「死ぬ準備は、できましたか」
白萩の言葉の響きは、どこか苦しそうだ。
目は白い部分のほぼすべてが赤黒く充血していて、瞳の色と大差ないほど。筋肉が肥大して破けた着物の下から覗くのは、張り詰めた皮膚と浮き出た血管。
人間というよりは化け物と言った様子だ。しかしこれを人間と定義するのなら、無理に人体を変化させている事は明らかな有様。
思い出したのは宵が死んだときの事。
血まみれの腹部に、穴の開いた心臓、潰れた目。
人間はこんな状態になっても、まだ死ねないのかと思った時の事。
明依はもう一度、白萩に意識を向けた。
人間はこんな状態になっても、まだ生きていられるのか。
白萩はすぐ隣にある障子の木枠を握った。力を入れた途端、握った部分はある程度の形を残して砕けた。
「競技用の筋肉に憧れたのか?」
暮相は相変わらず、興味の無さそうな無気力な言い方で白萩に問いかける。
「まあなんにせよ、オマエの負けだな」
どうやら暮相は戦う相手の様子次第でやる気が大きく変わってしまうらしい。先ほどと同じ人間を相手にしているとは思えない程しらけた様子を見せていた。
暮相の言葉を聞いた白萩は勝機があるのか、ニヒルに笑う。
「一度でも当たれば終わりですよ」
「じゃあ、一度も当たらなければいいんだね」
二度の銃声が狭い廊下に飽和する。
白萩は自分の胸に一発打ち込まれた銃弾を見て目を見開く。そしていつの間にか白萩のすぐ後ろにいる宵は、眉間を撃ち抜かれて細かい血を流して倒れかけている陰から刀を奪い取ると、その刀を鞘のまま隣の陰の首に振るった。その途端鞘が割れて、刀身がむき出しになる。
後ろに倒れかけたその男からも刀を奪った宵は何事もなかったかのように踵を返す。
宵が自分の後ろにいる事に気付いた白萩が宵を目掛けて振り向きざまに腕を振るうが、宵はあっさりと身を屈めて空気を切る音がする白萩の腕を避け、むき出しの刀と鞘に入った刀をそれぞれの手に持って歩いてくる。
見事という他ない身のこなし。明依は宵のあまりに身軽で余裕のある強さに驚いていた。
「どうせそっち行ったならアイツの腕くらい落として来いよ」
「あんまり血生臭いところは見せたくないからね。……旭」
暮相と会話をしてすぐの事。宵は旭に向かって刀を投げた。
「必要になるかもしれない」
旭は大きく宙を舞って弧を描く刀をあたふたしながら受け取った。
「宵兄さん」
旭が呟くころにはもう、宵は敵を冷静な様子で見据えていた。
白萩の筋肉に守られた胸から、宵が放った弾丸がカラリと音を立てて落ちる。
「硬いね。やっぱり銃は使えない」
「こっちは準備オッケーだぜ」
暮相は腰に手を当てて首を肩の方に動かして柔軟運動をすると、ニヤリと笑って白萩を見た。
「で? お前こそ、死ぬ準備はいいんだろうな?」
宵も暮相も、おそらく白萩を相手にはしていないのだろう。問題はその後ろに控えている陰だ。
宵も暮相も強い。しかし陰の身体能力の高さを知っている明依と同じかそれ以上に、陰という組織を知っている旭もそれから終夜も、宵と暮相がただでは済まないと思っている事は確かだ。
廊下を埋め尽くす陰は、おそらく百以上。もしかするともっともっと多いのかもしれない。
「ここは任せて。早く先に」
宵はやはり、当然と言った様子でいう。
しかし、ここから離れたくない気持ちは、宵や暮相と別れたくない気持ちはやはり日奈も旭も同じようで、明依を含めた三人はその場所を動こうとはしなかった。しかし、先に進まなければいけないこともわかっていて、あえて言葉を選ぶなら、ただ時間が過ぎるのを待っている。
自ら選んでこの場を去らなければいけない苦しみは、もしかするといっそ突然に別れた方が楽なのではないかと思うくらい。
そう思ったとたん、旭と日奈とそれから宵と急に別れた時の事が脳裏をよぎった。
突然の別れの方が楽であるはずがない。
辛かった。朝が見えない夜の中を手探りで歩いた。
身を割くほど辛ささえ、命を削るほどの苦しみさえ、二年たてば薄れている。
