日奈は精一杯周りを見ないように努めていた。
本来なら日奈のように周りを見ないというのが一般人にとっての賢明な判断だという事は明依にもわかっていた。
身体は緊張状態で、感覚の全てがぼやけているように感じている。それに、心臓の鼓動は打ち付けるように早い。
「明依。見ない方がいい」
「うん。わかってる」
宵がたくさんの人を殺したことが真っ当だと思っている訳じゃない。別に誰かが誰かを殺す状況が当たり前と思っている訳でもない。
だけど、そうしなければ生き残れないことも事実。
考え方の変化。社会の裏側というやつを知りすぎてしまったのだろう。
人間が死ぬことに、他の人間より慣れている。
明依は今、終夜の感じている感覚の入り口に立っているのだろうと感じていた。
自分、もしくは大切な人が傷つくかもしれなかった状況で、知らない人が死んでいる事に関しては比較的に冷静でいられる。
そして日奈よりも自分の方がこの状況に慣れているのだから、しっかりしなければという気持ち。
「日奈、大丈夫?」
「うん。平気」
そういうが、日奈の顔色は悪い。
日奈はきっと、人が死ぬところを見たことがないのだろう。
初めて見る死体がこのありさまなら、トラウマになってしまうかもしれない。
なるべく辺りを見ないようにする日奈の手をしっかりと握った明依は、自分が遊女の屍を踏まないように、日奈にも屍を踏ませないように注意を払って歩いた。
屍の山を抜けると日奈はその場に腰を抜かしたように座り込んだ。
真っ当な反応だ。だから明依はゆっくりと日奈の背中をさすった。
「大丈夫か、日奈」
「うん。大丈夫」
問いかける宵に日奈は少し震える声でそう言って、胸に手を当てた。
「明依」
心配して日奈を見つめる明依の名を、宵が呼ぶ。
なぜかトクンと心臓が鳴った。
明依が振り返ると、宵は明依の頬に触れた。
今度は、心臓があからさまに跳ねる。
しかし宵の手はあっさりと離れた。
宵の指先には血。どうやら頬に血液が飛んでいたらしい。
きっと極度の緊張状態から宵に名前を呼ばれた安心感が、情緒を大きくかき乱したのだろう。そんな予想ができる程、明依は冷静だった。
「ありがとう」
どうやら明依の感謝の言葉は、今の宵には届かないらしい。
宵はほんの少し俯いて、明依の言葉に返事をしなかった。
「俺がこんな状況に慣れさせてしまったんだな」
ぽつりと言う宵の言葉は、今にも消えてしまいそうなくらい弱々しい。今すぐに行動を起こして、宵の中にある不穏なものを全部取り除いてあげたいと思うくらい。
宵はきっと後悔しているのだろう。傷つけたくない人を傷つけてしまった苦しみは計り知れない。しかし宵という人間は暮相が人を傷つける為に生み出された。だが、今の宵の中に暮相はいない。
もしかすると、宵の中には暮相という存在がいた方が楽だったかもしれない。しかしそんな葛藤を宵は表に大きく出さないだろう。
『私ね。宵さまって、思っているより強い人間じゃないと思うの』
明依はいつか十六夜が言った言葉を思い出していた。
十六夜はきっとその言葉を、暮相に対して言ったのだろう。しかし、それは今となれば〝宵〟に関しても当てはまる話だ。
宵はきっと、宵という人間に関わった全員が思うほど万全な人間じゃない。人間らしい気分があって、葛藤がある。
例えば、終夜のように。
「明依、ごめん。辛い思いをさせたな」
辛くなかったかと言えば嘘だ。だけどもうそれは過去の事。今は宵自身が一番つらいだろう。それなのに他人を思いやれる。宵は昔から、明依の中で何一つ変わっていない。
また思い出に縛られている。過去に近付けば近付くほど。思い出に縛られていると分かっているのに、本気で抗いたくはない。そんな人間らしい葛藤。
「私は後悔してないよ、宵兄さん」
だからせめて、宵に見える部分だけはしっかりしていたいと、明依は言葉を選ぶ。
「日奈もごめん。俺が日奈の未来を奪ってしまった」
