「生きてるんですけど」
終夜の少し不機嫌そうな声で、明依は目を開いた。少し乱暴に明依の目の涙を拭う終夜は、やっぱり少し機嫌が悪そうな顔をしている。それでいてなんだか寂し気な、複雑な表情を浮かべていた。
「ギリ浮気だよ、それ」
「終夜にも〝浮気〟とかいう概念、あったんだ」
意識が朦朧としていても、終夜へのツッコミが何も考えずに出てくるところ辺りがなんだかんだと言ってもお互いをよく知っているのだと認識する。
不思議な関係だ。探り合うように互いを避けていたのに、やっぱりお互いの事をよく知っていると思う。
終夜はこんな状況にも関わらず、またむっとした顔をしてそれから溜息を吐き出した。
「……複雑」
それからぼそりと呟く終夜に、明依は思わず息を漏らして笑った。自分の息を吐く衝動が、骨身に染みてきしむ。
意外と可愛い所もあるのだなと、こんな状況なのにやっぱり終夜を愛しく思う。
「もう間に合わないよ、終夜。どうやら時間を喰い過ぎたらしい」
地獄大夫の声が、何となく耳を経由して頭の中を通り過ぎる。何が間に合わないのか、明依にはよく理解できた。
「明依はもう、まもなく死ぬ。お前が私を捕まえるより前に必ず」
例えるならこの感覚は、一日中肉体労働をしてくたくたになった夜の食後のような。電車の中でまどろむような。とにかく、今なら泥のように眠れそうで、眠ってしまえばきっと心地がいいと確信できる感覚。
死に向かって、身体が準備を始めているのだろう。
「できる事なら明依も本物を使いたいと思っていたけど、お前だけでいいよ、終夜」
地獄大夫の言葉は平たんな口調で響いた。
もしかすると地獄大夫の提案は、一方にとって幸運な打診なのかもしれない。
「お前が珠名屋に残るなら、明依を助けてやる。だからこれ以上、その身体に傷を付けるのはやめてほしい」
地獄大夫はどうしても終夜の身体が欲しいらしい。
きっと終夜は、少しは悩むのだろうと明依は思っていた。そして案の定、終夜は少し俯いて、自分と向き合っている様子でいた。
終夜は、身代わりになり解毒薬を、と言うつもりなのだろうか。そして何もかも忘れて、一人で生きていけとでもいうのだろうか。
いまさら、二年も経って。
そんな馬鹿な話があってたまるか。
「……終夜」
明依が名前を呼ぶと、終夜はすぐに明依に視線だけを移した。
「終夜」
視界もぼやけている。それは単純な目のくらみではなくて、もっと深く。脳みその根幹から、〝視界〟というものに割くリソースがないと言われているような。
「そうだね」
終夜は、だよね、と同意見を強調するように言うと、ふっと息を漏らして笑った。
「悩むことなんて何もないね」
終夜はそう言うと、偽物の終夜が畳に落とした針を地獄大夫に向かって投げた。
地獄大夫は何の苦労もない様子で窓辺から立ち上がり、針を交わす。終夜の投げた針は、真っ直ぐに満月に向かって飛んで行った。
「待ってて」
終夜は小さな声でそう言うと、自分の持っていた刀と、偽物の終夜が持っていた刀を掴んで立ち上がり地獄大夫に振るった。
しかし地獄大夫はあっさりとした様子でそれをかわしていく。
「そんなことをしている間に明依は死ぬよ」
「いいんだよ、それで」
終夜の意味深に聞こえる言葉に意識を持って行かれたのか、地獄大夫の動きが一瞬だけ遅れた。終夜が投げた刀が、地獄大夫の羽織を貫いて、畳に深く刺さった。
羽織が刀に固定されて前のめりになったことで畳を這う前帯を、終夜がもう一本持っていた刀が貫いた。地獄大夫は引き抜こうと刀を握ったがびくともせず、その場に磔になったまま、焦った様子で顔を上げた。
「どうせもともと、意味なんてない世界だ」
終夜の口調は平坦。しかしそこに一縷の希望があることを、明依は理解していた。
終夜は明依の肩と膝裏に腕を回し、それからそっと抱き上げた。
「死ぬも生きるも、二人で一緒じゃないと意味がない」
そういうと終夜は、優しい顔で明依を見る。
「離れるくらいなら、もう終わりでいいよね、明依」
終夜の声に、明依は息を抜いて精一杯の笑顔を浮かべた。
「……待って」
地獄大夫は焦った様子で呟く。逃れようと、近付こうと、引き留めようと身体を動かしても、終夜が深く刺した刀はびくとも動く様子を見せなかった。
