終夜は「よく寝た」と言って大きな伸びをしながら退院していった。
それから明依は、念のために一週間病院にいる事になった。
しかし体調はいたって普通。全く問題なく日常生活ができるだろうという医師の見解だ。
終夜は江戸の街を再現している吉原の街で堂々とビニール袋を片手に病室に入り、明依のベッドの横の椅子に座り、ガサゴソと袋に手を突っ込んだ。彼の手にはみかんと、それからレモンが握られている。
「これがビタミンで」
てっきりみかんとレモンだと思っていたものが〝ビタミン〟と紹介されて軽くパニックになる明依の手にビタミンを二つ乗せた終夜は、次にトマトを取り出す。
「これがリコピン」
そして手のひらに乗る〝ビタミン〟と言う名で呼ばれたみかんとレモンにまだ意識をやっていた明依は、次にやってきた〝リコピン〟をその上に乗せられて未だに情報処理が出来ずにいた。
そんな明依をよそに、終夜はキウイを取り出す。
「これはカリウムだね」
「……フルーツを栄養素で呼ぶ人初めてなんだけど」
「そうなんだ。じゃあはじめまして」
終夜はテキトーな口調で言うと、持参してきた包丁とまな板でキウイを切り始めた。
普通お見舞いと言えばフルーツじゃないの? どうしてトマトとレモンなの? 様々な疑問が浮かんだ明依だったが、終夜に聞くと専門的な答えしか返って来なさそうだったので必死に口をつぐんだ。
病室でまな板と包丁出してフルーツ切る人いるんだ。という終夜のずれた所を眺めながら、この空回りしているように見せかけて最大効率を重んじた結果のような気がしなくもない絶妙でシュールな状況に、平和だな、と思った。
明依は終夜から差し出された紙皿を受け取り、皿の上に乗ったキウイに同じく手渡された使い捨てのフォークを刺した。
「全部開いてたんだよ、珠名楼の窓」
終夜は自分が見舞いに持ってきたみかんを口に放り込みながら言う。
晴朗や陰が何の苦労もなく珠名屋の中に入ってこられたのはやはり、ちゃんと自然光が中に入ってきていたからだ。
だから晴朗は明らかに異様な珠名屋を〝普通の大見世の妓楼〟と言っていたのだろう。
「でも、あの短時間で埋められた窓を壊すには、たくさんの人数が必要だったはずだよね」
「だろうね。大人数と言えば、陰か遊女か……。洗脳されていた陰はみんな『暮相さまの幻覚を見た』って言ってるんだけど、珠名楼に入ってから洗脳が解けるまでの記憶がほとんどない。遊女に至っては更生に時間がかかる。だからもう、これ以上は探りようがない」
「……日奈達は?」
「あらかた珠名楼を調べたけど、死体は見つかってない。もしかしたらどこかで生きているのかもね」
終夜があえてわかりもしない事実をあやふやにして、希望を与えているのだろうという事が何となくわかった。
どこかで生きていてくれたら嬉しい。四人が外部からの助けを入りやすくするために窓を開ける手伝いをして、そして今もどこかで生きてくれている。それが今の明依の最大の願いだった。
「地獄大夫は?」
「地下牢に繋いでるよ。処分はまだ決まってない」
「……そっか」
「じゃあ、そろそろ行くね」
病室から出て行く終夜を見送ってから、また考える。
考えると言っても、今回はめずらしくもう結論は出ている。
地獄大夫に会いたい。地獄大夫と話がしたい。
文句を言いたいとか気持ちをぶつけたいとかそういう事ではなくて、話したいのは日奈と旭の事。
どんなふうに話をするのか、どんな内容を話すのか、重要なことは何も決めていない。ただ、地獄大夫を前にすれば難しく考えなくても話ができる気がした。ただ、その肝心の方法が全く思い浮かばない。
それから数日後、退院の日がやってきた。
明依が病室の前で看護師たちに頭を下げてから出入口へと向かうと、終夜と医者が話をしていた。
「じゃあもう大丈夫って事?」
「そう。後はしっかり栄養を取って、」
「栄養って具体的になんの栄養?」
きっと自分の事を話しているのだろうという事は想像できるが、終夜は帰ってから料理でもしてくれるつもりなのだろうか。普通の医師なら〝だいたいわかるだろ〟感を出すだろうが慣れた様子で医者は終夜に説明をしていた。
明依に気付いた終夜が軽く手を振る。
「すぐ行かないといけないから、荷物だけ取りに来た」
