「何かあった?」
終夜はきっと忙しい。まだ仕事が残っているのだろう。しかし今の終夜からはそんな様子は全く見られず、話を聞いてくれる雰囲気を持っていた。
終夜のすぐ後ろに立っている付き人二人は、悠長に話をしようとする終夜に少し焦った様子を見せた。
「あの……」
「うん」
「話、あって」
「そっか。……じゃ、先行っといて」
終夜は明依にも付き人にも、終始あっさりと言う。終夜以外の三人は同時に呆気にとられ、それから付き人の男二人は遠慮がちに口を開いた。
「しかし、終夜さま」
「もうお時間があまり……」
「テキトー言っといてよ。急ぎの書類にお茶こぼしたとか、死にかけのネコ見つけたとか」
理由が即席なりのクオリティーだ。だいたい、吉原にネコはいない。
しかしテキトーな理由が終夜らしいなと思った所で、ふと明依の思考は止まった。
もしかして〝死にかけのネコ〟というのは自分の事を言っているんじゃないだろうな。と一度疑い始めると、どこまでも終夜という男への疑心が深まっていく。
ここ二年。物理的な距離は近づいたものの、心理的には相変わらず一ミリも信用していない終夜という男への疑惑で頭の中は埋め尽くされていた。
終夜が一歩も動く気がないという事を知ると、付き人は「伝えておきます」と頭を下げて去って行った。
終夜の辿る視線が付き人の移動を見守る途中に立っている明依をとらえた。
ジトリとしたもの言いたげな明依の目を見て終夜は笑顔を張り付けて口を開く。
「別に死にかけのネコに他意はないよ。深読みしないで」
終夜がこんなふうに笑うときは、ろくなことを考えていない時に決まっている。
「で、話って?」
終夜は玄関口の段差に座り込むと、座りなよとでも言いたげに自分の隣をポンポンと叩いた。
胸が少し高鳴る。
終夜は意地が悪い。だけど優しい、と思う。
優しいと断言できるほど関わっているわけではないが、優しい。
明依は素直に、終夜の隣に腰を下ろした。
「信じてもらえないかもしれないんだけど」
「うん」
あっさりとした終夜の返事を聞いて、明依は口を閉ざした。
終夜は急いでいるのだからすぐに言わないといけないと思うのに、どんな言葉にしたら終夜に的確に伝わるのか、終夜はどんな気持ちになるのか、どんな反応をするのか。考えても仕方のない事でいっぱいになる。
終夜が来る前に考えておかなければいけなかったのは、気持ちを言葉にして伝える方法だったというのに。明依がしたことといえば、頭の中で先ほど見た出来事を繰り返しなぞっていただけ。
そんな明依をよそに、急いでいるだろう終夜は明依をせかすこともなく、意図してゆっくりとした時間を作っているみたいにゆるりとした雰囲気を持って、まるで世間話のひとつのように明依の次の言葉を待っていた。
「日奈と旭を見たの」
結局、直接的な言葉を選んだ。
終夜が息を呑む。
どうして終夜は驚くの? 二人は死んだ。それを知っていればすぐに、見間違い、という可能性が浮かぶはずなのに。
終夜はもしかして、自分が隠している事実を知っている事に驚いた?
これはきっと、純粋に知らない事実を前にした人間の反応じゃない。
明依は自分の意図しないところで気持ちを切り替えていた。
予測を働かせる意識とはまた別のところで終夜の次の手を冷静に見ようとしている。
一言を発して相手の反応を見る。
それはまるで、終夜と敵対していた時のようで。
終夜はいつも通りの薄い笑顔を貼り付けた。
彼はきっとこれから、嘘をつくだろう。
「見間違いだよ」
終夜は優しい。だからきっと〝優しい嘘〟なのだろう。
傷付く事実があるから、ひた隠しにする。
例えば、二年前。
宵の正体が実は暮相という男で、日奈も旭も両親も殺して明依をこの街に引きずり込んだという事実をひた隠しにして、明依の中に〝宵〟という男の形を残したまま自分だけが悪者になって方を付けようとしたみたいに。
だけどもし宵と同じことをしようとしているのなら、どうしてそれがすごく悲しいことに気付いてくれないんだろう。
明依はゆっくりと息を吸い込んだ。
「私が日奈と旭を見間違えると思う?」
「見間違いじゃないなら、亡霊ってことになるよ。旭と日奈は死んだんだから」
終夜は直接的な言葉をあえて選んでいる。
それにやっぱり傷ついて、腹が立って。だけど本当にそうなのだから、一つだって反論は出てこない。
「でも私は、珠名屋に入っていく二人を見た」
