造花街・吉原の陰謀-百鬼夜行-

「で。陣形は?」
「崩れた」

 全く期待していない様子で言う終夜に、やる気の無さそうな様子で返事をする暮相。

 白萩は懐から短刀を出すと、決死の様子で襲い掛かった。
 大きく振りかぶった一撃を避ける暮相を目掛けて、体勢を立て直した白萩が刀の切っ先を向けた。

「おお。今のはよかったぜ」

 暮相は遊女を相手にした時のように圧倒的余裕を持って白萩をいなしている。

「で。どうして負けるってわかってて挑んでくるんだ?」
「殺してやる……!!」
「じゃあお前ダメ。センスないわ」

 暮相は対峙している白萩に言った様子だったが、なぜか旭が胸を押さえて「センスない……」と呟いた。
 以前、〝センスない〟という言葉を暮相から言われたのだろうという事は想像に難くない。

 暮相は軽々とした動きで白萩を蹴り飛ばした。重たい一撃を食らった白萩は、明依たちを横切って来た道の向こうに吹っ飛ばされていく。

「遊女と追っかけっこしてるほうが百倍楽しいわ。先いこうぜ」
「……まだだよ」

 暮相の言葉にすぐさま終夜が反応する。そして終夜が今しがた通ってきた廊下に目を凝らしている事に気付いた明依は、もう一度終夜と同じ方向を見た。

「舐めやがって……」

 気付けば白萩は、注射器の針を腕にさしていた。宵が放った銃弾が白萩の持っている注射器は粉々に砕いたが、どうやら遅かったらしい。
 白萩の細身の肉体がボコボコと低く奇妙な音を立てて発達を繰り返し、やがて全く原型をとどめないほど変わり果てた。

「まっ、志もないなら根性もないわな」

 暮相は気だるそうに白萩に顔だけを向けていたが、小さく息を呑んでそれから身体を白萩の方へと向けた。

 白萩の後ろから聞こえるのは、あえて立てたような足音。
 一つの音と錯覚するくらい、いくつも重なったたくさんの足音だった。

「陰か……?」

 旭は白萩の後ろにいる男たちを見て、唖然とした様子で言う。

 陰の服を着たたくさんの男たちが、遊女と同じように遺志のない様子で歩いてくる。
 廊下を埋め尽くす圧迫感に押されて、明依は呼吸をすることも忘れていた。

「……消息を絶った陰たちだ」
「足止めには充分な人数だね」

 終夜と宵は迫る陰たちを見据えて口を開く。

 陰の戦闘能力は珠名屋の遊女の比ではない。それがこんなに大人数。
 いったいどうするのか、自分はどうすればいいのか。そんなことを考えている明依の隣を終夜が横切った。

「陣形ー」

 しかし暮相は、終夜の肩をがっしりと掴んで引き止める。

「お前が崩してどうすんだ」

 俯いている終夜の表情は見えない。もしかすると、止められることが分かっていたのかもしれない。
 だから明確な、嫌な予感。
 呼吸が浅くなるくらい、心の内側が騒がしくなる感覚に抗う方法を、明依は知らない。

 暮相は終夜の肩から手を放すと、終夜の頭に触れた。

「楽しかったぜ、終夜。ありがとな」

 落ち着いた口調でいう暮相。その言い方にはどこか、宵の名残を感じる。
 ポンポンと少し乱暴に終夜の頭を叩くようにして撫でると暮相は歩き出した。

「終夜を頼んどくな、明依」
「……暮相さん」

 暮相は明依の隣を通り過ぎながら腕を伸ばして、旭の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。

「暮相兄さん……」

 旭の呟きに暮相は返事をせずに、隣を通り過ぎた。

「見知った顔もちらほらいやがるな」

 暮相の声に陰は誰一人反応を示さない。

「お前らよー。血反吐吐く思いで陰として生き残っておいて、他人に利用される人生で終わっていいのかよ」
「こいつらにはもう意思はない。聞こえてませんよ」
「聞こえてねー訳ねーだろ。鼓膜が正常に機能してりゃ音は脳みそに届く仕組みになってんだから」