「別によかったのに……」
終夜はそう言うと、明依の着替えが入っている風呂敷を持った。
出来る限り大切にしようとしてくれている事が、言葉にしなくても伝わる。
「ありがとう、終夜」
「うん。じゃあね」
終夜は帰ろうと足を進めたが、振り向いた瞬間に誰かに肩をぶつけた。
「ごめん、梅雨」
「気をつけろよ」
素直に謝る終夜に、梅雨は反動で数歩後ろに下がりながら終夜を睨んだ。
「ちょうどよかった、明依を頼むよ」
「高尾大夫の健診中だ」
「おお、ナイスタイミング。今のうちによろしくね」
終夜はあっさりとそう言い、踵を返して病院から去って行った。
「じゃあ黎明さん、私もこれで」
「はい。お世話になりました」
明依は医者に深々と頭を下げて、中に入っていく
梅雨は珍しく反論せずに、終夜の背中を見送っていた。
二人きりになってすぐ、梅雨が口を開いた。
「体調は?」
「うん。もう平気」
「じゃあ、行くぞ」
行くってどこに。そう思った明依に、梅雨は握った何かを見せつける。
明依は息を呑んだ。
梅雨が持っているのは、間違いなく終夜の鍵だった。日奈と旭が終夜の治療したときの着物がストラップ代わりに結びつけてある、鍵の束。
「自分らしく世間の期待に応えるのが松ノ位の務めだろ、異例の遊女〝黎明大夫〟。まさかこんな中途半端な所で諦めて失望させないよな」
さきほど終夜にぶつかった時に取ったのだろう。
まさか一度痛い目を見た梅雨がまた協力してくれるとは思っていなかった明依は、驚きの後に感動が襲ってきた。
「だけど、今回ばかりは終夜がすぐに気づく前提で動かないと地下にすら入れない。一秒も惜しい。とにかく行くぞ」
「梅雨ち、」
「梅雨ちゃんって言うな」
梅雨はそう言うとさっさと先を歩いた。明依は梅雨において行かれない様に小走りで梅雨を追いかける。全方向から太陽光を遮る路地裏。湿度の高い空気。苔の生えている整備されていない石段。古ぼけた潜り戸。
抗争の時に来た二年前は、周りの様子をしっかりと見ている暇もなかった。
昼間だからか、最初に訪れた時は怖いと思っていた地下への扉も、趣のある様子に見えた。
梅雨が先を歩き、明依が後ろを歩いた。コンクリートを打ったまま放置されている建物内を歩きながら、明依は緊張にも似た気持ちを抱えていた。
明依一人分の足音が反響している。
そういえば初めてここに来た時、終夜が足音を立てない事が堪らなく不気味だったという事を思い出した。
迷路の様に入り組んだ道。間隔をあけて壁に打ち付けられた明かりが揺れる。
あの頃怖くて堪らなかった環境と同じ場所にいるのに、心は穏やかだ。
終夜が死を待っていた開き戸を通り過ぎて、明依は梅雨の背中を見た。
あの時にはまだ梅雨の存在も、地獄大夫の存在も。それどころか終夜と言う人間の本性さえ知らなかった。
当時の四人の松ノ位が、松ノ位たる所以も、吉原の陰謀も。
明確な時の流れと成長を感じていた。時間は流れて時代は変わる。きっとこれからもそう。人生という短い時間の中で、私に一体、何ができるだろう。
歴史に名を残すような大それたことじゃなくていい。自分の中で悔いがないと思える人生を。
過去へ決別を、未来に希望を。そしてなにより、今を精一杯に生きる覚悟を。
たくさんの大切な人が残してくれた吉原にはまだまだ根深い闇があり、救いを待っている人がいる。暮相のように飄々とした態度で闇を抱えている人も、きっといるだろう。
一般社会になじめない人たちもこの場所ではふっと息を抜くことが出来る場所になれたら。それが自分にできる吉原の街への恩返しだ。
明依は今、人生を台無しにした〝吉原〟という街を、心の底から好きだと思えていて、そのために人生を捧げてもいいと思った。
梅雨が横に避けるようにして動きを止めた。
鉄格子の奥に片手を手錠に繋がれ、自由を奪われている女が一人。
地獄大夫が俯いて座り込んでいた。背中辺りで真っ直ぐに切りそろえられた髪にクリーム色の着物。黙って俯いているだけでも、雰囲気だけで日本の様式美を他人に感じさせる天性のものを持っているのだろう。
明依は少しの間地獄大夫を見ていたが、着物の裾を払って、鉄格子の前に正座して座った。
「お話をさせてください。地獄大夫」
