「宵」
終夜が廊下の先を見据えたまま宵の名前を呼ぶと、宵は視線を終夜に移した。
「陣形か?」
「そう。俺が先頭を歩く。次に暮相兄さん、明依、日奈、旭、最後に宵。これが最もどんな状況にも対処しやすい陣形だと思う。どう思う?」
「俺と同じ意見だよ」
終夜は宵の言葉を想定していたのか、何も返事をすることなく日奈を見た。
「日奈。明依の事を支えてあげてほしい」
「うん。わかった」
日奈は終夜の言葉に、真剣な面持ちでこくりと頷く。
二人は昔、こんな風に会話をしていたのか。
そう思うと胸が締め付けられるような思いがする。どんな理由があって胸が締め付けられているのか。嬉しいのか、悲しいのか。自分の事だというのに明依にはわからなかった。
「じゃあ行くよ」
終夜はそう言うと、さっさと先を歩き出す。その後ろを暮相が歩いた。
「頑張れよ終夜。お前になんかあったら次俺なんだから」
「他人に散々迷惑かけたんだから、〝働かせてください〟でしょ」
感覚から直通で口に出したような暮相の言葉に、終夜は薄く笑っている。
「頼んだよ、日奈」
「任せて」
宵の言葉に、日奈は大きく頷いた。それから明依と日奈は手を握り合って暮相の後ろを歩いた。
先ほどよりも目がくらむ間隔が空いている。
もし一人で珠名屋に放り出されていたら諦めていたかもしれない。生きる事を諦めたか、もしくは〝明依〟として生きる事を諦めたか。
しかし、自分が死んで悲しんでくれる人がこんなにたくさんいるという事実が。終夜を一人に出来ない思いが気力を芽吹かせて死を少し先延ばしにしている。
必ず終夜と一緒にこの妓楼の外に。そう思って、また先ほどまでの思い出が顔を出す。
日奈、旭、宵、暮相。
四人にはもう二度と会う事が出来ない。
両極端に心を引っ張られて、息をすることもおろそかになってしまう。
仄かに青くて暗い廊下が心の迷いに付け込んでくる。今生きる事に集中しなければ、人間の生気すら奪い取ってしまうのではないかと思うくらいに。
「明依」
日奈が少し後ろから、力強さを感じる声で名前を呼ぶ。その声で明依は我に返った。
「大丈夫だよ。絶対」
自分も怖いだろう。日奈はこの先、自分自身がどうなるかさえわからないのだ。もしかするとまた死んでしまうかもしれない。それなのに日奈は、前向きに生きる事を後押ししてくれる。
「後ろは任せろ。俺と宵兄さんが絶対に守ってやるからな!」
旭はいつもの様子で、笑顔を浮かべて言う。その三人の様子を見た宵が穏やかな笑顔を浮かべた。
この世界が現実だったら、一体どれほど幸せだっただろう。
しかしそうなると、終夜と一緒に生きる未来はなかった。
終夜と自分の関係は、全てを犠牲にした上で成り立っているものだ。
だからこそ何よりも代えがたく、だからこそしっかりと根を張り、だからこそ、苦しい。
「止まるよ」
終夜は言葉と共に歩みを止めたが、暮相も終夜とほとんど同じタイミングで足を止めた。
これからの事に思いをはせていた明依は、暮相の背中に顔面をぶつけて「ぶっ」という可愛気のかけらもない声を上げて鼻を抑えた。
「大丈夫か、明依」
「大丈夫だけど……なんでこんなに硬いの?」
「わかる。男の筋肉って可愛気がねーよな。だから女がいいんだよ」
この男はただ女の話がしたいだけなのではと思った明依は後ろから暮相を冷めた目で見た。
「わかってるなら急に止まらないでよ」
「自分の間合いくらい把握しとけよー」
鼻を抑える明依をちらりと振り返ってみた暮相は、まるで終夜のようにあっさりした様子で言う。
切り捨てられた。間違いなくこの男は終夜の師匠だ。切り捨て方が終夜にそっくりだ。
この暮相が常に側にいるのが日常なら、誰でも反面教師にしてまともな人間になれる気がした。
「本当に恩知らずな奴らだ」
