終夜が倒れてから一晩が経ち、医者や看護師から〝トラブルメーカー〟という新たな通り名を得た明依。医者が言うには身体には驚くほど問題がないらしい。
「地獄大夫とやらは見事ですな……。致死量の毒を体内に入れているのに、解毒薬を打っただけで後遺症どころか具合の悪さも残さず綺麗に元通りに戻してしまうなんて」
「先生! 感心している場合ではありませんぞ!」
医学、薬学の事に関しては知識を追求したいという欲があるのか、興奮気味に語る医者に明依の見舞いに来た炎天が言い、清澄と時雨が苦笑いを浮かべていた。
そして終夜に身体の傷をつけられた時も同じやり取りをしたことを思い出した。
あの時は肩身の狭い思いをした。終夜をかばう、という事自体が吉原にとっての裏切り行為だった時代だ。今となれば終夜は、たくさんの人が頼りにする裏の頭領になった。
明依が倒れた後、終夜は二週間一睡もせずに側にいてくれたのだとたくさんの人から聞いた。だから起きたらまず一番に、お礼を言いたい。終夜は〝人体の限界を突破した睡眠不足〟と医師から判断され、今はまだ眠っているらしい。
医者は終夜の身体の強さに絶対的な信頼を置いているのか、「ギネスに載れる」と言って笑っていた。
明依は窓から白く飽和して降る太陽の光を見た。
起きて一人だと、終夜は寂しいだろう。だから医者から何としてでも病室からの外出許可をもらって、終夜の側にいたいと思っていた。
「あの……」
「終夜くんなら隣の部屋ですよ」
医者はもうわかっているとでも言いたげな様子で明依に言う。
清澄と炎天と時雨が帰り、それからひっきりなしに来る見舞い客と話をした。泣きながら病室に入ってくる雪と桃と、少し目に涙をためた霞に、夕霧や高尾も。
本当に恵まれているのだと思うばかりだ。
見舞い客が途切れたのは、夕暮れ時。まもなく日は、高い塀の向こうに隠れて見えなくなる。
明依の病室には、オレンジの光が溢れていた。きっと隣の終夜の部屋もそうだろう。
明依は地面に足をつける。ふっと軽い気持ちになるのは、やっとまともに歩くことができるという直感から来る嬉しさ。だから終夜のお見舞いに行けるという嬉しさだった。
具合の悪さは全くない。
地獄大夫は今どこで何をしているのか、日奈と旭、宵と暮相は無事なのか。
聞きたい事、考えなければいけない事がたくさんある。だけどまずは、終夜の所に。
明依は医師に言われた通り、隣の部屋に足を踏み入れる。明依の病室同様、開いた窓からオレンジ色の光が部屋の中を照らしていた。
終夜は窓辺にぽつりと置かれたベッドに横たわっている。
夕方だからだろうか。終夜がいるからだろうか。胸の内をきゅっと縛って窮屈になる。ほんの少しもの寂しくて、それでいて愛しくて。こうやって人生が続いて行くのだろうと飛躍した考えを浮かばせる、不思議な感覚。
明依はゆっくりと終夜の側に歩き、窓を背にして木の椅子に腰かけた。
終夜はあどけない表情で眠っていた。思えば終夜が無防備に眠っている所を見るのは初めてだ。
主郭の地下で死にかけた時とは違う表情に思えた。あまりに綺麗に眠っているから、明依は本当に終夜が生きているのだろうかと不安になり、とっさに終夜の顔の近くに耳を近づけた。終夜の規則的な寝息が聞こえてから、明依は目を閉じて安堵の息を吐きまた椅子に座った。
明依は先ほど終夜がしてくれていたのと同じように、横たわる終夜の右手を両手で包んだ。
暖かい。
このまま一緒に眠っていしまいたいような温かさだった。
やはり、胸をきゅっと縛るような切なさがある。
終夜が好きだな、と心の底から実感していた。
終夜が大きく一度、息を吸った。
「……明依?」