「あの辺りは吉原でも指折りに治安が悪い場所だ。俺達がまだ追いついていないルートからクスリが入ってきているし、そのクスリで飛んでる客の話も聞く。元松ノ位が近付いていい場所じゃない。外界に売り飛ばされちゃうよ。剥製の遊女みたいにね」
終夜は飄々とした態度でそう答えると、ゆっくりと立ち上がる。明依は終夜の後を追って立ち上がり、それから終夜の手をしっかりと握った。
「話をそらさないで」
終夜に触れていると強く自覚した途端に、胸が痛む。
物理的にも、心理的にも、近付けば近付くほど苦しい。
わかっていたことだ。最初からわかっていて一緒にいる事を決めた。
だけど触れたいのに触れられない事が、こんなにつらいとは思わなかっただけ。
きっと、お互い様だ。
触れ合えば思い出が内側から心を刺すのはきっと、お互い様。
「調べてみるよ」
終夜はズルい。
〝調べてみる〟と言えば相手が何も言えないと知ってこの言葉を選ぶんだから。
「何か知ってるんでしょ?」
「何も知らないよ。だから調べてみるって言ってるんだ」
どうして嘘をつくんだろう。
終夜はきっと貫き通せないと分かっていて、それでも嘘をついている。
何も言えない明依を振り返る事もなく、終夜は自然な素振りで明依の手をはなした。
「おやすみ、明依」
明依は終夜が見えなくなってもその場に立ちすくんでいた。
この状況を願ったはずだった。
終夜と一緒に生きていく未来を願って、自分の足で終夜の下に走った。
今胸の内にある悲しみが、欲張りなのか真っ当な感情なのかはわからない。
ただ一つわかるのは、きっと最初で最後に身体を重ねたあの夜。
あの夜で別れを告げていた方が、互いに綺麗な思い出を胸に抱けただろうという事くらいだ。
終夜は調べてくれるだろう。
そしてきっと、都合のいい嘘をくれるのだ。
まるで、吉原という浮世の地獄に誘い込み、自分に都合のいい幻想世界を魅せ続けた宵のように。
明依は日奈と旭の面影を頭の中で思い描いた。
綺麗な思い出は蝶のように明依の頭の中を優雅に舞って、それから蜂のように毒針で心の内側を刺す。
自分がこの街にいる事は日奈と旭への裏切り。終夜の側にいる事は、日奈への裏切り。
だから一緒にいると誓った人間の側にすら、近づけない。
感情というのは面倒で、それから苦しい。
明依は先ほどまで終夜の手を掴んでいた手を見た。
二人は同じ方向を向いてなんていない。終夜は手の届く距離にはいない。
だから明依は、拳を強く握りしめた。
変えられない他人の事なんて、考えない。終夜は何も悪くない。
終夜が何も教えてくれないのなら、自分で探すだけだ。
今までと何も変わらない。
人生は自分だけのもので、自分で切り開かないのなら意味がない。松ノ位に昇格したときに、嫌というほど思い知ったはずだ。
夕霧の言う通り終夜の隣にいる事に慣れてしまっていて、たるんでいただけだ。
思い出せ。
二年前。自分の力で道を切り開いて、松ノ位に昇格したじゃないか。
明依はゆっくりと息を吐くと、珠名屋に向かった。
大通りからそれて細道を通る珠名屋はやはり、吉原の街から除外された場所。
吉原の最果て。ここがどんな地区なのか、明依は知らない。
珠名屋に入っていったのは、間違いなく旭と日奈だった。
だけど、日奈と旭はもう死んでいる。
間違いなく二人とも、死んでしまった。
じゃあ、今日見た日奈と旭は一体、何者なんだ。
明依は格子越しに座っている遊女の前に立った。作り物みたいに白い肌に、作り物みたいに綺麗で長い髪。時々ゆっくりと、瞬きをする。
それは日本人形をとびきり美しく描いた絵画のよう。
作り物のような容姿の中、目から頬にかかった痛々しい傷だけが、彼女が人間であると証明している。
外野からテーマパークの精巧な人形を見ているような気持ちだったのに
「当ててあげよう、明依」
いつの間にか、しっかりと視線が絡んでいた。
ただ、視線が合っただけの事。
しかし明依にとっては突然の事で、息を呑んで一歩後ずさった。
単調な調子で言う遊女は、相変わらずの無表情。
「どうしてお前が私に会いに来たのか」
以前勝山は『会話とは個性と個性のぶつかりあい』と言った。
勝山の言葉に目の前の彼女と対峙している今の状況を当てはめるのなら、弱い。
彼女の個性に比べて、自分の個性は圧倒的に弱いと思った。
だからひるんで声一つでなければ、視線をそらす事さえも出来なかった。