正面から声が聞こえて、明依は暮相の後ろから進行方向を覗き見た。
恨めし気な様子の白萩が、こちらを睨みながら立っている。
「星乃さまに造られたニセモノのくせに」
地獄大夫のお気に入り達が気に入らないとでも言いたげに、白萩はたっぷりの恨みを込めて吐き捨てる。
しかし、その言葉に傷つく余地はもはや明依には残っていなかった。日奈も旭も宵も、きっと暮相も、あまりに生きていた頃のままで、造り物だとは到底思えなかったから。
「珠名楼の薬物は裏のルートで吉原に入り込んでるのかと思ったら。まさかアンタだったとはね、白萩。やっぱり印象のいい人間には裏があると思って接しないとダメだね。今回の事で肝に銘じるよ」
「主郭は変な所で情に厚い。長年吉原で医師を務めている人間が選び信用している俺が、珠名屋と繋がっているなんて考えもしなかったんでしょうね。最初から珠名屋を調べていたのが終夜さん、アンタだったら俺はすぐに見つかっていたかもしれない」
そういうと白萩はニヒルな笑みを浮かべた。
「吉原という街は終夜さんに頼って回っていたんだと思わされましたよ。アンタが実動から外れて頭領になったとたん、吉原の闇の部分は活発に動き出した。優秀な人間はご苦労が絶えないでしょう」
「よく喋りやがる」
白萩に意識を向け過ぎていたのかもしれない。明依が気付いた時には暮相は白萩のすぐ目の前にいて、何の遠慮もなく顔面を殴りつけていた。
暮相に殴られた白萩は、障子をなぎ倒しながら吹っ飛んで行く。
それは二年前の抗争で宵に、いや暮相に吹っ飛ばされた晴朗を思い出させる光景だった。
「まだ筋肉が硬いんだよな。力加減がわかんねー」
唖然とする明依、日奈をよそに、旭はまるで自分事のように「うっわ、痛そー……」と呟きながら自分の頬を抑えていた。
明依は白萩が飛んでいった場所から、暮相に視線を移した。
暮相は手をグー、パーと繰り返し動かして、それから肩を回している。
宵として終夜と戦った二年前よりももっと余裕があり、遊びがある。自分の身体の内側も外側も、隅から隅まで知り尽くしているのだろうかと思うほど。
たった一つの動きで素人目に見ても感じる、圧倒的戦闘センス。戦闘狂の晴朗が彼と戦うために終夜の命を助けたのも納得だ。
挑んでみたいと思うのだろう。たった一つの動きで自らの強さを相手に押し付けるように認識させることができる人間に。敵わないかもしれないと思えるような相手に。
自分の全力をぶつけられる相手と命のやり取りをする事でのみ、自らの存在と〝位置〟を把握できる。
この人が、終夜の師匠。
今の暮相の様子を知っていたなら、宵の正体が暮相だと知った二年前、終夜と戦う様子を正気を保って見ていられなかったかもしれない。
同時に、改めて終夜の精神力の強さも驚かされていた。終夜は誰よりも暮相の強さを知っていただろうから。だから終夜は、相打ちを覚悟して戦いを挑みに行ったのだろう。
「まあ、〝宵〟の頃の筋肉よりは使いやすいな」
「宵は暮相兄さんよりも細身で柔軟性のある筋肉だしね」
暮相と終夜はそう言うと、後ろにいる宵を見た。
「全然違うんだよな、感覚が。人間、骨格までは変えられないからな。筋肉の付け方で見た目を変えるって大変なんだぞ。脱いで見せてやれよ、宵。俺の集大成」
「そんな大層な体つきじゃないよ」
終夜、暮相、宵の圧倒的な余裕。それは途方もない安心感だった。
白萩は障子の重なりから抜け出し、フラフラとした動きで立ち上がった。
「意外と負けん気あるじゃん」
暮相は少し嬉しそうに言い、それから笑う。
そして両腕を大きく広げて白萩を受け入れる様子を見せた。
「来いよ。野郎なら大歓迎だ」
今の明依には、どれだけ素行が悪かろうと女が暮相に惚れてしまう理由がよく分かった。
