造花街・吉原の陰謀-百鬼夜行-

「そっちは大変だったんじゃない?」

 ふいに聞こえた終夜の声で、明依は弾かれたように地獄絵図から終夜の声が聞こえた方へと視線を移した。

「終夜」

 明依が名前を呼ぶと、終夜は時々見せる柔らかい顔で笑った。
 終夜の表情に、明依は胸が締め付けられる思いがした。明確な理由は分からない。ただ、終夜はこんな状況でこんな風に笑うだろうかという疑問。だから、嫌な予感といえばそうなのかもしれない。

 しかし明依は、終夜の態度に対して素直に口にすることが出来なかった。

 日奈を前にして終夜と親しく喋る事に気が引けてしまって。
 言いたいことが喉元で絡まったまま、明依は口をつぐんだ。

 終夜から離れて後ろを歩いてくるのは、冷静な様子の暮相と、悲し気な様子を隠しきれない旭。

「結構長い時間足止めを食らったよ」
「だろうね。こっちが平和だったから」

 宵と終夜が会話をしている。
 俯瞰して見ると、別れる前に見た終夜とは何か違う気がする。

 もしかすると今宵と話している終夜は――

「俺はニセモノじゃないよ。後ろの二人はさっきまでの二人かどうかは知らないけど」

 終夜はまるで明依の脳内を正確にスキャンして読み取ったかのようなタイミングで否定する。

 明依はきょとんとした後、小さく笑った。

 そしてやっと、心底安心する。
 生きてまた、終夜に会えたことに。

 もしかするとその思いが、緊張の糸を解いてしまったのかもしれない。
 小さな目のくらみを感じた明依は壁に手をついたつもりだったが、身体は何をどう間違ったのか、自分の体重を支えきれずに肩をぶつけた。

「明依!!」
「明依!」

 旭と日奈が焦って名前を呼ぶ間に、終夜が明依の身体に触れた。重力に従順に従う明依を、終夜は身を屈めながら抱きしめる形で持ち上げ、支える。

 次に明依を襲うのは、胸の痛みだった。

 終夜に支えてもらっていなければ、床に倒れ込んでいただろう。仕方ないとはいえ、日奈は好きな男と親友が近い距離にいるこの状況をどう思うのだろうという、不安。だから、素直な言動を自分自身に許せない。

「ありがとう、終夜」
「うん」

 終夜は短く返事をする。そして、彼は動かない。

 言葉を間違っただろうかと明依は思った。

 〝ありがとう〟というのは使い方によっては〝もう大丈夫だよ〟という意味を含んでいて、つまり暗黙の了解で離れる、が当然だと思っていたのだが、終夜の中では違うのかもしれない。

 いやいや、そんなわけあるか。と思いながらも、終夜は何も悪くないと明依は冷静さを保った。違うのなら悪かったが、こうやって考えている間にも、何か別の動きを見せる事は出来るわけで。

 それなのに終夜は動かない。頑なに。
 別の言い方をするのなら、離れようとしない。

「終夜」
「なに?」
「ありがとう」
「うん」

 なるほど、そういう事。大丈夫なら自分で巣立っていけスタイルね。了承了承。昔から終夜は手を放すタイプだもんね、と思い明依は身体をはなそうとしたが、終夜は明依がひきはなそうとする同じ分だけの力をギュッと加えて、明依の背中に回す手に力を込める。

 これは様子がおかしいぞと思った明依は終夜の背中や横腹の着物、腕。あらゆるところを掴んで引き離そうとするが。終夜は頑なに離れようとしない。

 ねえ、どうして? もしかして頭のネジを一本外してきてしまった? いろいろなことが頭に浮かんだ結果、直接的な言葉で言わないといけないと思った。

「……だからね」
「うん」
「……放してほしいんだけど」

 明依が控えめにそう言うと、終夜は明依にだけ聞こえるくらいの声で「やだ」と言った。
 終夜の態度に明依が胸を矢で射ぬかれたような錯覚に陥っている間、暮相が噴き出して笑った。