 あっさりした様子で言う暮相の言葉がたどったであろう思考回路は、終夜に似ている気がした。

「いいか。よーく聞けよお前ら。人間ってのはよ、そう簡単には変わらねーんだ。組織もまたしかり。未だに吉原って言う狭い世界では、裏の頭領さまは絶対的存在。頭領様様。頭領万歳」

 やる気の無さそうな暮相の声。しかし明依にはなぜか、先ほどとは違い意思がないはずの陰が暮相の言葉を聞こうとしている様に思えた。

「つまりだ。俺が裏の頭領に逆らって追放されて死んだのに、お前らが生きてんのはおかしくね?」

 どうしてその結論になったのかはわからない。
 しかし明依にはそれが、終夜に対する暮相の精一杯の祝福の様に思えた。

 宵は暮相の言葉を聞いて、ふっと息を抜いて笑った。一瞬で感じたのは、先ほどよりも明確な嫌な予感。

「じゃあ、俺も」
「……宵兄さん」

 明依のつぶやきは小さく震えて、誰にも届かずに消えた。

「まだ生きててもいいんだぜ、宵」

 暮相の言葉に、宵は柔らかい笑顔を浮かべる。

「俺は幸せ者だ。二度目の命をもらった」

 宵はそう言うと旭と日奈と明依を順番に見た。

「それに、今度はちゃんと〝ありがとう〟って言って、さようならが出来るんだから」

 宵は懐かしそうに目を細めて、いつもの優しい顔で笑った。

 別れが来ることはわかっていた。
 今日だけの話じゃない。ずっと前からわかっていた。
 何事にも終わりがあることはわかっていて、何度も忘れて、思い出す度に、次こそは胸に刻もうともがき苦しんだはずだった。

 宵の最初から持っている〝明依と終夜を珠名屋の外に出す〟という目的のための最善を選ぶ。だから明依は、引き止める術も理由も何一つ持っていない事に気付いていた。

 もう本当にこれで最後。
 宵を見るのはもう、これで最後。

 日奈が明依の隣で喉元を震わせて俯いた。
 明依は唇を噛みしめて、泣くなと言い聞かせた。

 本当は離れたくないと、一緒にいたいと言えたら、どれほど楽になれるだろう。

 ここは、まぎれもない地獄だ。

「明依を頼むよ、終夜」
「言われなくてもわかってるよ」

 可愛気のない終夜の返事に、宵はまるで日奈や旭に向けるのと同じ笑顔を彼に向けた。終夜は少し驚いた顔をしてそれから少しだけ気を許したように笑った。

 二人が笑い合っている事が嬉しいと感じたのは一瞬で。まるで波にさらわれたようにすぐに明依を寂しさが襲った。

「明依」

 明依は涙をこらえて宵を見る。
 宵はいつもの笑顔を浮かべて、大好きだった優しい声で名前を呼んでくれる。

 明依は宵の言葉を一言一句聞き逃さないように、見逃さないようにしっかりと宵を見た。
 
「松ノ位引退おめでとう。お疲れ様」

 明依は思わず息を呑んだ。

 脳内に浮かんだのは、引退の花魁道中前。
 満月屋を振り返り、もし宵が生きていたのならきっと一番近く、真正面から門出を祝ってくれていただろうと思った時の事。

 二年前、本当に宵は満月屋の出口でこの言葉を、大好きだったこの優しい顔で、言ってくれていたのではないだろうかと思うほど鮮明に、思い出していた。

 宵の最期に選んだ言葉は。〝私を拾ってくれてありがとう〟という言葉は、何一つ間違いではなかったと、明依は確信していた。

 伝えたいことが多すぎて言葉にならない。
 だけどきっとどれだけ時間があったって、語りつくすことはできなかっただろう。

 だから明依はせめて精一杯の笑顔を作って、最後に宵に笑いかける。

「ありがとう。宵兄さん」

 この言葉に全てを。
 今までとこれからの全てを込めて。

「こちらこそありがとう、明依」

 そういって宵は、明依に背を向けた。