抑揚がなかったはずの地獄大夫の顔には今、明らかな絶望が浮かんでいる。
「待って!! 解毒薬はここにある……!!」
地獄大夫はこんな結末を迎える事は想定外だったのだろうか。一瞬たりとも二人の言動を見逃せないといった様子で二人を見据えたまま懐から丁寧な織物の柄がのぞくケースを取り出し、悲痛な様子で叫んだ。
抗争の時に晴朗が終夜に手渡したものと似た形。きっとビンと注射器が入っているのだろう。
そう思うだけで自分は本当に裏社会というものに結構なじんでいるのだなと思った。
今更それが、なんだというのだろう。
「どうして人間は学ばないんだろうね」
もはや地獄大夫の存在は蚊帳の外。
二人は半歩、現実世界に背を向けている。
きっと終夜は、せめて最期の時だけは邪魔されない様に。その目的だけで、地獄大夫の動きを止めたのだろう。
「何度命の危機を感じても、きっと次があるって信じて疑わない。でもいざ、死ぬんだって思うと、痛くてもいいからもっとそばにいればよかったって思ってる」
気持ちの全てを終夜が言葉にして代わりに言ってくれる。
それが嬉しくて。だけど少し悲しい。
「本物が一人もいないなら、ただのフィクションになるのよ……!! お願いだから、死なないで!!」
今にも泣き出してしまいそうな地獄大夫の様子は、終始余裕を崩さなかった同じ彼女とは思えない。
――ただのフィクション。
ただ、どんなに優れた造り手だろうと、本人から〝フィクション〟だと明言されれば、この世界は酷くもろいもののように思えた。
だけどこんな終わりを迎えるならフィクションも悪くなかった。
終夜が歩き出すと、ふわりと風が運んだように、見える景色が変わった。
きっと地獄大夫は最期を阻止するために、精密に今見えている洗脳を組み立てていたに違いない。
幻覚だと分かっているのに、明依は余りに精巧な造りに目を見開いた。
まるで最期の時を引き止めるみたいに存在を示しているのは、朱色の手すり、精巧に作られた坪庭、そして昼下がりに暖かく通る風。
燦燦とした太陽に愛された、満月屋の中だった。
珠名屋の外は夜だったはずなのに、今は真昼。だからこれは、五感全てを狂わせて見えている情報、つまり幻覚だと分かっているから、やっぱり地獄大夫は天性の才があるのだと思った。
ぼやけた視界でも、目を閉じていてもここがどこだかわかる。
自分の帰るはずだった場所。宵が守ってくれた、日奈が受け入れてくれた、旭が会いに来てくれた、満月屋。
たくさんの人に感化されて出来上がった空間が織り成す、包まれる安心感が間違いなくある。
「明依は今、何を見てる?」
「……満月屋が見えるよ」
「俺もだよ」
終夜は真っ直ぐに歩きながら、辺りに視線を巡らせた。
「これが明依の見てた景色?」
「そうだよ」
「綺麗だね。……俺は別に満月楼に縁も所縁もないけど、好きになりそうだよ」
そういう終夜は柔らかい笑顔を明依に向けた。
心の隙間を埋めるような終夜の笑顔。もう砂上の楼閣なんかじゃない。この心はずっと、満たされたまま。なぜなら満たされたまま、この命が終わるからだ。
「終夜、好きよ」
「うん。俺も」
終夜はそう言うと、明依の額に自分の額を合わせた。
終夜は明依を抱いたまま、軽々と満月を模した丸窓に足をかけた。明依が少し顔を傾けて見たのは、三階から望む吉原の景色。
思い出したのは、屋根の上から降りられなくなって終夜に助けてもらった時の事。
すこしだけ、怖い。
明依がぽつりとそう思い、終夜の着物を握ると、終夜は満月を背にして丸窓に立った。
「バイバイ、地獄大夫」
地獄大夫が何かを言いながら腕を伸ばしているが、明依にはもうその声を明確に聞き取ることが出来ない。
終夜はためらいなどないと言った様子で、明依を抱いたまま身体を後ろに倒した。
明依は終夜の背中側に傾いていく感覚を他人事のように味わっていた。
私にさえ取り残された世界だろうと、終夜は自分が楽になることを許せないから――
「本当の地獄を、身をもって知るといい」
――こんな地獄にひとりぼっちで取り残すくらいなら、私があの世に連れて行く。
