血液が明確な質量を誇る塊のように重い音を立てて畳に落ちる。
畳は大量の血液を吸いきれずに、ゆっくりと広がりジワリと畳にしみこんでいく。
偽物の終夜は壁に背を預けてゆっくりとその場にしゃがみこんだ。
二年前の抗争の時に死んだ宵を思い出して、明確に胸が痛んだ。
「俺は人を殺す事に慣れ過ぎた」
終夜の言葉には、後悔や自戒の念、それから諦めのようなものが混じっていた。
誰かがしなければ何も変わらないと分かっているからこその言葉なのかもしれない。
「もし自分の大切な人がこんな風に殺されたらって、死体を前にして頭を過る。他人に時間を奪われるくらいなら一人の時間が欲しい。だから他人を不必要に大切にする必要はないって、大切なものを抱え込まないように、万が一身の回りの誰かが死んでも深く傷つくことがないようにって考えていた。俺は〝吉原の厄災〟と呼ばれている事を、自分を正当化する材料にしていたのかもしれない」
明依の心の中にはじわじわと、〝終夜が死んでしまう〟という焦りが生まれていた。
終夜が戦いに勝って、偽物の終夜が負けたことは理解できているのに。
偽物の終夜は反論一つせずに、終夜の話に耳を傾けていた。
「でも今は、明依が俺の側にいてくれる。……俺はもしかするともう、〝大切な人〟がいない生活は出来ないかもしれないって、時々考えるよ。別に特別な話をするとかそういう事じゃないんだけど、側にいてくれる事実が、俺を強くしてくれる」
明依はまさか終夜が自分の事をそんな風に思っていたとは思わずに、浅く呼吸をしながらぼんやりとした視界で終夜を捉えていた。
偽物の終夜は鼻で笑うと、視線を送る事さえわずらわしいと言った様子で口を開いた。
「すっかり腑抜けたらしい」
「そうかもね」
終夜はあっさりと、何の抵抗もなく認めた様子を見せる。しかし明依には、共に地獄を歩もうと誓った終夜の方がずっと凛として見えた。
「怒りとか、悲しみとか。〝感情〟って全部、他人がいなきゃ感じない。だけど同時に、嬉しいとか楽しいとか、そういう感情も他人がいないと成り立たない」
「そんな他人に委ねた不確かなものなんて、俺はいらない」
「だから強くなれるんだよ」
終夜のはっきりと響く声に偽物の終夜はほんの少しだけ、息を呑んだ。
「俺が死んだら悲しむって確信する人がいるから、死ねないと思う。どんな手を使っても生き延びなきゃいけないと思う。お前が俺に負けたのは技術だけじゃないよ。一人で残していけない人間がいるか、いないか。その違いだ。わかってるはずだよ。日奈と旭は、お前の事を大切に思ってくれたんだから」
こんな場所に、こんな地獄に、終夜を一人で置いていけないと強く思った。残していくより残される側の方が辛い思いをすることは、日奈や旭、宵の事で嫌と言うほど思い知っているから。
「帰る場所がある幸せとか安心感とか、論理的に説明してやりたいよ」
終夜がそう言うと、偽物の終夜は鼻で笑った。
「……まさか、死ぬ間際に自分から説教を受けることになるなんて思わなかったよ」
ゆっくりと息を吐いて天井を見上げる様に顔を上げると、偽物の終夜はまた、ゆっくりと息を吐く。それからほんの少し目を細めた。
きっと彼は今、日奈と旭の面影を見ているのだろうという直感。
それを悟った瞬間、明依は心に重たいおもりを落とされた気になった。
今死にかけている彼も〝終夜〟なのだ。
隣で生きてきた終夜と同じように、つらい過去を過ごして一人で乗り越えてきた、終夜。
しかし偽物の終夜が今もまだ暗い夜の中にいて、寄る辺も明かりもなくぽつりと立っている事実に胸が痛んでいる。
終夜は偽物の自分を看取った時、こんな気持ちだったのか。
明依はほとんど動かない体に鞭を打つように息を止めて、それから畳に腕を付いて、這うように偽物の終夜の側に移動する。
「終夜……」
自分が今、誰の事を〝終夜〟と呼んでいるのかさえ、明依にはわからない。
思い出したのは、抗争の時に暮相を失いかけた十六夜の行動。
