三階の階段はすぐに見つかった。
宵が三階に続く階段を念入りに調べている間、明依は壁に背を預けて座り、目のくらみと神経が疼くような痛みに耐えていた。
不快感はやがて、ゆっくりと消えていった。
明依はぼんやりと宵の背中を見た。
一階から二階に続く階段を上るとき、宵が階段を確認している様子はなかった。おそらく二階に続く階段を調べてから調理場に迎えに来てくれたのだろう。そう思うとまた、宵の知らない気遣いに触れられた気がして嬉しくなる。
一緒に過ごした期間で、いったい何度彼の優しさの隣を通り過ぎたのだろう。
思い出がまた、胸を締め付けている。
宵が階段に沿って張られた透明の細い糸を引っ張ると、からくりが作動した。細い糸は複数本がそれぞれ複雑に絡み合って、跳ねるように天井に向かって飛んでいった。
それを視線で追った後、また訪れた不快感。
感覚が狭くなっためまいに、明依は壁に背を預けて座り込んだまま、俯いて耐えた。
回数を重ねる度に気分はさらに悪くなり、身体はいう事を聞かなくなっていく。
俯いているだけでは堪え切れず、目を閉じたまま天井方向を向いてゆっくりと呼吸を繰り返した。
こうやってじわじわと苦しめる事が地獄大夫の目的。
それだけならきっと、負けん気の強さだけでどうにかしていただろう。
しかし今は、日奈と宵がいる。
未来さえ捨てれば体は楽になり、日奈と宵と旭と、あの頃の世界の全てを手に入れる事が出来る。
そんな馬鹿な考えを途切るのは、終夜の存在だけ。
触れ合う事も、気持ちを伝えあう事すらも出来ない、ただ隣で見ているだけの、終夜の存在。
生きてさえいてくれたら、それだけでよかったはずなのに。
去り際に残った不快感が、思い出したようにもう一度明依を苦しめた。
内側から無理矢理絞り出したような重たい脂汗がにじんでいる。
「もう大丈夫だ。階段に仕掛けは何もないよ」
宵の言葉が耳を通り過ぎても、明依は苦しみの中にいた。隣では日奈が、明依の身体をさすっていた。
身体の中は生命活動で大忙しなのか、先ほどまで確かにあった神経に響くような疼く痛みが飽和して、掴みどころがない痛みに変わる。
すべてが過ぎ去った後、心配そうな日奈と宵の顔があった。
こんな顔をしてくれる人が二人もいるなんて、やっぱり幸せ者だ。
まだ大丈夫。正気を保っていられる。
ただ、あと何度、この苦しみに耐えられるだろう。
「……明依」
心配そうな日奈の声に、明依は今できる精一杯の笑顔を作った。
「大丈夫」
二人と一緒にいられるこの時間が、幸せだ。
葛藤の全てを手放してしまえばきっと、心も体も楽になるのだろう。
終夜もきっと、思い出に縛られそうになっている。
しかし終夜は絶対に、珠名屋に残るという決断は下さない。
珠名屋から無事出られた後は、まるで何事もなかったかのように飄々とした顔で生活するのだ。
幼少期から、〝吉原の厄災〟と呼ばれていた時期も、今も。終夜は何一つとして、変わっていない。
だから今、自分が終夜の未来さえ担っているのだという感覚が明依にはあった。
だからしっかりしなければ。終夜を支えなければ。
憔悴しきった所を見られたら、終夜はまた自分を責めてしまうから。
そう思いながら明依はほとんど残っていない気力を振り絞って立ち上がった。
日奈がとっさに手を差し出してくれるが、明依を支えきれない日奈がふらりとよろけた。
しかし、そばにいた宵がすぐに二人を支えて、明依と日奈が倒れ込むことはなかった。
「ごめん、日奈」
「私は平気。明依は? 大丈夫……?」
日奈は今にも泣きそうな声で言う。もしかするともう泣いていたのかもしれない。
今日一日でもう何度聞いたかわからない日奈の言葉に、明依は思わず笑みを浮かべた。
「変わるよ」
日奈は自分では明依を支えられないと判断したのか、少し考えてから宵に明依の隣を譲った。
宵は明依の膝の裏に腕を回すと、軽々と抱き上げてから何も言わずに歩き出した。
「自分で歩けるよ、宵兄さん」
「わかってるよ。階段を上がったら下すから」