別れの苦しみに大した差はない。
差をつける何かがあるとするなら、人間には過去を低く見積もり現在を高く見積もる機能が、生まれながらにして備わっているのかもしれない。
「行くよ」
終夜の言葉はほんの少し反発して、それから心の中にゆっくりと染みていく。
いつもこの役割は終夜じゃないか。一番つらい部分は終夜に任せきりになっている。
例えば自転車は漕ぎ始めが一番つらいように、万物は初速に力が必要だ。終夜はいつものその役割を率先して担ってくれる。
終夜も同じように離れ難くて仕方がないはずなのに。離れ難くなければ、自ら決めたベストの陣形を崩してまで、一番に敵に突っ込んでいこうとはしないだろう。
喉元で深く吐く息が震えている。
しかし、次の言葉が震えないのならそれでいいと思った。
「行こう。日奈、旭」
終夜と一緒に生きていくことを決めた。それなら、終夜にばかり頼っていたくない。
〝松ノ位〟の称号を手放した今、盾として大した価値はないが、それでも自分が終夜の隣に並ぶだけの何かがあると、明依は思っていた。
明依は終夜へ視線を移した。しっかりと終夜と視線が絡んで、それから二人で小さく頷いた。
明依の言葉を聞いた宵は、敵を見据える視線を少しだけ下げて、優しい笑顔を浮かべていた。まるで心のすみにまで行き渡るのをじっと待っているみたいに。
それをちらりと見た暮相はニヤリと笑う。
「楼主が遊女に骨抜きにされてりゃ世話ねーな」
「否定はできないな」
二人はそう言うと、小さく笑い合った。
日奈は明依の言葉で意を決した様に振り向き、旭は歯を食いしばった。
「暮相兄さんも、宵兄さんも!! 二人とも!! 先行って待ってるからな!!!」
「おー、生きてたらなー。コイツはよゆーだけどその後ろが手ごわそうなんだわ」
暮相は今生の別れをしようとする四人とは対照的に、あっさりとした口調で言う。
毒気を抜かれた旭は、小さく噴き出した。
「なんだよ、それ」
旭はそう言うと薄く笑って、意を決したように振り返った。
四人でただ、駆け抜ける。
勢いをつけて、加速して、思い出から突き抜けるみたいに。
走って走って、涙が溢れて、流れる前に明依は着物の袖で目をごしごしと擦る。
そして急に訪れた目のくらみ、頭痛。
それは意識の全てが違和感に対応しようと矢印を向けて足を止めてしまうくらい、突発的な。
「明依!!」
日奈が支えてくれた事で倒れ込むことはなかった。
人間の身体は、本当によくできていると他人事のように思った。今の今までこの瞬間にいきる事に夢中で、自分が体調が悪い事を忘れていたんだから。
「大丈夫」
宵がいなくなってしまった世界にいる。
もういっそ諦めてしまえたら。それを遮るのはやはり、道を作ってくれた宵の後ろ姿だった。
「大丈夫。まだ走れるから」
一瞬にして思い出した不快感に生気を奪われそうになりながらも、明依は日奈の手を握った。
まるで宵から命の火を灯してもらったみたいだ。
「支えてもらってもいいかな、日奈」
どうやら日奈の中どころか旭と終夜の中でも、明依という女は人に弱みを見せない人間らしい。
三人は目を見開いていた。それから日奈は嬉しそうに笑って頷いた。
「うん。もちろん」
明依と日奈の様子を見た終夜と旭は、ちらりと互いを見ると笑顔を浮かべた。
立ち上がって振り返ってみたが、暮相と宵の姿は見えない。音もさえも聞こえない。
それはまるで、先ほどまでいた場所は区切られた幻想世界だったのではないかと思うほど、音も、気配もない。
後も先も見えない廊下の中央にぽつりと取り残されているような感覚だった。
「きゃあ!!」
その無音を裂いたのは日奈の声。
日奈のすぐ横には既に見慣れた遊女の大鎌が障子を貫いて木枠を折り、引き裂いている所だった。
「走れ、日奈!!」
旭は日奈の手を握り、終夜は明依の腕を掴んで走った。
ビリビリ、バリバリと音がする。
必死に走った。まるでお化け屋敷で恐怖のあまりに周りを見られず、俯いて目を閉じて、他人に全てを任せているときみたいに。