こんな思いだったのかもしれない。
間に合ってほしい。命の幕を下ろす最後に、全ての行動が間違いだったわけじゃないと、自分を責めるばかりで死なないように。何か一つでも、自分にできる事があるかもしれないから。
一秒でも早く。救われなかった終夜の所に。
まるで月から隠すように、明依に影が落ちた。
「終夜」
「絶対行かないとダメ?」
終夜は平坦な口調でそう言いながら、畳に這いつくばっていた明依の身体を起こして抱き寄せた。
「お願い。連れて行って」
明依がそう言うと、終夜は少し間を開けてから何も言わずに明依を抱き上げて、壁に寄り掛かる終夜の隣に座らせた。「ありがとう」と明依は呟くと、終夜の身体が離れて行く。
明依は隣にいる終夜に声をかけた。
「……終夜」
「明依」
壁に背を預ける終夜は、柔らかい声で明依の名前を呼ぶ。
自分を呼ぶ柔らかい響きに、もしかするとこの終夜は過去の終夜ではなくて、大切なものを全て手放してしまった世界線にいる終夜なのかもしれないと思った。
「もう死にそうじゃん」
「お互い様だね」
想定内の言葉だったのか、明依の隣に座る終夜はふっと笑った。
「俺の記憶では、〝明依〟は松ノ位を引退して、吉原からいなくなった」
ぽつりぽつりと言う終夜の声は、ただ現状を語っているだけみたいに単調に響く。
もしかすると終夜は自分がいなければ〝吉原の厄災〟と言われた当時のまま、変わらなかったのかも知れない。そう思うとなんだか嬉しくて、しかし終夜をひとりにしてしまった罪悪感が苦しくて、それからとても、悲しかった。
「私はずっと、終夜の側にいたよ」
「それは、〝俺〟の側じゃないよ」
胸を刺すような痛みだ。彼は救われなかった。手を伸ばせば、届いたはずなのに。
別の世界線に迷い込んでしまったのかと思う感覚。隣にいる終夜は終夜ではない事が分かっているのに、それが終夜なら、どんな形であろうと救ってあげたかったという感覚が明依を支配していた。
「……終夜」
何も言えない明依は、力のない声で名前を呼びながら、偽物の終夜の手を握った。
大切に思っている事をわかってほしくて、伝わってほしくて。
また身体を襲う不快感で、明依は顔をしかめた。
「抗争の最中に陰に命を狙われた時も、主郭で俺に本気で殺されかけた時も、明依は命乞い一つしなかった。二年前の明依とは、全然違う」
この二年で変わったのはどうやら終夜だけではないらしい。確かにそうだ。二年前なら命乞いをするくらいならとあっさり命を手放していたかもしれない。今の自分との違いを突き付けられているような気がした。
「側にいられたらきっと、幸せだったんだろうね」
明依の目からぽろぽろと涙が零れた。
終夜と一緒に過ごす未来を取った安心感。それから隣に座る終夜を救ってあげられなかったことの後悔。どうしようもない事だ。終夜は造られていて、現実にいる終夜ではないのだから。
「でも〝俺〟が側にいて明依が自分の命の価値の重みを知っているなら、悪くないって思うよ」
そう言うと終夜は弱い力で明依の手を握り返した。終夜が救われなかった末路は、残り少ない生気さえ吹き消してしまうようだ。
それでもやっぱり、終夜は優しい。身体の痛みに耐えて、涙を拭ってくれるから。
終夜はいつも、こうやって涙を拭ってくれた。
明依は終夜の肩に頭を預けて、それから目を閉じた。
「地獄で待ち合わせだね、終夜」
そうは言うものの、明依の内心は違っていた。
これだけ苦しんできたんだから、地獄になんて行かなくていい。きっともう、許されていい。ただきっと終夜は自分を許すことが出来ないだろう。だから明依は、終夜が一番納得できそうな言葉を選んだ。
隣に座る終夜は眠る様に息を引き取り、明依は震える喉元で息を吐いた。
目を閉じていても、涙が流れてくる。
救ってあげられなかった。側にいてあげられなかった。
目を開けば終夜が生きていると知ることが出来るのに、喪失感に呑まれてしまいそうだった。
