもない命令をし出す終夜に心臓が口から飛び出るかと思った明依は焦って早口で言った。
この男、中に何が入っていると思っているのだろう。
「いいじゃん別に。もう見られてるよ」
「そういう問題じゃないの。お願い、黙って。ちょっと冷静に話そう」
「男と女が一つ屋根の下にいるんだからヤる事なんて、」
「わかったから!!! わかったからちょっと静かにしてて!!!」
羞恥心から終夜につかみかかる明依を終夜がからかって笑う。
それを見た陰はどちらの言葉を信じていいかわからずあたふたとした後、「あの……必要であればお呼びください」と言い残して、段ボールを部屋の中に押し込んで襖をしめた。
「ねえ、なんで? なんでそうなるの?」
「あ、そうだ忘れてた」
これから一発目の夫婦喧嘩が幕開けになろうかというとき、終夜が急に着物の袖に手を突っ込んだ。
話そらしたな、騙されないぞ。と意気込む明依をよそに、終夜が明依の左手を掴んだ。
「これもあったんだった」
終夜はあっさりとした様子で明依の左手薬指に指輪を通した。
シンプルで細い指輪が手になじんでいる。明依が自分の指に飾られた指輪を眺めている間、終夜は自分の左指に同じ指輪を通していた。
婚姻届けもそうだが、まさか指輪まで貰えるとは思っていなかった明依は感極まり泣きそうになり息を止めた。
「機嫌なおった?」
「……なおった」
涙をこらえてカタコトでいう明依に、終夜は笑顔を浮かべた。
「じゃあ仲直り」
終夜はそう言うと明依の方へと腕を大きく広げた。
なんだかいいようにされている気がしなくもないが、明依はふっと息を漏らして笑い、終夜の胸に飛び込んだ。
こんな未来を、誰が想像できただろう。
「今度はちゃんと、大事にする」
「私も、そうする。……今度はちゃんと、一緒に幸せになろう」
11月某日。
造花街・吉原。
主郭、天守閣。
地獄を歩むと誓った時と同じように、二人は唇を重ねた。
きっと他愛ない日々が続く。
改めて明依は思っていた。
やっぱり、この人生でよかった。