「ほーらな! よーく見とけよ旭。あれが顔面だけに頼って生きた男の末路だぞ~」
「顔面すら使えない暮相兄さんには言われたくないんだよ」
「ああ!? お前、兄貴に向かって!」
「うるせーんだって!! さっきそれで襲われたんだろーが!!」
「旭! 静かに!」

 終夜とのやりとりに騒ぎ出した暮相を抑えようとした旭が宵に抑えられる、というカオスな状態を日奈があたふたとした様子で眺めていた。暮相と旭はとうとう喧嘩を始めてしまう。「自分が一番トラップに引っかかったくせに」とか「自分だって終夜に助けてもらったくせに」いう怒鳴りあいが聞こえてくる。
 終夜絡みでいろいろあったのだろうなと思い、苦笑いを浮かべた。

 ふと明依は、やっぱり何となく終夜が自分達と別れる前とは違うと思い、原因を突き止めるべく許される限り終夜から顔を遠ざけてみた。
 着ていたはずの羽織を今は着ていない。

「終夜、羽織どうしたの?」
「あげてきた」
「……誰に?」
「明依」

 終夜に呼ばれた名前で無意識に、反射的に、胸が締め付けられる思いがする。
 だからこれは、悪い予感だ。

「私にくれたの?」

 明依が確認するように言うと、終夜は「うん、そう」と呟いた。

 単調にも、弱々しくも聞こえる終夜の言葉。ぼそりと呟くその一言で、明依はなんとなく何があったのかを悟った。

 終夜のニセモノがいたのだから、自分のニセモノがいたって何もおかしな話じゃない。何があったのかは知らないが、きっとその〝明依〟はもう、この世にはいないのだろうという直感。

 自分の死を見て終夜が悲しみそれから弱っているという事実は、悲しくもあり同時に嬉しくもなる不思議な感覚だった。
 しかし感情を丁寧に咀嚼している暇もないくらい、明依は焦りに似た思いを抱えていた。終夜のこれほどまで弱い部分を今まで見たことがない。
 だからどんなふうにすれば終夜の助けになるのか、明依にはわからなかった。

 明依が恐る恐る終夜の後頭部に触れてみると、終夜は応えるように明依に頬をすり寄せた。

 自分が今、終夜の全てを支えているのだという直感。
 終夜が世界でたった一人、自分にだけ見せてくれる姿だという確信。
 腹の底から溢れ出すような愛しさだった。

 腹の底から溢れる愛しさは、終夜を一人にできないという使命感にも似た気持ちに変わる。

「私、まだ生きてるんですけど」

 こんなところで死んでいられない。
 どれだけ苦しくても終夜の隣で生きていくんだと、引退の花魁道中の後に誓ったんだから。
 病は気から、とはよく言ったもので、気力が湧き上がってくる感覚が間違いなくあった。

 たわむれた言葉を使う明依に、終夜はふっと安心したように笑う。

「もう出入り口を探している時間はない」

 終夜ははっきりとした意思を持った口調で明依から離れながら言う。その言葉で暮相と旭は喧嘩をやめ、宵と日奈もまた終夜を見た。

「思ったより毒の進みが早い。地獄大夫から解毒薬を奪い取るしか、明依が助かる方法はない」
「……って事は、この先に行くって事だな」

 旭がそう言うと、全員が地獄絵図を見据えた。

「地獄へようこそ」

 地獄大夫の声だけが聞こえて、襖が音を立てて開いた。

 暖色の光は襖の先に吸い込まれたのだろうか。今立っている廊下とは違い、青く暗い廊下が続いている。
 右も左も障子張りになっているが、光の無い場所で障子の意味はない。青暗く先の見えない廊下は、奈落の底まで続いているのかもしれないと思うほどで、いつか見たホラー映画の病棟の廊下の雰囲気によく似ている。

 これならまだ、純粋なろうそくの明かりを灯す今立っている廊下の方がマシだと思える。そんな廊下が伸びていた。