畳は大量の血液を吸いきれずに、ゆっくりと広がりジワリと畳にしみこんでいく。
偽物の終夜は壁に背を預けてゆっくりとその場にしゃがみこんだ。
二年前の抗争の時に死んだ宵を思い出して、明確に胸が痛んだ。
「俺は人を殺す事に慣れ過ぎた」
終夜の言葉には、後悔や自戒の念、それから諦めのようなものが混じっていた。
誰かがしなければ何も変わらないと分かっているからこその言葉なのかもしれない。
「もし自分の大切な人がこんな風に殺されたらって、死体を前にして頭を過る。他人に時間を奪われるくらいなら一人の時間が欲しい。だから他人を不必要に大切にする必要はないって、大切なものを抱え込まないように、万が一身の回りの誰かが死んでも深く傷つくことがないようにって考えていた。俺は〝吉原の厄災〟と呼ばれている事を、自分を正当化する材料にしていたのかもしれない」
明依の心の中にはじわじわと、〝終夜が死んでしまう〟という焦りが生まれていた。
終夜が戦いに勝って、偽物の終夜が負けたことは理解できているのに。
偽物の終夜は反論一つせずに、終夜の話に耳を傾けていた。
「でも今は、明依が俺の側にいてくれる。……俺はもしかするともう、〝大切な人〟がいない生活は出来ないかもしれないって、時々考えるよ。別に特別な話をするとかそういう事じゃないんだけど、側にいてくれる事実が、俺を強くしてくれる」
明依はまさか終夜が自分の事をそんな風に思っていたとは思わずに、浅く呼吸をしながらぼんやりとした視界で終夜を捉えていた。
偽物の終夜は鼻で笑うと、視線を送る事さえわずらわしいと言った様子で口を開いた。
「すっかり腑抜けたらしい」
「そうかもね」
終夜はあっさりと、何の抵抗もなく認めた様子を見せる。しかし明依には、共に地獄を歩もうと誓った終夜の方がずっと凛として見えた。
「怒りとか、悲しみとか。〝感情〟って全部、他人がいなきゃ感じない。だけど同時に、嬉しいとか楽しいとか、そういう感情も他人がいないと成り立たない」
「そんな他人に委ねた不確かなものなんて、俺はいらない」
「だから強くなれるんだよ」
終夜のはっきりと響く声に偽物の終夜はほんの少しだけ、息を呑んだ。
「俺が死んだら悲しむって確信する人がいるから、死ねないと思う。どんな手を使っても生き延びなきゃいけないと思う。お前が俺に負けたのは技術だけじゃないよ。一人で残していけない人間がいるか、いないか。その違いだ。わかってるはずだよ。日奈と旭は、お前の事を大切に思ってくれたんだから」
こんな場所に、こんな地獄に、終夜を一人で置いていけないと強く思った。残していくより残される側の方が辛い思いをすることは、日奈や旭、宵の事で嫌と言うほど思い知っているから。
「帰る場所がある幸せとか安心感とか、論理的に説明してやりたいよ」
終夜がそう言うと、偽物の終夜は鼻で笑った。
「……まさか、死ぬ間際に自分から説教を受けることになるなんて思わなかったよ」
ゆっくりと息を吐いて天井を見上げる様に顔を上げると、偽物の終夜はまた、ゆっくりと息を吐く。それからほんの少し目を細めた。
きっと彼は今、日奈と旭の面影を見ているのだろうという直感。
それを悟った瞬間、明依は心に重たいおもりを落とされた気になった。
今死にかけている彼も〝終夜〟なのだ。
隣で生きてきた終夜と同じように、つらい過去を過ごして一人で乗り越えてきた、終夜。
しかし偽物の終夜が今もまだ暗い夜の中にいて、寄る辺も明かりもなくぽつりと立っている事実に胸が痛んでいる。
終夜は偽物の自分を看取った時、こんな気持ちだったのか。
明依はほとんど動かない体に鞭を打つように息を止めて、それから畳に腕を付いて、這うように偽物の終夜の側に移動する。
「終夜……」
自分が今、誰の事を〝終夜〟と呼んでいるのかさえ、明依にはわからない。
思い出したのは、抗争の時に暮相を失いかけた十六夜の行動。