白萩の言葉の響きは、どこか苦しそうだ。
目は白い部分のほぼすべてが赤黒く充血していて、瞳の色と大差ないほど。筋肉が肥大して破けた着物の下から覗くのは、張り詰めた皮膚と浮き出た血管。
人間というよりは化け物と言った様子だ。しかしこれを人間と定義するのなら、無理に人体を変化させている事は明らかな有様。
思い出したのは宵が死んだときの事。
血まみれの腹部に、穴の開いた心臓、潰れた目。
人間はこんな状態になっても、まだ死ねないのかと思った時の事。
明依はもう一度、白萩に意識を向けた。
人間はこんな状態になっても、まだ生きていられるのか。
白萩はすぐ隣にある障子の木枠を握った。力を入れた途端、握った部分はある程度の形を残して砕けた。
「競技用の筋肉に憧れたのか?」
暮相は相変わらず、興味の無さそうな無気力な言い方で白萩に問いかける。
「まあなんにせよ、オマエの負けだな」
どうやら暮相は戦う相手の様子次第でやる気が大きく変わってしまうらしい。先ほどと同じ人間を相手にしているとは思えない程しらけた様子を見せていた。
暮相の言葉を聞いた白萩は勝機があるのか、ニヒルに笑う。
「一度でも当たれば終わりですよ」
「じゃあ、一度も当たらなければいいんだね」
二度の銃声が狭い廊下に飽和する。
白萩は自分の胸に一発打ち込まれた銃弾を見て目を見開く。そしていつの間にか白萩のすぐ後ろにいる宵は、眉間を撃ち抜かれて細かい血を流して倒れかけている陰から刀を奪い取ると、その刀を鞘のまま隣の陰の首に振るった。その途端鞘が割れて、刀身がむき出しになる。
後ろに倒れかけたその男からも刀を奪った宵は何事もなかったかのように踵を返す。
宵が自分の後ろにいる事に気付いた白萩が宵を目掛けて振り向きざまに腕を振るうが、宵はあっさりと身を屈めて空気を切る音がする白萩の腕を避け、むき出しの刀と鞘に入った刀をそれぞれの手に持って歩いてくる。
見事という他ない身のこなし。明依は宵のあまりに身軽で余裕のある強さに驚いていた。
「どうせそっち行ったならアイツの腕くらい落として来いよ」
「あんまり血生臭いところは見せたくないからね。……旭」
暮相と会話をしてすぐの事。宵は旭に向かって刀を投げた。
「必要になるかもしれない」
旭は大きく宙を舞って弧を描く刀をあたふたしながら受け取った。
「宵兄さん」
旭が呟くころにはもう、宵は敵を冷静な様子で見据えていた。
白萩の筋肉に守られた胸から、宵が放った弾丸がカラリと音を立てて落ちる。
「硬いね。やっぱり銃は使えない」
「こっちは準備オッケーだぜ」
暮相は腰に手を当てて首を肩の方に動かして柔軟運動をすると、ニヤリと笑って白萩を見た。
「で? お前こそ、死ぬ準備はいいんだろうな?」
宵も暮相も、おそらく白萩を相手にはしていないのだろう。問題はその後ろに控えている陰だ。
宵も暮相も強い。しかし陰の身体能力の高さを知っている明依と同じかそれ以上に、陰という組織を知っている旭もそれから終夜も、宵と暮相がただでは済まないと思っている事は確かだ。
廊下を埋め尽くす陰は、おそらく百以上。もしかするともっともっと多いのかもしれない。
「ここは任せて。早く先に」
宵はやはり、当然と言った様子でいう。
しかし、ここから離れたくない気持ちは、宵や暮相と別れたくない気持ちはやはり日奈も旭も同じようで、明依を含めた三人はその場所を動こうとはしなかった。しかし、先に進まなければいけないこともわかっていて、あえて言葉を選ぶなら、ただ時間が過ぎるのを待っている。
自ら選んでこの場を去らなければいけない苦しみは、もしかするといっそ突然に別れた方が楽なのではないかと思うくらい。
そう思ったとたん、旭と日奈とそれから宵と急に別れた時の事が脳裏をよぎった。
突然の別れの方が楽であるはずがない。
辛かった。朝が見えない夜の中を手探りで歩いた。
身を割くほど辛ささえ、命を削るほどの苦しみさえ、二年たてば薄れている。
別れの苦しみに大した差はない。