明依がそう言うと、地獄大夫はゆっくりと顔を上げた。
それから明依は、念のために一週間病院にいる事になった。
しかし体調はいたって普通。全く問題なく日常生活ができるだろうという医師の見解だ。
終夜は江戸の街を再現している吉原の街で堂々とビニール袋を片手に病室に入り、明依のベッドの横の椅子に座り、ガサゴソと袋に手を突っ込んだ。彼の手にはみかんと、それからレモンが握られている。
「これがビタミンで」
てっきりみかんとレモンだと思っていたものが〝ビタミン〟と紹介されて軽くパニックになる明依の手にビタミンを二つ乗せた終夜は、次にトマトを取り出す。
「これがリコピン」
そして手のひらに乗る〝ビタミン〟と言う名で呼ばれたみかんとレモンにまだ意識をやっていた明依は、次にやってきた〝リコピン〟をその上に乗せられて未だに情報処理が出来ずにいた。
そんな明依をよそに、終夜はキウイを取り出す。
「これはカリウムだね」
「……フルーツを栄養素で呼ぶ人初めてなんだけど」
「そうなんだ。じゃあはじめまして」
終夜はテキトーな口調で言うと、持参してきた包丁とまな板でキウイを切り始めた。
普通お見舞いと言えばフルーツじゃないの? どうしてトマトとレモンなの? 様々な疑問が浮かんだ明依だったが、終夜に聞くと専門的な答えしか返って来なさそうだったので必死に口をつぐんだ。
病室でまな板と包丁出してフルーツ切る人いるんだ。という終夜のずれた所を眺めながら、この空回りしているように見せかけて最大効率を重んじた結果のような気がしなくもない絶妙でシュールな状況に、平和だな、と思った。
明依は終夜から差し出された紙皿を受け取り、皿の上に乗ったキウイに同じく手渡された使い捨てのフォークを刺した。
「全部開いてたんだよ、珠名楼の窓」
終夜は自分が見舞いに持ってきたみかんを口に放り込みながら言う。
晴朗や陰が何の苦労もなく珠名屋の中に入ってこられたのはやはり、ちゃんと自然光が中に入ってきていたからだ。
だから晴朗は明らかに異様な珠名屋を〝普通の大見世の妓楼〟と言っていたのだろう。
「でも、あの短時間で埋められた窓を壊すには、たくさんの人数が必要だったはずだよね」
「だろうね。大人数と言えば、陰か遊女か……。洗脳されていた陰はみんな『暮相さまの幻覚を見た』って言ってるんだけど、珠名楼に入ってから洗脳が解けるまでの記憶がほとんどない。遊女に至っては更生に時間がかかる。だからもう、これ以上は探りようがない」
「……日奈達は?」
「あらかた珠名楼を調べたけど、死体は見つかってない。もしかしたらどこかで生きているのかもね」
終夜があえてわかりもしない事実をあやふやにして、希望を与えているのだろうという事が何となくわかった。
どこかで生きていてくれたら嬉しい。四人が外部からの助けを入りやすくするために窓を開ける手伝いをして、そして今もどこかで生きてくれている。それが今の明依の最大の願いだった。
「地獄大夫は?」
「地下牢に繋いでるよ。処分はまだ決まってない」
「……そっか」
「じゃあ、そろそろ行くね」
病室から出て行く終夜を見送ってから、また考える。
考えると言っても、今回はめずらしくもう結論は出ている。
地獄大夫に会いたい。地獄大夫と話がしたい。
文句を言いたいとか気持ちをぶつけたいとかそういう事ではなくて、話したいのは日奈と旭の事。
どんなふうに話をするのか、どんな内容を話すのか、重要なことは何も決めていない。ただ、地獄大夫を前にすれば難しく考えなくても話ができる気がした。ただ、その肝心の方法が全く思い浮かばない。
それから数日後、退院の日がやってきた。
明依が病室の前で看護師たちに頭を下げてから出入口へと向かうと、終夜と医者が話をしていた。
「じゃあもう大丈夫って事?」
「そう。後はしっかり栄養を取って、」
「栄養って具体的になんの栄養?」
きっと自分の事を話しているのだろうという事は想像できるが、終夜は帰ってから料理でもしてくれるつもりなのだろうか。普通の医師なら〝だいたいわかるだろ〟感を出すだろうが慣れた様子で医者は終夜に説明をしていた。
明依に気付いた終夜が軽く手を振る。
「すぐ行かないといけないから、荷物だけ取りに来た」
「別によかったのに……」
