すぐ近くで障子が破れて、木枠が壊れる音がする。いたるところから聞こえるビリビリ、バリバリという音が、廊下を埋め尽くすようにして響いていた。
終夜は目を閉じて走り続ける明依の頭を抑えつけた。明依はとっさに目を開いたが、見えるのは自分の足元だけ。しかし、すぐに頭上から聞こえた風を切る音で息を呑んだ。大鎌がすぐ上を横切ったのだと気付き、背筋が凍る思いでもう一度ギュッと目を閉じる。
命の危機から逃げる為に走っている。一番に思い出したのは、朔に追いかけられた時の明確な恐怖。
あの時からきっと、運命は加速し始めた。
今この瞬間とは全く関係がない事を考えている理由はきっと、恐怖から意識をそらすための現実逃避。
何度も死線を潜り抜けてきてから、もう身体は慣れてしまったのかもしれない。閉じたまぶたの裏側には、宵と暮相の後ろ姿がはっきりと浮かんでいる。
終夜は遊女と戦うそぶりを見せない。逃げると判断するという事は、人数が多すぎて対処できないからだろうか。
終夜と長くいたからか、終夜の行動から逆算して現状を把握しようとしてしまう。
だからきっと、頑張って頑張って、頑張りぬいた結果の、妥当な諦め――
「終夜、日奈、明依」
旭がはっきりとした声で名前呼ぶから、明依は自分の胸の内に広がるのがどんな感情なのかもわからないまま目を開けた。
「お別れだ」
旭は眩しいくらい、まるで太陽のような笑顔を浮かべていた。
どうして。その一言さえいう間もなく、旭は覚悟を決めた表情で笑っている。
「きっと本物の旭って男はよー」
旭は歩みを止めて振り向き正面を見据えた。
「こうするからな」
明依は旭を視線で辿るままに振り向く。たくさんの遊女たちが、動きを止めた旭に大鎌を振り上げていた。
「旭!!!」
明依は旭の名前を呼びながら側に駆け寄ろうとするが、終夜に腕を引かれて動きを止めた。
「大丈夫だよ」
終夜の声が聞こえたのとほとんど同時。
旭は宵から受け取った刀を左手、逆手で引き抜き、そのままの勢いで振り上げた。
二人の遊女がそれぞれ持つ大鎌は、音もなく真っ二つに別れる。
「刀の扱いは、俺より旭の方がずっと上手い」
旭は刀から手を放して右手に持ち替えると共に順手に戻す。それからくるりと刀を手の上で転がして、刃ではなく峰の方を遊女へ向けて握り替えた。右側から薙ぐように遊女の腹部に峰を打ち付けた後、刀を返して別の遊女の腹部を左側から峰で打ち付ける。
全て、一瞬の事。
刀は何度か旭の手を離れたように見えたが、きっと刀は、重力の存在を思い出す間もなかったのだろう。それくらい、一瞬の出来事だった。
例えば終夜や晴朗のような、相手を切り裂く前提の刀の動きとは全く違う。
旭はまた、自分に襲い掛かった遊女の大鎌を切ると、手のひらで転がすように持ち替えて峰で打つ。そして刀を正常位置で握り直す。その行動をなんの苦労もない様子で行っている。
一体どれほど訓練を積んだのだろう。まるで刀が身体の一部のように、旭の意志を理解し、思うままに動いているのではないかと錯覚するほど。
旭は刀を肩に担ぐようにして持った。
「刀の扱いだけなら、お前に負けたことはないぜ。終夜」
遊女は完全に動きを止めていた。
まるで旭がここで立ち止まることが正解だとでも言いたげな様子で。
「ここは俺に任せろ」
へらへらと笑ってばかりの印象がある旭だが、こんなに強かったのか。
見た事のない旭の姿はとても彼らしい。人を傷付ける事を嫌う、優しい旭らしい戦い方だと思った。
「日奈も一緒に行け。この人数だ。俺一人でどれくらいもつかわからない」
旭の言葉を聞いた日奈は少しだけ間を開けて、それからゆっくりと息を吸った。
「私も一緒にいちゃダメかな?」
日奈はまるで、散歩について行こうかな、と言うくらいあっさりと言う。それに驚いたのは明依と終夜。それから、旭だった。
「旭の迷惑じゃないなら」
驚く三人他所に、日奈はまるで旭の返事が分かっている様子で彼の背中を見ていた。
日奈の言葉を聞いた旭は、穏やかな笑顔を浮かべて口を開いた。
「迷惑なわけねーだろ。ついでに守ってやるよ」
「じゃあ、旭と一緒にいる」
「……日奈」