終夜はきっと忙しい。まだ仕事が残っているのだろう。しかし今の終夜からはそんな様子は全く見られず、話を聞いてくれる雰囲気を持っていた。
終夜のすぐ後ろに立っている付き人二人は、悠長に話をしようとする終夜に少し焦った様子を見せた。
「あの……」
「うん」
「話、あって」
「そっか。……じゃ、先行っといて」
終夜は明依にも付き人にも、終始あっさりと言う。終夜以外の三人は同時に呆気にとられ、それから付き人の男二人は遠慮がちに口を開いた。
「しかし、終夜さま」
「もうお時間があまり……」
「テキトー言っといてよ。急ぎの書類にお茶こぼしたとか、死にかけのネコ見つけたとか」
理由が即席なりのクオリティーだ。だいたい、吉原にネコはいない。
しかしテキトーな理由が終夜らしいなと思った所で、ふと明依の思考は止まった。
もしかして〝死にかけのネコ〟というのは自分の事を言っているんじゃないだろうな。と一度疑い始めると、どこまでも終夜という男への疑心が深まっていく。
ここ二年。物理的な距離は近づいたものの、心理的には相変わらず一ミリも信用していない終夜という男への疑惑で頭の中は埋め尽くされていた。
終夜が一歩も動く気がないという事を知ると、付き人は「伝えておきます」と頭を下げて去って行った。
終夜の辿る視線が付き人の移動を見守る途中に立っている明依をとらえた。
ジトリとしたもの言いたげな明依の目を見て終夜は笑顔を張り付けて口を開く。
「別に死にかけのネコに他意はないよ。深読みしないで」
終夜がこんなふうに笑うときは、ろくなことを考えていない時に決まっている。
「で、話って?」
終夜は玄関口の段差に座り込むと、座りなよとでも言いたげに自分の隣をポンポンと叩いた。
胸が少し高鳴る。
終夜は意地が悪い。だけど優しい、と思う。
優しいと断言できるほど関わっているわけではないが、優しい。
明依は素直に、終夜の隣に腰を下ろした。
「信じてもらえないかもしれないんだけど」
「うん」
あっさりとした終夜の返事を聞いて、明依は口を閉ざした。
終夜は急いでいるのだからすぐに言わないといけないと思うのに、どんな言葉にしたら終夜に的確に伝わるのか、終夜はどんな気持ちになるのか、どんな反応をするのか。考えても仕方のない事でいっぱいになる。
終夜が来る前に考えておかなければいけなかったのは、気持ちを言葉にして伝える方法だったというのに。明依がしたことといえば、頭の中で先ほど見た出来事を繰り返しなぞっていただけ。
そんな明依をよそに、急いでいるだろう終夜は明依をせかすこともなく、意図してゆっくりとした時間を作っているみたいにゆるりとした雰囲気を持って、まるで世間話のひとつのように明依の次の言葉を待っていた。
「日奈と旭を見たの」
結局、直接的な言葉を選んだ。
終夜が息を呑む。
どうして終夜は驚くの? 二人は死んだ。それを知っていればすぐに、見間違い、という可能性が浮かぶはずなのに。
終夜はもしかして、自分が隠している事実を知っている事に驚いた?
これはきっと、純粋に知らない事実を前にした人間の反応じゃない。
明依は自分の意図しないところで気持ちを切り替えていた。
予測を働かせる意識とはまた別のところで終夜の次の手を冷静に見ようとしている。
一言を発して相手の反応を見る。
それはまるで、終夜と敵対していた時のようで。
終夜はいつも通りの薄い笑顔を貼り付けた。
彼はきっとこれから、嘘をつくだろう。
「見間違いだよ」
終夜は優しい。だからきっと〝優しい嘘〟なのだろう。
傷付く事実があるから、ひた隠しにする。
例えば、二年前。
宵の正体が実は暮相という男で、日奈も旭も両親も殺して明依をこの街に引きずり込んだという事実をひた隠しにして、明依の中に〝宵〟という男の形を残したまま自分だけが悪者になって方を付けようとしたみたいに。
だけどもし宵と同じことをしようとしているのなら、どうしてそれがすごく悲しいことに気付いてくれないんだろう。
明依はゆっくりと息を吸い込んだ。
「私が日奈と旭を見間違えると思う?」
「見間違いじゃないなら、亡霊ってことになるよ。旭と日奈は死んだんだから」
終夜は直接的な言葉をあえて選んでいる。
それにやっぱり傷ついて、腹が立って。だけど本当にそうなのだから、一つだって反論は出てこない。
「でも私は、珠名屋に入っていく二人を見た」