終夜が廊下の先を見据えたまま宵の名前を呼ぶと、宵は視線を終夜に移した。
「陣形か?」
「そう。俺が先頭を歩く。次に暮相兄さん、明依、日奈、旭、最後に宵。これが最もどんな状況にも対処しやすい陣形だと思う。どう思う?」
「俺と同じ意見だよ」
終夜は宵の言葉を想定していたのか、何も返事をすることなく日奈を見た。
「日奈。明依の事を支えてあげてほしい」
「うん。わかった」
日奈は終夜の言葉に、真剣な面持ちでこくりと頷く。
二人は昔、こんな風に会話をしていたのか。
そう思うと胸が締め付けられるような思いがする。どんな理由があって胸が締め付けられているのか。嬉しいのか、悲しいのか。自分の事だというのに明依にはわからなかった。
「じゃあ行くよ」
終夜はそう言うと、さっさと先を歩き出す。その後ろを暮相が歩いた。
「頑張れよ終夜。お前になんかあったら次俺なんだから」
「他人に散々迷惑かけたんだから、〝働かせてください〟でしょ」
感覚から直通で口に出したような暮相の言葉に、終夜は薄く笑っている。
「頼んだよ、日奈」
「任せて」
宵の言葉に、日奈は大きく頷いた。それから明依と日奈は手を握り合って暮相の後ろを歩いた。
先ほどよりも目がくらむ間隔が空いている。
もし一人で珠名屋に放り出されていたら諦めていたかもしれない。生きる事を諦めたか、もしくは〝明依〟として生きる事を諦めたか。
しかし、自分が死んで悲しんでくれる人がこんなにたくさんいるという事実が。終夜を一人に出来ない思いが気力を芽吹かせて死を少し先延ばしにしている。
必ず終夜と一緒にこの妓楼の外に。そう思って、また先ほどまでの思い出が顔を出す。
日奈、旭、宵、暮相。
四人にはもう二度と会う事が出来ない。
両極端に心を引っ張られて、息をすることもおろそかになってしまう。
仄かに青くて暗い廊下が心の迷いに付け込んでくる。今生きる事に集中しなければ、人間の生気すら奪い取ってしまうのではないかと思うくらいに。
「明依」
日奈が少し後ろから、力強さを感じる声で名前を呼ぶ。その声で明依は我に返った。
「大丈夫だよ。絶対」
自分も怖いだろう。日奈はこの先、自分自身がどうなるかさえわからないのだ。もしかするとまた死んでしまうかもしれない。それなのに日奈は、前向きに生きる事を後押ししてくれる。
「後ろは任せろ。俺と宵兄さんが絶対に守ってやるからな!」
旭はいつもの様子で、笑顔を浮かべて言う。その三人の様子を見た宵が穏やかな笑顔を浮かべた。
この世界が現実だったら、一体どれほど幸せだっただろう。
しかしそうなると、終夜と一緒に生きる未来はなかった。
終夜と自分の関係は、全てを犠牲にした上で成り立っているものだ。
だからこそ何よりも代えがたく、だからこそしっかりと根を張り、だからこそ、苦しい。
「止まるよ」
終夜は言葉と共に歩みを止めたが、暮相も終夜とほとんど同じタイミングで足を止めた。
これからの事に思いをはせていた明依は、暮相の背中に顔面をぶつけて「ぶっ」という可愛気のかけらもない声を上げて鼻を抑えた。
「大丈夫か、明依」
「大丈夫だけど……なんでこんなに硬いの?」
「わかる。男の筋肉って可愛気がねーよな。だから女がいいんだよ」
この男はただ女の話がしたいだけなのではと思った明依は後ろから暮相を冷めた目で見た。
「わかってるなら急に止まらないでよ」
「自分の間合いくらい把握しとけよー」
鼻を抑える明依をちらりと振り返ってみた暮相は、まるで終夜のようにあっさりした様子で言う。
切り捨てられた。間違いなくこの男は終夜の師匠だ。切り捨て方が終夜にそっくりだ。
この暮相が常に側にいるのが日常なら、誰でも反面教師にしてまともな人間になれる気がした。
「本当に恩知らずな奴らだ」