自分で歩ける、とは言いながらも、今の明依に宵が抱えてくれる羞恥心に抵抗する気力はなかった。
宵はきっと気遣ってくれているのだろう。
終夜に見られると後々嫌な思いが残ることを知っていて。
もしも。もしも吉原に生き残ったのが日奈と終夜だったとして、自分が終夜に思いを寄せていたとして。
こんな風に二人の未来を考えた気遣いが自分にできるだろうか。
宵の腕の中で規則的に揺られながら、明依はそんな事を考えていた。
身体を休めているからか、気分の悪さが先ほどよりも引いている。
感じた事のない脱力感だった。このまま眠ってしまいたい。しかしおそらくその時が、自分の最期だろう。
「久しぶりだね。これ」
苦痛が緩和した穏やかともいえる時間の中。宵の言葉で明依の脳内には弾かれたように宵と身体を重ねかけた座敷での事が思い浮かんだ。
「明依、覚えてるよね?」
脳内を整理した明依が下した結論は、宵と同じことを考えている、という事実。
ゆっくりとすぐ近くにある宵の顔を見る。
「宵兄さん、楽しんでるでしょ?」
「楽しめる時には楽しんでおかないと。人生、何があるかわからないんだから」
身体を重ねかけて、それから双子の幽霊にその一部始終を見られていたことを思い出した。羞恥心と、それからぐちゃぐちゃした感情。
しかし同意のうえでやった事なので強く宵の言葉を否定することも出来ず、感情がいつも通り急に騒がしくなる。
ほんの少しだけ宵の中に暮相の名残が見え隠れしている気がした。
「……意地悪」
「意地悪なのは気のせいだよ」
宵はさらりと言う。
明依の中では宵は出会った時から大人で、お兄さんで、完璧な存在だった。
だからだろうか。宵の人間らしい一面に触れられるのは嬉しい。
三階に到着すると、宵は要望通りすぐに明依を床に下した。
「ありがとう、宵兄さん」
「どういたしまして」
その後ろから階段を上がってきた日奈が、心配そうに明依に駆け寄った。
「明依、大丈夫?」
「うん。さっきよりはマシ」
明依がそう言うと、日奈は安心した様子を見せる。
三人は階段を背に三階を見据えた。やはり一階、二階と全く様子の変わらない廊下だ。
「早く終夜達と合流しよう。あと少しだ」
「明依。もう少しだからね」
「うん」
宵の言葉を聞いた日奈は、明依を励ますように声をかけ、それから明依を支えた。
もうすぐ別れがきてしまう。
やっぱり、悲しい。
終夜と二人で珠名屋の外に出たとして、終夜は珠名屋の件をどう処理するつもりなのだろう。
全員を、殺すのだろうか。
また終夜は、何も言わずにこの件を無かったことにして、当たり前な顔をして、嘘をつくのだろうか。
自分の中に浮かんだ予想に、明依の胸はトクンと痛んだ。
「ついたよ」
宵にそう言われて顔を上げてから、明依は息を呑んだ。心臓が痛いくらい打ち付けている。
横並びの襖。
描かれているのは地獄。
賽の河原、血の池、針山、煮えたぎる大鍋、燃え盛る炎。
逃げ惑う人。追う鬼。
青、赤、緑、白、黄。同じ色を様々な場所に使って描かれた、広々とした地獄絵図。
自分の中にある感情が先ほどまで感じていた恐怖の先にあるのか、はたまた全く別の場所にあるのかはわからないが、明依は目の前の襖に描かれた絵に畏敬の念すら覚えていた。
珠名屋という場所が日光を遮断し、ろうそくの光だけを頼って廊下を歩かせる理由は、この地獄絵図を最も印象付けるための伏線なのではないかと思う程、圧倒的な絵画。
大きな地獄絵図の中、明依はふと、小さく描かれたある場所に視線を止めた。
人類で初めて死んだ人間と言われる閻魔大王が行う裁判。
生前の善悪を判断するという道具。頂部に男と女の頭部が付いている杖・人頭杖。
男の頭部は悪行を、女の頭部は善行を判断すると言われている杖だが、女の頭部は目を閉じていて、男の頭部は大きく開いた口から炎を噴き出していた。
つまり、裁判を受けている人間は数々の悪行を繰り返したのだろう。
たくさんの鬼が武器を向けるのは、閻魔の裁判を受けていると思われる髪の長い女。
生前の様子を映し出すと言われる浄玻璃鏡には、ひとりの遊女が描かれていた。