かすれた声で言う終夜の声に、明依は考えるよりも先に握っている終夜の手を放した。
「寝てたんだ、俺」
「寝てたって言うか、倒れたんだよ」
「……そっか」
終夜は何の気もない様子でそういって、起き上がる。
しかし明依は、いつもの終夜とは違う違和感を覚えていた。
「……体調は?」
きっとまだ睡眠が足りないのだろう。
そう思った明依だったが、先に体調を心配して声をかけたのは終夜の方だった。
「私はもう大丈夫だよ。終夜こそ、もう少し寝てたら? お医者さまが終夜の事〝ギネスに載れる〟って言ってたよ」
「危険だから、今はもうギネスは断眠記録を認めてないよ」
回っていない頭でも知識を絡めた高度なツッコミは忘れないらしい。
二週間も目が覚めるのを側で待っていてくれたことのお礼が言いたくて、明依は口を開こうとした。
しかし何となく、終夜が何か大切なことを話そうとしているのではないかという直感。憂う表情、しかしどちらかと言えば悲しみと言うよりも、喜びに近いような顔。明確に説明しようとしてもできない。表情が、雰囲気が。終夜が無意識に発している情報が、何となく明依にいつもと違う終夜を認識させていた。
「……思い出の中にいたんだ」
ぽつりと、水滴が一つ波のない水たまりに落ちるみたいな声で、終夜は言う。
「旭と日奈の夢を見ていた」
「……日奈と旭は、なんて言ってた?」
「俺にとって都合のいい事だよ。でも――」
終夜は夢なんて非現実的なものにいちいち心を動かされたりしないか。一瞬、そう思った明依だったが、それは間違いだったと思い知った。
終夜が両方の手のひらを持ち上げてうつむき気味にそれを見て、嬉しそうな顔で笑うから。
「――手を、握ってくれた」
きっと綺麗な思い出の中にいたのだ。
できる事ならその思い出に一瞬だけでも触れてみたいと本気で思うくらいに、終夜は優しい顔で笑っていた。
いつも終夜は思い出の中にいる時、悲しそうで綺麗な顔をする。しかし今は、たくさんの幸せを含んでいる顔をしていた。
終夜の手を放す必要なんてどこにもないじゃないか、ふいにそう思った明依は、ゆっくりと息を吐きながら笑って、終夜の両手を包むようにして両手で握った。
大切なものが全て思い出になった。
だからこそ、私たちは、手を取り合って生きていくんじゃないか。
終夜は驚いた表情をしている。しかし明依が笑うと終夜は自分に呆れたように息を全部吐き出して笑って、それから勢いに任せて明依を抱きしめた。
「……明依」
「うん」
「俺、明依が死ぬかもしれないって思うと、怖かった」
〝怖い〟なんて言葉を終夜から聞く日が来るなんて、思いもしなかった。
終夜にも怖い事があって、その原因が自分にある。
苦しそうなのに、安心しているようにも聞こえる終夜の声。
終夜はすがるように、さらに強く明依を抱きしめた。
身体が痛い。しかし、生きているから痛いのだと明依は改めて思っていた。
だからきっとこの痛みも幸せな証拠で、こんな痛みなら受け入れてもいい。
明依は終夜の背中に手を回して抱きしめた。
『一緒にいろんなことを乗り越えたいって思ったのは、私だけなの?』
『……形が違うだけだよ』
明依は今、終夜のその言葉の意味を明確に理解していた。
終夜はきっと自分が側にいるだけでよかったのだろう。ただ隣に居てくれるだけで頑張れる。本当に形が違うだけだ。終夜にとっての〝一緒にいろんなことを乗り越える〟と言うのは、ただ側にいるという事だったのだ。
終夜は無条件で〝価値〟を示してくれる。何をしなくてもただ側にいるだけで、支えになっているのだと教えてくれる。そんな人に、短い人生でいったい何度出会う事が出来るだろう。
日はまもなく沈み、夜が来る。