終夜の少し不機嫌そうな声で、明依は目を開いた。少し乱暴に明依の目の涙を拭う終夜は、やっぱり少し機嫌が悪そうな顔をしている。それでいてなんだか寂し気な、複雑な表情を浮かべていた。
「ギリ浮気だよ、それ」
「終夜にも〝浮気〟とかいう概念、あったんだ」
意識が朦朧としていても、終夜へのツッコミが何も考えずに出てくるところ辺りがなんだかんだと言ってもお互いをよく知っているのだと認識する。
不思議な関係だ。探り合うように互いを避けていたのに、やっぱりお互いの事をよく知っていると思う。
終夜はこんな状況にも関わらず、またむっとした顔をしてそれから溜息を吐き出した。
「……複雑」
それからぼそりと呟く終夜に、明依は思わず息を漏らして笑った。自分の息を吐く衝動が、骨身に染みてきしむ。
意外と可愛い所もあるのだなと、こんな状況なのにやっぱり終夜を愛しく思う。
「もう間に合わないよ、終夜。どうやら時間を喰い過ぎたらしい」
地獄大夫の声が、何となく耳を経由して頭の中を通り過ぎる。何が間に合わないのか、明依にはよく理解できた。
「明依はもう、まもなく死ぬ。お前が私を捕まえるより前に必ず」
例えるならこの感覚は、一日中肉体労働をしてくたくたになった夜の食後のような。電車の中でまどろむような。とにかく、今なら泥のように眠れそうで、眠ってしまえばきっと心地がいいと確信できる感覚。
死に向かって、身体が準備を始めているのだろう。
「できる事なら明依も本物を使いたいと思っていたけど、お前だけでいいよ、終夜」
地獄大夫の言葉は平たんな口調で響いた。
もしかすると地獄大夫の提案は、一方にとって幸運な打診なのかもしれない。
「お前が珠名屋に残るなら、明依を助けてやる。だからこれ以上、その身体に傷を付けるのはやめてほしい」
地獄大夫はどうしても終夜の身体が欲しいらしい。
きっと終夜は、少しは悩むのだろうと明依は思っていた。そして案の定、終夜は少し俯いて、自分と向き合っている様子でいた。
終夜は、身代わりになり解毒薬を、と言うつもりなのだろうか。そして何もかも忘れて、一人で生きていけとでもいうのだろうか。
いまさら、二年も経って。
そんな馬鹿な話があってたまるか。
「……終夜」
明依が名前を呼ぶと、終夜はすぐに明依に視線だけを移した。
「終夜」
視界もぼやけている。それは単純な目のくらみではなくて、もっと深く。脳みその根幹から、〝視界〟というものに割くリソースがないと言われているような。
「そうだね」
終夜は、だよね、と同意見を強調するように言うと、ふっと息を漏らして笑った。
「悩むことなんて何もないね」
終夜はそう言うと、偽物の終夜が畳に落とした針を地獄大夫に向かって投げた。
地獄大夫は何の苦労もない様子で窓辺から立ち上がり、針を交わす。終夜の投げた針は、真っ直ぐに満月に向かって飛んで行った。
「待ってて」
終夜は小さな声でそう言うと、自分の持っていた刀と、偽物の終夜が持っていた刀を掴んで立ち上がり地獄大夫に振るった。
しかし地獄大夫はあっさりとした様子でそれをかわしていく。
「そんなことをしている間に明依は死ぬよ」
「いいんだよ、それで」
終夜の意味深に聞こえる言葉に意識を持って行かれたのか、地獄大夫の動きが一瞬だけ遅れた。終夜が投げた刀が、地獄大夫の羽織を貫いて、畳に深く刺さった。
羽織が刀に固定されて前のめりになったことで畳を這う前帯を、終夜がもう一本持っていた刀が貫いた。地獄大夫は引き抜こうと刀を握ったがびくともせず、その場に磔になったまま、焦った様子で顔を上げた。
「どうせもともと、意味なんてない世界だ」
終夜の口調は平坦。しかしそこに一縷の希望があることを、明依は理解していた。
終夜は明依の肩と膝裏に腕を回し、それからそっと抱き上げた。
「死ぬも生きるも、二人で一緒じゃないと意味がない」
そういうと終夜は、優しい顔で明依を見る。
「離れるくらいなら、もう終わりでいいよね、明依」
終夜の声に、明依は息を抜いて精一杯の笑顔を浮かべた。
「……待って」
地獄大夫は焦った様子で呟く。逃れようと、近付こうと、引き留めようと身体を動かしても、終夜が深く刺した刀はびくとも動く様子を見せなかった。