終夜はそう言うと、明依の着替えが入っている風呂敷を持った。
出来る限り大切にしようとしてくれている事が、言葉にしなくても伝わる。
「ありがとう、終夜」
「うん。じゃあね」
終夜は帰ろうと足を進めたが、振り向いた瞬間に誰かに肩をぶつけた。
「ごめん、梅雨」
「気をつけろよ」
素直に謝る終夜に、梅雨は反動で数歩後ろに下がりながら終夜を睨んだ。
「ちょうどよかった、明依を頼むよ」
「高尾大夫の健診中だ」
「おお、ナイスタイミング。今のうちによろしくね」
終夜はあっさりとそう言い、踵を返して病院から去って行った。
「じゃあ黎明さん、私もこれで」
「はい。お世話になりました」
明依は医者に深々と頭を下げて、中に入っていく
梅雨は珍しく反論せずに、終夜の背中を見送っていた。
二人きりになってすぐ、梅雨が口を開いた。
「体調は?」
「うん。もう平気」
「じゃあ、行くぞ」
行くってどこに。そう思った明依に、梅雨は握った何かを見せつける。
明依は息を呑んだ。
梅雨が持っているのは、間違いなく終夜の鍵だった。日奈と旭が終夜の治療したときの着物がストラップ代わりに結びつけてある、鍵の束。
「自分らしく世間の期待に応えるのが松ノ位の務めだろ、異例の遊女〝黎明大夫〟。まさかこんな中途半端な所で諦めて失望させないよな」
さきほど終夜にぶつかった時に取ったのだろう。
まさか一度痛い目を見た梅雨がまた協力してくれるとは思っていなかった明依は、驚きの後に感動が襲ってきた。
「だけど、今回ばかりは終夜がすぐに気づく前提で動かないと地下にすら入れない。一秒も惜しい。とにかく行くぞ」
「梅雨ち、」
「梅雨ちゃんって言うな」
梅雨はそう言うとさっさと先を歩いた。明依は梅雨において行かれない様に小走りで梅雨を追いかける。全方向から太陽光を遮る路地裏。湿度の高い空気。苔の生えている整備されていない石段。古ぼけた潜り戸。
抗争の時に来た二年前は、周りの様子をしっかりと見ている暇もなかった。
昼間だからか、最初に訪れた時は怖いと思っていた地下への扉も、趣のある様子に見えた。
梅雨が先を歩き、明依が後ろを歩いた。コンクリートを打ったまま放置されている建物内を歩きながら、明依は緊張にも似た気持ちを抱えていた。
明依一人分の足音が反響している。
そういえば初めてここに来た時、終夜が足音を立てない事が堪らなく不気味だったという事を思い出した。
迷路の様に入り組んだ道。間隔をあけて壁に打ち付けられた明かりが揺れる。
あの頃怖くて堪らなかった環境と同じ場所にいるのに、心は穏やかだ。
終夜が死を待っていた開き戸を通り過ぎて、明依は梅雨の背中を見た。
あの時にはまだ梅雨の存在も、地獄大夫の存在も。それどころか終夜と言う人間の本性さえ知らなかった。
当時の四人の松ノ位が、松ノ位たる所以も、吉原の陰謀も。
明確な時の流れと成長を感じていた。時間は流れて時代は変わる。きっとこれからもそう。人生という短い時間の中で、私に一体、何ができるだろう。
歴史に名を残すような大それたことじゃなくていい。自分の中で悔いがないと思える人生を。
過去へ決別を、未来に希望を。そしてなにより、今を精一杯に生きる覚悟を。
たくさんの大切な人が残してくれた吉原にはまだまだ根深い闇があり、救いを待っている人がいる。暮相のように飄々とした態度で闇を抱えている人も、きっといるだろう。
一般社会になじめない人たちもこの場所ではふっと息を抜くことが出来る場所になれたら。それが自分にできる吉原の街への恩返しだ。
明依は今、人生を台無しにした〝吉原〟という街を、心の底から好きだと思えていて、そのために人生を捧げてもいいと思った。
梅雨が横に避けるようにして動きを止めた。
鉄格子の奥に片手を手錠に繋がれ、自由を奪われている女が一人。
地獄大夫が俯いて座り込んでいた。背中辺りで真っ直ぐに切りそろえられた髪にクリーム色の着物。黙って俯いているだけでも、雰囲気だけで日本の様式美を他人に感じさせる天性のものを持っているのだろう。
明依は少しの間地獄大夫を見ていたが、着物の裾を払って、鉄格子の前に正座して座った。
「お話をさせてください。地獄大夫」
明依がそう言うと、地獄大夫はゆっくりと顔を上げた。