日奈は明依の言葉からすり抜けるみたいに、旭の所に歩いて行く。
行かないで。まだ、言いたいことはたくさんあるのに。
私のせいで巻き込んでしまって、死なせてしまってごめんとか、ずっと一緒にいたかったとか。さっき「幸せ?」と聞かれて返事が出来なかった事、その理由。最初にこの妓楼に入った時、地獄大夫に洗脳されかけていた時に名前を呼んでくれたのは日奈で、あれは幻聴じゃなかったんだよね、とか。
今まで一緒にいたのに、今になって言いたいことが頭の中に溢れるように浮かんでくる。
「明依」
遠ざかり旭の側に歩く日奈が、大好きだった声で名前を呼んでくれる。
「本当はね、ちょっとだけ、私ならいいのにって思ってるんだ」
「……日奈」
きっと日奈は今も終夜の事が好きで、だからきっと終夜と一緒にいられる自分を羨んでいる。どんな言葉をかけていいのかわからない明依をよそに、日奈は旭の隣で立ち止まった。
「終夜だけずるいなーって。明依の隣にいられるのが私ならいいのにってずーっと思ってる」
戯れたような日奈の口調。笑顔を浮かべている事が分かるくらい穏やかな音。好きな人の側ではなくて、親友の側にいたいのだという。それがなんだか日奈らしくて。明依は目を見開いたが、すぐに息を抜いて笑った。
日奈はゆっくりと息を吐くと、明依の方を振り返った。
「明依、好きだよ」
そして、明依が大好きな、花が咲いたような顔で笑う。
「大好き」
日奈の言葉が胸に染みる。
一瞬でも気を抜けば、今すぐにでも泣いてしまうだろう。
「ついでに俺もな。いらねーとか言うなよ」
旭は正面を見たまま、しかし笑顔を浮かべているのだろうと思う声で言う。
「私も。……私も、大好きだよ」
自分の声が耳に入って、泣きそうになる。
言いたいことが山ほどある。
頭の中で浮かんでいるものが全部全部、そのまま相手に伝わればいいのに。
しかしきっと、結局万全の準備をしていても、ほんの少しの後悔を残してきてしまうのが人間という生き物なのだろう。
「日奈、旭」
名前を呼ぶ声が二人に届くのは、これが最後。
だけど本当なら二年前が最後で、そのチャンスを逃してしまった。
だから宵の言う通り、考え方を変えれば、これは紛れもない幸せなのだろう。
「終夜から受け取ったよ。松ノ位昇格祝いの簪と櫛。凄く嬉しかった。ありがとう」
「いいデザインだろ、あれ。黎明ってのは夜明けの事だ。つまり、太陽。明依はやるときはやるタイプだからな。俺はずーっと明依は松ノ位に上がると思ってたんだ」
「二人でそう話してたもんね」
日奈と旭は笑っている。
幸せな光景を見ている。今までずっと一緒にいたのに、二人が笑い合っている光景はまるで夢の中にいるような心地にさせる。
しかし、それももう間もなく終わってしまう。
「ありがとな」
遠くへ投げかけるような旭の言葉に
「私たちの最後のお願い、聞いてくれて」
穏やかな色をした日奈の言葉。
終夜に語りかけているのだろうという事はすぐに分かった。
終夜もわかったから、寂しそうでいてそれから嬉しそうな笑顔を浮かべたのだろう。
「俺もお前のこと大好きだぜ、終夜」
「私も!」
「……うん、わかってるよ」
あっさり響く終夜の声。しかし日奈と旭には終夜の真意が手に取るように分かっているのだろう。
ふたりとも、満足げに笑っている。
「二人とも気を付けてね」
「明依の手、放すんじゃねーぞ終夜」
終夜はゆっくりと息を吐き切ると、しっかりと明依の手を握った。
「行こう」
その役割は終夜ばかりが担っていると思っていたのに、終夜に変わって言う事は出来なかった。
終夜の手を握り返して走りながら、明依はゆっくりと息を吐く。
喉元が震えて、涙が溢れ出した。
「終夜、私を殴って」
今の明依に涙を拭う余裕もなく、そして終夜は、何も返事をしない。
「私……ずっとこの夢の中にいられたらいいのにって思ってる」
「……うん」
終夜の声は、少し震えていた。
「俺もだよ」
必死に足だけを動かして生きようともがいている、はずだ。
しかし地獄大夫の要求を受け入れるのなら、もうもがく必要はない。
惑いも、苦しみも全て消えて、悲惨な現実なんて全部捨てて、素敵な夢を見ていられる。
ここは、地獄。