抑揚がなかったはずの地獄大夫の顔には今、明らかな絶望が浮かんでいる。
「待って!! 解毒薬はここにある……!!」
地獄大夫はこんな結末を迎える事は想定外だったのだろうか。一瞬たりとも二人の言動を見逃せないといった様子で二人を見据えたまま懐から丁寧な織物の柄がのぞくケースを取り出し、悲痛な様子で叫んだ。
抗争の時に晴朗が終夜に手渡したものと似た形。きっとビンと注射器が入っているのだろう。
そう思うだけで自分は本当に裏社会というものに結構なじんでいるのだなと思った。
今更それが、なんだというのだろう。
「どうして人間は学ばないんだろうね」
もはや地獄大夫の存在は蚊帳の外。
二人は半歩、現実世界に背を向けている。
きっと終夜は、せめて最期の時だけは邪魔されない様に。その目的だけで、地獄大夫の動きを止めたのだろう。
「何度命の危機を感じても、きっと次があるって信じて疑わない。でもいざ、死ぬんだって思うと、痛くてもいいからもっとそばにいればよかったって思ってる」
気持ちの全てを終夜が言葉にして代わりに言ってくれる。
それが嬉しくて。だけど少し悲しい。
「本物が一人もいないなら、ただのフィクションになるのよ……!! お願いだから、死なないで!!」
今にも泣き出してしまいそうな地獄大夫の様子は、終始余裕を崩さなかった同じ彼女とは思えない。
――ただのフィクション。
ただ、どんなに優れた造り手だろうと、本人から〝フィクション〟だと明言されれば、この世界は酷くもろいもののように思えた。
だけどこんな終わりを迎えるならフィクションも悪くなかった。
終夜が歩き出すと、ふわりと風が運んだように、見える景色が変わった。
きっと地獄大夫は最期を阻止するために、精密に今見えている洗脳を組み立てていたに違いない。
幻覚だと分かっているのに、明依は余りに精巧な造りに目を見開いた。
まるで最期の時を引き止めるみたいに存在を示しているのは、朱色の手すり、精巧に作られた坪庭、そして昼下がりに暖かく通る風。
燦燦とした太陽に愛された、満月屋の中だった。
珠名屋の外は夜だったはずなのに、今は真昼。だからこれは、五感全てを狂わせて見えている情報、つまり幻覚だと分かっているから、やっぱり地獄大夫は天性の才があるのだと思った。
ぼやけた視界でも、目を閉じていてもここがどこだかわかる。
自分の帰るはずだった場所。宵が守ってくれた、日奈が受け入れてくれた、旭が会いに来てくれた、満月屋。
たくさんの人に感化されて出来上がった空間が織り成す、包まれる安心感が間違いなくある。
「明依は今、何を見てる?」
「……満月屋が見えるよ」
「俺もだよ」
終夜は真っ直ぐに歩きながら、辺りに視線を巡らせた。
「これが明依の見てた景色?」
「そうだよ」
「綺麗だね。……俺は別に満月楼に縁も所縁もないけど、好きになりそうだよ」
そういう終夜は柔らかい笑顔を明依に向けた。
心の隙間を埋めるような終夜の笑顔。もう砂上の楼閣なんかじゃない。この心はずっと、満たされたまま。なぜなら満たされたまま、この命が終わるからだ。
「終夜、好きよ」
「うん。俺も」
終夜はそう言うと、明依の額に自分の額を合わせた。
終夜は明依を抱いたまま、軽々と満月を模した丸窓に足をかけた。明依が少し顔を傾けて見たのは、三階から望む吉原の景色。
思い出したのは、屋根の上から降りられなくなって終夜に助けてもらった時の事。
すこしだけ、怖い。
明依がぽつりとそう思い、終夜の着物を握ると、終夜は満月を背にして丸窓に立った。
「バイバイ、地獄大夫」
地獄大夫が何かを言いながら腕を伸ばしているが、明依にはもうその声を明確に聞き取ることが出来ない。
終夜はためらいなどないと言った様子で、明依を抱いたまま身体を後ろに倒した。
明依は終夜の背中側に傾いていく感覚を他人事のように味わっていた。
私にさえ取り残された世界だろうと、終夜は自分が楽になることを許せないから――
「本当の地獄を、身をもって知るといい」
――こんな地獄にひとりぼっちで取り残すくらいなら、私があの世に連れて行く。