しかし、もう二人は暗い夜に迷う事はないだろうという直感が明依にはあった。だからきっと、終夜もそうなのだろう。
「地獄大夫とやらは見事ですな……。致死量の毒を体内に入れているのに、解毒薬を打っただけで後遺症どころか具合の悪さも残さず綺麗に元通りに戻してしまうなんて」
「先生! 感心している場合ではありませんぞ!」
医学、薬学の事に関しては知識を追求したいという欲があるのか、興奮気味に語る医者に明依の見舞いに来た炎天が言い、清澄と時雨が苦笑いを浮かべていた。
そして終夜に身体の傷をつけられた時も同じやり取りをしたことを思い出した。
あの時は肩身の狭い思いをした。終夜をかばう、という事自体が吉原にとっての裏切り行為だった時代だ。今となれば終夜は、たくさんの人が頼りにする裏の頭領になった。
明依が倒れた後、終夜は二週間一睡もせずに側にいてくれたのだとたくさんの人から聞いた。だから起きたらまず一番に、お礼を言いたい。終夜は〝人体の限界を突破した睡眠不足〟と医師から判断され、今はまだ眠っているらしい。
医者は終夜の身体の強さに絶対的な信頼を置いているのか、「ギネスに載れる」と言って笑っていた。
明依は窓から白く飽和して降る太陽の光を見た。
起きて一人だと、終夜は寂しいだろう。だから医者から何としてでも病室からの外出許可をもらって、終夜の側にいたいと思っていた。
「あの……」
「終夜くんなら隣の部屋ですよ」
医者はもうわかっているとでも言いたげな様子で明依に言う。
清澄と炎天と時雨が帰り、それからひっきりなしに来る見舞い客と話をした。泣きながら病室に入ってくる雪と桃と、少し目に涙をためた霞に、夕霧や高尾も。
本当に恵まれているのだと思うばかりだ。
見舞い客が途切れたのは、夕暮れ時。まもなく日は、高い塀の向こうに隠れて見えなくなる。
明依の病室には、オレンジの光が溢れていた。きっと隣の終夜の部屋もそうだろう。
明依は地面に足をつける。ふっと軽い気持ちになるのは、やっとまともに歩くことができるという直感から来る嬉しさ。だから終夜のお見舞いに行けるという嬉しさだった。
具合の悪さは全くない。
地獄大夫は今どこで何をしているのか、日奈と旭、宵と暮相は無事なのか。
聞きたい事、考えなければいけない事がたくさんある。だけどまずは、終夜の所に。
明依は医師に言われた通り、隣の部屋に足を踏み入れる。明依の病室同様、開いた窓からオレンジ色の光が部屋の中を照らしていた。
終夜は窓辺にぽつりと置かれたベッドに横たわっている。
夕方だからだろうか。終夜がいるからだろうか。胸の内をきゅっと縛って窮屈になる。ほんの少しもの寂しくて、それでいて愛しくて。こうやって人生が続いて行くのだろうと飛躍した考えを浮かばせる、不思議な感覚。
明依はゆっくりと終夜の側に歩き、窓を背にして木の椅子に腰かけた。
終夜はあどけない表情で眠っていた。思えば終夜が無防備に眠っている所を見るのは初めてだ。
主郭の地下で死にかけた時とは違う表情に思えた。あまりに綺麗に眠っているから、明依は本当に終夜が生きているのだろうかと不安になり、とっさに終夜の顔の近くに耳を近づけた。終夜の規則的な寝息が聞こえてから、明依は目を閉じて安堵の息を吐きまた椅子に座った。
明依は先ほど終夜がしてくれていたのと同じように、横たわる終夜の右手を両手で包んだ。
暖かい。
このまま一緒に眠っていしまいたいような温かさだった。
やはり、胸をきゅっと縛るような切なさがある。
終夜が好きだな、と心の底から実感していた。
終夜が大きく一度、息を吸った。
「……明依?」
かすれた声で言う終夜の声に、明依は考えるよりも先に握っている終夜の手を放した。
「寝てたんだ、俺」