何にあらがっていたのかさえ忘れさせる、素敵な夢に似せた地獄だ。
終夜は目を閉じて走り続ける明依の頭を抑えつけた。明依はとっさに目を開いたが、見えるのは自分の足元だけ。しかし、すぐに頭上から聞こえた風を切る音で息を呑んだ。大鎌がすぐ上を横切ったのだと気付き、背筋が凍る思いでもう一度ギュッと目を閉じる。
命の危機から逃げる為に走っている。一番に思い出したのは、朔に追いかけられた時の明確な恐怖。
あの時からきっと、運命は加速し始めた。
今この瞬間とは全く関係がない事を考えている理由はきっと、恐怖から意識をそらすための現実逃避。
何度も死線を潜り抜けてきてから、もう身体は慣れてしまったのかもしれない。閉じたまぶたの裏側には、宵と暮相の後ろ姿がはっきりと浮かんでいる。
終夜は遊女と戦うそぶりを見せない。逃げると判断するという事は、人数が多すぎて対処できないからだろうか。
終夜と長くいたからか、終夜の行動から逆算して現状を把握しようとしてしまう。
だからきっと、頑張って頑張って、頑張りぬいた結果の、妥当な諦め――
「終夜、日奈、明依」
旭がはっきりとした声で名前呼ぶから、明依は自分の胸の内に広がるのがどんな感情なのかもわからないまま目を開けた。
「お別れだ」
旭は眩しいくらい、まるで太陽のような笑顔を浮かべていた。
どうして。その一言さえいう間もなく、旭は覚悟を決めた表情で笑っている。
「きっと本物の旭って男はよー」
旭は歩みを止めて振り向き正面を見据えた。
「こうするからな」
明依は旭を視線で辿るままに振り向く。たくさんの遊女たちが、動きを止めた旭に大鎌を振り上げていた。
「旭!!!」
明依は旭の名前を呼びながら側に駆け寄ろうとするが、終夜に腕を引かれて動きを止めた。
「大丈夫だよ」
終夜の声が聞こえたのとほとんど同時。
旭は宵から受け取った刀を左手、逆手で引き抜き、そのままの勢いで振り上げた。
二人の遊女がそれぞれ持つ大鎌は、音もなく真っ二つに別れる。
「刀の扱いは、俺より旭の方がずっと上手い」
旭は刀から手を放して右手に持ち替えると共に順手に戻す。それからくるりと刀を手の上で転がして、刃ではなく峰の方を遊女へ向けて握り替えた。右側から薙ぐように遊女の腹部に峰を打ち付けた後、刀を返して別の遊女の腹部を左側から峰で打ち付ける。
全て、一瞬の事。
刀は何度か旭の手を離れたように見えたが、きっと刀は、重力の存在を思い出す間もなかったのだろう。それくらい、一瞬の出来事だった。
例えば終夜や晴朗のような、相手を切り裂く前提の刀の動きとは全く違う。
旭はまた、自分に襲い掛かった遊女の大鎌を切ると、手のひらで転がすように持ち替えて峰で打つ。そして刀を正常位置で握り直す。その行動をなんの苦労もない様子で行っている。
一体どれほど訓練を積んだのだろう。まるで刀が身体の一部のように、旭の意志を理解し、思うままに動いているのではないかと錯覚するほど。
旭は刀を肩に担ぐようにして持った。
「刀の扱いだけなら、お前に負けたことはないぜ。終夜」
遊女は完全に動きを止めていた。
まるで旭がここで立ち止まることが正解だとでも言いたげな様子で。
「ここは俺に任せろ」
へらへらと笑ってばかりの印象がある旭だが、こんなに強かったのか。
見た事のない旭の姿はとても彼らしい。人を傷付ける事を嫌う、優しい旭らしい戦い方だと思った。
「日奈も一緒に行け。この人数だ。俺一人でどれくらいもつかわからない」
旭の言葉を聞いた日奈は少しだけ間を開けて、それからゆっくりと息を吸った。
「私も一緒にいちゃダメかな?」
日奈はまるで、散歩について行こうかな、と言うくらいあっさりと言う。それに驚いたのは明依と終夜。それから、旭だった。
「旭の迷惑じゃないなら」
驚く三人他所に、日奈はまるで旭の返事が分かっている様子で彼の背中を見ていた。
日奈の言葉を聞いた旭は、穏やかな笑顔を浮かべて口を開いた。
「迷惑なわけねーだろ。ついでに守ってやるよ」
「じゃあ、旭と一緒にいる」
「……日奈」
日奈は明依の言葉からすり抜けるみたいに、旭の所に歩いて行く。
行かないで。まだ、言いたいことはたくさんあるのに。