「あの辺りは吉原でも指折りに治安が悪い場所だ。俺達がまだ追いついていないルートからクスリが入ってきているし、そのクスリで飛んでる客の話も聞く。元松ノ位が近付いていい場所じゃない。外界に売り飛ばされちゃうよ。剥製の遊女みたいにね」
終夜は飄々とした態度でそう答えると、ゆっくりと立ち上がる。明依は終夜の後を追って立ち上がり、それから終夜の手をしっかりと握った。
「話をそらさないで」
終夜に触れていると強く自覚した途端に、胸が痛む。
物理的にも、心理的にも、近付けば近付くほど苦しい。
わかっていたことだ。最初からわかっていて一緒にいる事を決めた。
だけど触れたいのに触れられない事が、こんなにつらいとは思わなかっただけ。
きっと、お互い様だ。
触れ合えば思い出が内側から心を刺すのはきっと、お互い様。
「調べてみるよ」
終夜はズルい。
〝調べてみる〟と言えば相手が何も言えないと知ってこの言葉を選ぶんだから。
「何か知ってるんでしょ?」
「何も知らないよ。だから調べてみるって言ってるんだ」
どうして嘘をつくんだろう。
終夜はきっと貫き通せないと分かっていて、それでも嘘をついている。
何も言えない明依を振り返る事もなく、終夜は自然な素振りで明依の手をはなした。
「おやすみ、明依」
明依は終夜が見えなくなってもその場に立ちすくんでいた。
この状況を願ったはずだった。
終夜と一緒に生きていく未来を願って、自分の足で終夜の下に走った。
今胸の内にある悲しみが、欲張りなのか真っ当な感情なのかはわからない。
ただ一つわかるのは、きっと最初で最後に身体を重ねたあの夜。
あの夜で別れを告げていた方が、互いに綺麗な思い出を胸に抱けただろうという事くらいだ。
終夜は調べてくれるだろう。
そしてきっと、都合のいい嘘をくれるのだ。
まるで、吉原という浮世の地獄に誘い込み、自分に都合のいい幻想世界を魅せ続けた宵のように。
明依は日奈と旭の面影を頭の中で思い描いた。
綺麗な思い出は蝶のように明依の頭の中を優雅に舞って、それから蜂のように毒針で心の内側を刺す。
自分がこの街にいる事は日奈と旭への裏切り。終夜の側にいる事は、日奈への裏切り。
だから一緒にいると誓った人間の側にすら、近づけない。
感情というのは面倒で、それから苦しい。
明依は先ほどまで終夜の手を掴んでいた手を見た。
二人は同じ方向を向いてなんていない。終夜は手の届く距離にはいない。
だから明依は、拳を強く握りしめた。
変えられない他人の事なんて、考えない。終夜は何も悪くない。
終夜が何も教えてくれないのなら、自分で探すだけだ。
今までと何も変わらない。
人生は自分だけのもので、自分で切り開かないのなら意味がない。松ノ位に昇格したときに、嫌というほど思い知ったはずだ。
夕霧の言う通り終夜の隣にいる事に慣れてしまっていて、たるんでいただけだ。
思い出せ。
二年前。自分の力で道を切り開いて、松ノ位に昇格したじゃないか。
明依はゆっくりと息を吐くと、珠名屋に向かった。
大通りからそれて細道を通る珠名屋はやはり、吉原の街から除外された場所。
吉原の最果て。ここがどんな地区なのか、明依は知らない。
珠名屋に入っていったのは、間違いなく旭と日奈だった。
だけど、日奈と旭はもう死んでいる。
間違いなく二人とも、死んでしまった。
じゃあ、今日見た日奈と旭は一体、何者なんだ。
明依は格子越しに座っている遊女の前に立った。作り物みたいに白い肌に、作り物みたいに綺麗で長い髪。時々ゆっくりと、瞬きをする。
それは日本人形をとびきり美しく描いた絵画のよう。
作り物のような容姿の中、目から頬にかかった痛々しい傷だけが、彼女が人間であると証明している。
外野からテーマパークの精巧な人形を見ているような気持ちだったのに
「当ててあげよう、明依」
いつの間にか、しっかりと視線が絡んでいた。
ただ、視線が合っただけの事。
しかし明依にとっては突然の事で、息を呑んで一歩後ずさった。
単調な調子で言う遊女は、相変わらずの無表情。
「どうしてお前が私に会いに来たのか」
以前勝山は『会話とは個性と個性のぶつかりあい』と言った。
勝山の言葉に目の前の彼女と対峙している今の状況を当てはめるのなら、弱い。
彼女の個性に比べて、自分の個性は圧倒的に弱いと思った。
だからひるんで声一つでなければ、視線をそらす事さえも出来なかった。