「寝てたって言うか、倒れたんだよ」
「……そっか」
終夜は何の気もない様子でそういって、起き上がる。
しかし明依は、いつもの終夜とは違う違和感を覚えていた。
「……体調は?」
きっとまだ睡眠が足りないのだろう。
そう思った明依だったが、先に体調を心配して声をかけたのは終夜の方だった。
「私はもう大丈夫だよ。終夜こそ、もう少し寝てたら? お医者さまが終夜の事〝ギネスに載れる〟って言ってたよ」
「危険だから、今はもうギネスは断眠記録を認めてないよ」
回っていない頭でも知識を絡めた高度なツッコミは忘れないらしい。
二週間も目が覚めるのを側で待っていてくれたことのお礼が言いたくて、明依は口を開こうとした。
しかし何となく、終夜が何か大切なことを話そうとしているのではないかという直感。憂う表情、しかしどちらかと言えば悲しみと言うよりも、喜びに近いような顔。明確に説明しようとしてもできない。表情が、雰囲気が。終夜が無意識に発している情報が、何となく明依にいつもと違う終夜を認識させていた。
「……思い出の中にいたんだ」
ぽつりと、水滴が一つ波のない水たまりに落ちるみたいな声で、終夜は言う。
「旭と日奈の夢を見ていた」
「……日奈と旭は、なんて言ってた?」
「俺にとって都合のいい事だよ。でも――」
終夜は夢なんて非現実的なものにいちいち心を動かされたりしないか。一瞬、そう思った明依だったが、それは間違いだったと思い知った。
終夜が両方の手のひらを持ち上げてうつむき気味にそれを見て、嬉しそうな顔で笑うから。
「――手を、握ってくれた」
きっと綺麗な思い出の中にいたのだ。
できる事ならその思い出に一瞬だけでも触れてみたいと本気で思うくらいに、終夜は優しい顔で笑っていた。
いつも終夜は思い出の中にいる時、悲しそうで綺麗な顔をする。しかし今は、たくさんの幸せを含んでいる顔をしていた。
終夜の手を放す必要なんてどこにもないじゃないか、ふいにそう思った明依は、ゆっくりと息を吐きながら笑って、終夜の両手を包むようにして両手で握った。
大切なものが全て思い出になった。
だからこそ、私たちは、手を取り合って生きていくんじゃないか。
終夜は驚いた表情をしている。しかし明依が笑うと終夜は自分に呆れたように息を全部吐き出して笑って、それから勢いに任せて明依を抱きしめた。
「……明依」
「うん」
「俺、明依が死ぬかもしれないって思うと、怖かった」
〝怖い〟なんて言葉を終夜から聞く日が来るなんて、思いもしなかった。
終夜にも怖い事があって、その原因が自分にある。
苦しそうなのに、安心しているようにも聞こえる終夜の声。
終夜はすがるように、さらに強く明依を抱きしめた。
身体が痛い。しかし、生きているから痛いのだと明依は改めて思っていた。
だからきっとこの痛みも幸せな証拠で、こんな痛みなら受け入れてもいい。
明依は終夜の背中に手を回して抱きしめた。
『一緒にいろんなことを乗り越えたいって思ったのは、私だけなの?』
『……形が違うだけだよ』
明依は今、終夜のその言葉の意味を明確に理解していた。
終夜はきっと自分が側にいるだけでよかったのだろう。ただ隣に居てくれるだけで頑張れる。本当に形が違うだけだ。終夜にとっての〝一緒にいろんなことを乗り越える〟と言うのは、ただ側にいるという事だったのだ。
終夜は無条件で〝価値〟を示してくれる。何をしなくてもただ側にいるだけで、支えになっているのだと教えてくれる。そんな人に、短い人生でいったい何度出会う事が出来るだろう。
日はまもなく沈み、夜が来る。
しかし、もう二人は暗い夜に迷う事はないだろうという直感が明依にはあった。だからきっと、終夜もそうなのだろう。