こんな思いだったのかもしれない。
間に合ってほしい。命の幕を下ろす最後に、全ての行動が間違いだったわけじゃないと、自分を責めるばかりで死なないように。何か一つでも、自分にできる事があるかもしれないから。
一秒でも早く。救われなかった終夜の所に。
まるで月から隠すように、明依に影が落ちた。
「終夜」
「絶対行かないとダメ?」
終夜は平坦な口調でそう言いながら、畳に這いつくばっていた明依の身体を起こして抱き寄せた。
「お願い。連れて行って」
明依がそう言うと、終夜は少し間を開けてから何も言わずに明依を抱き上げて、壁に寄り掛かる終夜の隣に座らせた。「ありがとう」と明依は呟くと、終夜の身体が離れて行く。
明依は隣にいる終夜に声をかけた。
「……終夜」
「明依」
壁に背を預ける終夜は、柔らかい声で明依の名前を呼ぶ。
自分を呼ぶ柔らかい響きに、もしかするとこの終夜は過去の終夜ではなくて、大切なものを全て手放してしまった世界線にいる終夜なのかもしれないと思った。
「もう死にそうじゃん」
「お互い様だね」
想定内の言葉だったのか、明依の隣に座る終夜はふっと笑った。
「俺の記憶では、〝明依〟は松ノ位を引退して、吉原からいなくなった」
ぽつりぽつりと言う終夜の声は、ただ現状を語っているだけみたいに単調に響く。
もしかすると終夜は自分がいなければ〝吉原の厄災〟と言われた当時のまま、変わらなかったのかも知れない。そう思うとなんだか嬉しくて、しかし終夜をひとりにしてしまった罪悪感が苦しくて、それからとても、悲しかった。
「私はずっと、終夜の側にいたよ」
「それは、〝俺〟の側じゃないよ」
胸を刺すような痛みだ。彼は救われなかった。手を伸ばせば、届いたはずなのに。
別の世界線に迷い込んでしまったのかと思う感覚。隣にいる終夜は終夜ではない事が分かっているのに、それが終夜なら、どんな形であろうと救ってあげたかったという感覚が明依を支配していた。
「……終夜」
何も言えない明依は、力のない声で名前を呼びながら、偽物の終夜の手を握った。
大切に思っている事をわかってほしくて、伝わってほしくて。
また身体を襲う不快感で、明依は顔をしかめた。
「抗争の最中に陰に命を狙われた時も、主郭で俺に本気で殺されかけた時も、明依は命乞い一つしなかった。二年前の明依とは、全然違う」
この二年で変わったのはどうやら終夜だけではないらしい。確かにそうだ。二年前なら命乞いをするくらいならとあっさり命を手放していたかもしれない。今の自分との違いを突き付けられているような気がした。
「側にいられたらきっと、幸せだったんだろうね」
明依の目からぽろぽろと涙が零れた。
終夜と一緒に過ごす未来を取った安心感。それから隣に座る終夜を救ってあげられなかったことの後悔。どうしようもない事だ。終夜は造られていて、現実にいる終夜ではないのだから。
「でも〝俺〟が側にいて明依が自分の命の価値の重みを知っているなら、悪くないって思うよ」
そう言うと終夜は弱い力で明依の手を握り返した。終夜が救われなかった末路は、残り少ない生気さえ吹き消してしまうようだ。
それでもやっぱり、終夜は優しい。身体の痛みに耐えて、涙を拭ってくれるから。
終夜はいつも、こうやって涙を拭ってくれた。
明依は終夜の肩に頭を預けて、それから目を閉じた。
「地獄で待ち合わせだね、終夜」
そうは言うものの、明依の内心は違っていた。
これだけ苦しんできたんだから、地獄になんて行かなくていい。きっともう、許されていい。ただきっと終夜は自分を許すことが出来ないだろう。だから明依は、終夜が一番納得できそうな言葉を選んだ。
隣に座る終夜は眠る様に息を引き取り、明依は震える喉元で息を吐いた。
目を閉じていても、涙が流れてくる。
救ってあげられなかった。側にいてあげられなかった。
目を開けば終夜が生きていると知ることが出来るのに、喪失感に呑まれてしまいそうだった。