宵が三階に続く階段を念入りに調べている間、明依は壁に背を預けて座り、目のくらみと神経が疼くような痛みに耐えていた。
不快感はやがて、ゆっくりと消えていった。
明依はぼんやりと宵の背中を見た。
一階から二階に続く階段を上るとき、宵が階段を確認している様子はなかった。おそらく二階に続く階段を調べてから調理場に迎えに来てくれたのだろう。そう思うとまた、宵の知らない気遣いに触れられた気がして嬉しくなる。
一緒に過ごした期間で、いったい何度彼の優しさの隣を通り過ぎたのだろう。
思い出がまた、胸を締め付けている。
宵が階段に沿って張られた透明の細い糸を引っ張ると、からくりが作動した。細い糸は複数本がそれぞれ複雑に絡み合って、跳ねるように天井に向かって飛んでいった。
それを視線で追った後、また訪れた不快感。
感覚が狭くなっためまいに、明依は壁に背を預けて座り込んだまま、俯いて耐えた。
回数を重ねる度に気分はさらに悪くなり、身体はいう事を聞かなくなっていく。
俯いているだけでは堪え切れず、目を閉じたまま天井方向を向いてゆっくりと呼吸を繰り返した。
こうやってじわじわと苦しめる事が地獄大夫の目的。
それだけならきっと、負けん気の強さだけでどうにかしていただろう。
しかし今は、日奈と宵がいる。
未来さえ捨てれば体は楽になり、日奈と宵と旭と、あの頃の世界の全てを手に入れる事が出来る。
そんな馬鹿な考えを途切るのは、終夜の存在だけ。
触れ合う事も、気持ちを伝えあう事すらも出来ない、ただ隣で見ているだけの、終夜の存在。
生きてさえいてくれたら、それだけでよかったはずなのに。
去り際に残った不快感が、思い出したようにもう一度明依を苦しめた。
内側から無理矢理絞り出したような重たい脂汗がにじんでいる。
「もう大丈夫だ。階段に仕掛けは何もないよ」
宵の言葉が耳を通り過ぎても、明依は苦しみの中にいた。隣では日奈が、明依の身体をさすっていた。
身体の中は生命活動で大忙しなのか、先ほどまで確かにあった神経に響くような疼く痛みが飽和して、掴みどころがない痛みに変わる。
すべてが過ぎ去った後、心配そうな日奈と宵の顔があった。
こんな顔をしてくれる人が二人もいるなんて、やっぱり幸せ者だ。
まだ大丈夫。正気を保っていられる。
ただ、あと何度、この苦しみに耐えられるだろう。
「……明依」
心配そうな日奈の声に、明依は今できる精一杯の笑顔を作った。
「大丈夫」
二人と一緒にいられるこの時間が、幸せだ。
葛藤の全てを手放してしまえばきっと、心も体も楽になるのだろう。
終夜もきっと、思い出に縛られそうになっている。
しかし終夜は絶対に、珠名屋に残るという決断は下さない。
珠名屋から無事出られた後は、まるで何事もなかったかのように飄々とした顔で生活するのだ。
幼少期から、〝吉原の厄災〟と呼ばれていた時期も、今も。終夜は何一つとして、変わっていない。
だから今、自分が終夜の未来さえ担っているのだという感覚が明依にはあった。
だからしっかりしなければ。終夜を支えなければ。
憔悴しきった所を見られたら、終夜はまた自分を責めてしまうから。
そう思いながら明依はほとんど残っていない気力を振り絞って立ち上がった。
日奈がとっさに手を差し出してくれるが、明依を支えきれない日奈がふらりとよろけた。
しかし、そばにいた宵がすぐに二人を支えて、明依と日奈が倒れ込むことはなかった。
「ごめん、日奈」
「私は平気。明依は? 大丈夫……?」
日奈は今にも泣きそうな声で言う。もしかするともう泣いていたのかもしれない。
今日一日でもう何度聞いたかわからない日奈の言葉に、明依は思わず笑みを浮かべた。
「変わるよ」
日奈は自分では明依を支えられないと判断したのか、少し考えてから宵に明依の隣を譲った。
宵は明依の膝の裏に腕を回すと、軽々と抱き上げてから何も言わずに歩き出した。
「自分で歩けるよ、宵兄さん」
「わかってるよ。階段を上がったら下すから」
自分で歩ける、とは言いながらも、今の明依に宵が抱えてくれる羞恥心に抵抗する気力はなかった。