正面から声が聞こえて、明依は暮相の後ろから進行方向を覗き見た。
恨めし気な様子の白萩が、こちらを睨みながら立っている。
「星乃さまに造られたニセモノのくせに」
地獄大夫のお気に入り達が気に入らないとでも言いたげに、白萩はたっぷりの恨みを込めて吐き捨てる。
しかし、その言葉に傷つく余地はもはや明依には残っていなかった。日奈も旭も宵も、きっと暮相も、あまりに生きていた頃のままで、造り物だとは到底思えなかったから。
「珠名楼の薬物は裏のルートで吉原に入り込んでるのかと思ったら。まさかアンタだったとはね、白萩。やっぱり印象のいい人間には裏があると思って接しないとダメだね。今回の事で肝に銘じるよ」
「主郭は変な所で情に厚い。長年吉原で医師を務めている人間が選び信用している俺が、珠名屋と繋がっているなんて考えもしなかったんでしょうね。最初から珠名屋を調べていたのが終夜さん、アンタだったら俺はすぐに見つかっていたかもしれない」
そういうと白萩はニヒルな笑みを浮かべた。
「吉原という街は終夜さんに頼って回っていたんだと思わされましたよ。アンタが実動から外れて頭領になったとたん、吉原の闇の部分は活発に動き出した。優秀な人間はご苦労が絶えないでしょう」
「よく喋りやがる」
白萩に意識を向け過ぎていたのかもしれない。明依が気付いた時には暮相は白萩のすぐ目の前にいて、何の遠慮もなく顔面を殴りつけていた。
暮相に殴られた白萩は、障子をなぎ倒しながら吹っ飛んで行く。
それは二年前の抗争で宵に、いや暮相に吹っ飛ばされた晴朗を思い出させる光景だった。
「まだ筋肉が硬いんだよな。力加減がわかんねー」
唖然とする明依、日奈をよそに、旭はまるで自分事のように「うっわ、痛そー……」と呟きながら自分の頬を抑えていた。
明依は白萩が飛んでいった場所から、暮相に視線を移した。
暮相は手をグー、パーと繰り返し動かして、それから肩を回している。
宵として終夜と戦った二年前よりももっと余裕があり、遊びがある。自分の身体の内側も外側も、隅から隅まで知り尽くしているのだろうかと思うほど。
たった一つの動きで素人目に見ても感じる、圧倒的戦闘センス。戦闘狂の晴朗が彼と戦うために終夜の命を助けたのも納得だ。
挑んでみたいと思うのだろう。たった一つの動きで自らの強さを相手に押し付けるように認識させることができる人間に。敵わないかもしれないと思えるような相手に。
自分の全力をぶつけられる相手と命のやり取りをする事でのみ、自らの存在と〝位置〟を把握できる。
この人が、終夜の師匠。
今の暮相の様子を知っていたなら、宵の正体が暮相だと知った二年前、終夜と戦う様子を正気を保って見ていられなかったかもしれない。
同時に、改めて終夜の精神力の強さも驚かされていた。終夜は誰よりも暮相の強さを知っていただろうから。だから終夜は、相打ちを覚悟して戦いを挑みに行ったのだろう。
「まあ、〝宵〟の頃の筋肉よりは使いやすいな」
「宵は暮相兄さんよりも細身で柔軟性のある筋肉だしね」
暮相と終夜はそう言うと、後ろにいる宵を見た。
「全然違うんだよな、感覚が。人間、骨格までは変えられないからな。筋肉の付け方で見た目を変えるって大変なんだぞ。脱いで見せてやれよ、宵。俺の集大成」
「そんな大層な体つきじゃないよ」
終夜、暮相、宵の圧倒的な余裕。それは途方もない安心感だった。
白萩は障子の重なりから抜け出し、フラフラとした動きで立ち上がった。
「意外と負けん気あるじゃん」
暮相は少し嬉しそうに言い、それから笑う。
そして両腕を大きく広げて白萩を受け入れる様子を見せた。
「来いよ。野郎なら大歓迎だ」
今の明依には、どれだけ素行が悪かろうと女が暮相に惚れてしまう理由がよく分かった。