差をつける何かがあるとするなら、人間には過去を低く見積もり現在を高く見積もる機能が、生まれながらにして備わっているのかもしれない。
「行くよ」
終夜の言葉はほんの少し反発して、それから心の中にゆっくりと染みていく。
いつもこの役割は終夜じゃないか。一番つらい部分は終夜に任せきりになっている。
例えば自転車は漕ぎ始めが一番つらいように、万物は初速に力が必要だ。終夜はいつものその役割を率先して担ってくれる。
終夜も同じように離れ難くて仕方がないはずなのに。離れ難くなければ、自ら決めたベストの陣形を崩してまで、一番に敵に突っ込んでいこうとはしないだろう。
喉元で深く吐く息が震えている。
しかし、次の言葉が震えないのならそれでいいと思った。
「行こう。日奈、旭」
終夜と一緒に生きていくことを決めた。それなら、終夜にばかり頼っていたくない。
〝松ノ位〟の称号を手放した今、盾として大した価値はないが、それでも自分が終夜の隣に並ぶだけの何かがあると、明依は思っていた。
明依は終夜へ視線を移した。しっかりと終夜と視線が絡んで、それから二人で小さく頷いた。
明依の言葉を聞いた宵は、敵を見据える視線を少しだけ下げて、優しい笑顔を浮かべていた。まるで心のすみにまで行き渡るのをじっと待っているみたいに。
それをちらりと見た暮相はニヤリと笑う。
「楼主が遊女に骨抜きにされてりゃ世話ねーな」
「否定はできないな」
二人はそう言うと、小さく笑い合った。
日奈は明依の言葉で意を決した様に振り向き、旭は歯を食いしばった。
「暮相兄さんも、宵兄さんも!! 二人とも!! 先行って待ってるからな!!!」
「おー、生きてたらなー。コイツはよゆーだけどその後ろが手ごわそうなんだわ」
暮相は今生の別れをしようとする四人とは対照的に、あっさりとした口調で言う。
毒気を抜かれた旭は、小さく噴き出した。
「なんだよ、それ」
旭はそう言うと薄く笑って、意を決したように振り返った。
四人でただ、駆け抜ける。
勢いをつけて、加速して、思い出から突き抜けるみたいに。
走って走って、涙が溢れて、流れる前に明依は着物の袖で目をごしごしと擦る。
そして急に訪れた目のくらみ、頭痛。
それは意識の全てが違和感に対応しようと矢印を向けて足を止めてしまうくらい、突発的な。
「明依!!」
日奈が支えてくれた事で倒れ込むことはなかった。
人間の身体は、本当によくできていると他人事のように思った。今の今までこの瞬間にいきる事に夢中で、自分が体調が悪い事を忘れていたんだから。
「大丈夫」
宵がいなくなってしまった世界にいる。
もういっそ諦めてしまえたら。それを遮るのはやはり、道を作ってくれた宵の後ろ姿だった。
「大丈夫。まだ走れるから」
一瞬にして思い出した不快感に生気を奪われそうになりながらも、明依は日奈の手を握った。
まるで宵から命の火を灯してもらったみたいだ。
「支えてもらってもいいかな、日奈」
どうやら日奈の中どころか旭と終夜の中でも、明依という女は人に弱みを見せない人間らしい。
三人は目を見開いていた。それから日奈は嬉しそうに笑って頷いた。
「うん。もちろん」
明依と日奈の様子を見た終夜と旭は、ちらりと互いを見ると笑顔を浮かべた。
立ち上がって振り返ってみたが、暮相と宵の姿は見えない。音もさえも聞こえない。
それはまるで、先ほどまでいた場所は区切られた幻想世界だったのではないかと思うほど、音も、気配もない。
後も先も見えない廊下の中央にぽつりと取り残されているような感覚だった。
「きゃあ!!」
その無音を裂いたのは日奈の声。
日奈のすぐ横には既に見慣れた遊女の大鎌が障子を貫いて木枠を折り、引き裂いている所だった。
「走れ、日奈!!」
旭は日奈の手を握り、終夜は明依の腕を掴んで走った。
ビリビリ、バリバリと音がする。
必死に走った。まるでお化け屋敷で恐怖のあまりに周りを見られず、俯いて目を閉じて、他人に全てを任せているときみたいに。