宵はきっと気遣ってくれているのだろう。
終夜に見られると後々嫌な思いが残ることを知っていて。
もしも。もしも吉原に生き残ったのが日奈と終夜だったとして、自分が終夜に思いを寄せていたとして。
こんな風に二人の未来を考えた気遣いが自分にできるだろうか。
宵の腕の中で規則的に揺られながら、明依はそんな事を考えていた。
身体を休めているからか、気分の悪さが先ほどよりも引いている。
感じた事のない脱力感だった。このまま眠ってしまいたい。しかしおそらくその時が、自分の最期だろう。
「久しぶりだね。これ」
苦痛が緩和した穏やかともいえる時間の中。宵の言葉で明依の脳内には弾かれたように宵と身体を重ねかけた座敷での事が思い浮かんだ。
「明依、覚えてるよね?」
脳内を整理した明依が下した結論は、宵と同じことを考えている、という事実。
ゆっくりとすぐ近くにある宵の顔を見る。
「宵兄さん、楽しんでるでしょ?」
「楽しめる時には楽しんでおかないと。人生、何があるかわからないんだから」
身体を重ねかけて、それから双子の幽霊にその一部始終を見られていたことを思い出した。羞恥心と、それからぐちゃぐちゃした感情。
しかし同意のうえでやった事なので強く宵の言葉を否定することも出来ず、感情がいつも通り急に騒がしくなる。
ほんの少しだけ宵の中に暮相の名残が見え隠れしている気がした。
「……意地悪」
「意地悪なのは気のせいだよ」
宵はさらりと言う。
明依の中では宵は出会った時から大人で、お兄さんで、完璧な存在だった。
だからだろうか。宵の人間らしい一面に触れられるのは嬉しい。
三階に到着すると、宵は要望通りすぐに明依を床に下した。
「ありがとう、宵兄さん」
「どういたしまして」
その後ろから階段を上がってきた日奈が、心配そうに明依に駆け寄った。
「明依、大丈夫?」
「うん。さっきよりはマシ」
明依がそう言うと、日奈は安心した様子を見せる。
三人は階段を背に三階を見据えた。やはり一階、二階と全く様子の変わらない廊下だ。
「早く終夜達と合流しよう。あと少しだ」
「明依。もう少しだからね」
「うん」
宵の言葉を聞いた日奈は、明依を励ますように声をかけ、それから明依を支えた。
もうすぐ別れがきてしまう。
やっぱり、悲しい。
終夜と二人で珠名屋の外に出たとして、終夜は珠名屋の件をどう処理するつもりなのだろう。
全員を、殺すのだろうか。
また終夜は、何も言わずにこの件を無かったことにして、当たり前な顔をして、嘘をつくのだろうか。
自分の中に浮かんだ予想に、明依の胸はトクンと痛んだ。
「ついたよ」
宵にそう言われて顔を上げてから、明依は息を呑んだ。心臓が痛いくらい打ち付けている。
横並びの襖。
描かれているのは地獄。
賽の河原、血の池、針山、煮えたぎる大鍋、燃え盛る炎。
逃げ惑う人。追う鬼。
青、赤、緑、白、黄。同じ色を様々な場所に使って描かれた、広々とした地獄絵図。
自分の中にある感情が先ほどまで感じていた恐怖の先にあるのか、はたまた全く別の場所にあるのかはわからないが、明依は目の前の襖に描かれた絵に畏敬の念すら覚えていた。
珠名屋という場所が日光を遮断し、ろうそくの光だけを頼って廊下を歩かせる理由は、この地獄絵図を最も印象付けるための伏線なのではないかと思う程、圧倒的な絵画。
大きな地獄絵図の中、明依はふと、小さく描かれたある場所に視線を止めた。
人類で初めて死んだ人間と言われる閻魔大王が行う裁判。
生前の善悪を判断するという道具。頂部に男と女の頭部が付いている杖・人頭杖。
男の頭部は悪行を、女の頭部は善行を判断すると言われている杖だが、女の頭部は目を閉じていて、男の頭部は大きく開いた口から炎を噴き出していた。
つまり、裁判を受けている人間は数々の悪行を繰り返したのだろう。
たくさんの鬼が武器を向けるのは、閻魔の裁判を受けていると思われる髪の長い女。
生前の様子を映し出すと言われる浄玻璃鏡には、ひとりの遊女が描かれていた。