私のせいで巻き込んでしまって、死なせてしまってごめんとか、ずっと一緒にいたかったとか。さっき「幸せ?」と聞かれて返事が出来なかった事、その理由。最初にこの妓楼に入った時、地獄大夫に洗脳されかけていた時に名前を呼んでくれたのは日奈で、あれは幻聴じゃなかったんだよね、とか。
今まで一緒にいたのに、今になって言いたいことが頭の中に溢れるように浮かんでくる。
「明依」
遠ざかり旭の側に歩く日奈が、大好きだった声で名前を呼んでくれる。
「本当はね、ちょっとだけ、私ならいいのにって思ってるんだ」
「……日奈」
きっと日奈は今も終夜の事が好きで、だからきっと終夜と一緒にいられる自分を羨んでいる。どんな言葉をかけていいのかわからない明依をよそに、日奈は旭の隣で立ち止まった。
「終夜だけずるいなーって。明依の隣にいられるのが私ならいいのにってずーっと思ってる」
戯れたような日奈の口調。笑顔を浮かべている事が分かるくらい穏やかな音。好きな人の側ではなくて、親友の側にいたいのだという。それがなんだか日奈らしくて。明依は目を見開いたが、すぐに息を抜いて笑った。
日奈はゆっくりと息を吐くと、明依の方を振り返った。
「明依、好きだよ」
そして、明依が大好きな、花が咲いたような顔で笑う。
「大好き」
日奈の言葉が胸に染みる。
一瞬でも気を抜けば、今すぐにでも泣いてしまうだろう。
「ついでに俺もな。いらねーとか言うなよ」
旭は正面を見たまま、しかし笑顔を浮かべているのだろうと思う声で言う。
「私も。……私も、大好きだよ」
自分の声が耳に入って、泣きそうになる。
言いたいことが山ほどある。
頭の中で浮かんでいるものが全部全部、そのまま相手に伝わればいいのに。
しかしきっと、結局万全の準備をしていても、ほんの少しの後悔を残してきてしまうのが人間という生き物なのだろう。
「日奈、旭」
名前を呼ぶ声が二人に届くのは、これが最後。
だけど本当なら二年前が最後で、そのチャンスを逃してしまった。
だから宵の言う通り、考え方を変えれば、これは紛れもない幸せなのだろう。
「終夜から受け取ったよ。松ノ位昇格祝いの簪と櫛。凄く嬉しかった。ありがとう」
「いいデザインだろ、あれ。黎明ってのは夜明けの事だ。つまり、太陽。明依はやるときはやるタイプだからな。俺はずーっと明依は松ノ位に上がると思ってたんだ」
「二人でそう話してたもんね」
日奈と旭は笑っている。
幸せな光景を見ている。今までずっと一緒にいたのに、二人が笑い合っている光景はまるで夢の中にいるような心地にさせる。
しかし、それももう間もなく終わってしまう。
「ありがとな」
遠くへ投げかけるような旭の言葉に
「私たちの最後のお願い、聞いてくれて」
穏やかな色をした日奈の言葉。
終夜に語りかけているのだろうという事はすぐに分かった。
終夜もわかったから、寂しそうでいてそれから嬉しそうな笑顔を浮かべたのだろう。
「俺もお前のこと大好きだぜ、終夜」
「私も!」
「……うん、わかってるよ」
あっさり響く終夜の声。しかし日奈と旭には終夜の真意が手に取るように分かっているのだろう。
ふたりとも、満足げに笑っている。
「二人とも気を付けてね」
「明依の手、放すんじゃねーぞ終夜」
終夜はゆっくりと息を吐き切ると、しっかりと明依の手を握った。
「行こう」
その役割は終夜ばかりが担っていると思っていたのに、終夜に変わって言う事は出来なかった。
終夜の手を握り返して走りながら、明依はゆっくりと息を吐く。
喉元が震えて、涙が溢れ出した。
「終夜、私を殴って」
今の明依に涙を拭う余裕もなく、そして終夜は、何も返事をしない。
「私……ずっとこの夢の中にいられたらいいのにって思ってる」
「……うん」
終夜の声は、少し震えていた。
「俺もだよ」
必死に足だけを動かして生きようともがいている、はずだ。
しかし地獄大夫の要求を受け入れるのなら、もうもがく必要はない。
惑いも、苦しみも全て消えて、悲惨な現実なんて全部捨てて、素敵な夢を見ていられる。
ここは、地獄。
何にあらがっていたのかさえ忘れさせる、素敵な夢に似せた地獄だ。