「宵兄さんは何も悪くないよ」
日奈は首を振って宵を見上げた。落ち着いた様子を見せた日奈に、宵は手を差し出す。日奈はその手を握って立ち上がった。
宵は少し間を空けてから、いつも通り二人の頭を撫でた。
宵に触れられるのは、安心する。
満月屋の中で彼に守られていた時間に引き戻される。
何があっても絶対に宵は満月屋にいて、必ず守ってくれるという絶対的な安心感。
本来両親から貰うような庇護を、宵から貰っていた。
紛れもなくあの頃は、満月屋こそが帰る場所だった。
またこの安心感に埋もれてしまえたら。
「ずっと、こうしていられたらいいのにね」
日奈の言葉に感じる、胸の痛み。
思い出に引きずり込まれる。思い出が胸に沁みて、じわじわと痛む。
すっとこうしていられたらいいのに。
幸せだった、あの頃の吉原のまま。
遊女という立場に縛られていたのだとしても、今ならきっと、以前よりもっと、自分で幸せを見つけて生きていくことが出来るのに。
「何事にも終わりはあるよ」
宵は日奈の言葉を汲んで、それでいてしっかりと明依に将来の見通しを立てられる言葉を選ぶ。
「うん。そうだね」
日奈は精一杯明るく、しかし悲しそうに言う。それから日奈はゆっくりと明依へと視線を移した。
「明依。終夜と一緒に珠名屋から出るんだからね」
日奈は念を押すように言う。
しかし明依は返事をすることが出来なかった。
「大丈夫。明依はちゃんとどうすべきなのかをわかってる。そうだろ、明依」
返事が出来ない明依の気持ちを図ったように、宵ははっきりとした口調で言い切る。
ズルいと思った。
そんなことを言われたら、〝珠名屋から出たくない〟なんて、口が裂けても言えなくなる。
きっと宵は分かっている。わかっているから、あえて言えない状況を作っているのだと思う。
また別れの苦しみを味わうのか。その苦しみを思い出すと、別れを選択するのが苦しい。
やっぱり地獄大夫は天才だ。
明依の目から堪えていた涙がぽろぽろと零れた。
「ちゃんと、わかってる」
「……明依」
あふれる涙を見た日奈が泣く。日奈は明依を抱きしめて、二人で支え合った。
必ず別れが来る。それは紛れもなく悲しい事で。だけどもう終わりが目前にあると知っているのは、逆に言えば幸運なことかもしれないと思った。
違う。全然違う。
思い出が多すぎて。日奈や旭、宵がいた頃の吉原と今の吉原は違い過ぎて。違い過ぎるからこそ、叶うのなら
あの頃に戻りたいと思ってしまっている。
宵は抱き合って泣く明依と日奈の背を優しくさすった。
宵が暮相だったと認識して二年間を過ごしてきたつもりだった。
しかし暮相という本来の要素を含まない〝宵〟なら、きっと自分を前にしてこんな反応をしてくれるのだろう。
拾って満月屋に受け入れてくれた時からずっと変わらない優しさで受け止めてくれる。
それを嬉しく思う。だけどこの気持ちはやっぱり、終夜に感じているものとは違う。
恋ではない。しかしそれは終夜への気持ちが恋と仮定しての事。
恋とは何だろう。人を大切にする思いがすべて恋なら、たくさんの人に恋をしてきたことになる。
後悔はしないだろうか。
伝え残したことはないだろうか。
本当にこの場を去って、後悔はしないだろうか。
弱い自分が顔を出して、またひとつ、罪が深くなる。
本来なら日奈のように周りを見ないというのが一般人にとっての賢明な判断だという事は明依にもわかっていた。
身体は緊張状態で、感覚の全てがぼやけているように感じている。それに、心臓の鼓動は打ち付けるように早い。
「明依。見ない方がいい」
「うん。わかってる」
宵がたくさんの人を殺したことが真っ当だと思っている訳じゃない。別に誰かが誰かを殺す状況が当たり前と思っている訳でもない。
だけど、そうしなければ生き残れないことも事実。
考え方の変化。社会の裏側というやつを知りすぎてしまったのだろう。
人間が死ぬことに、他の人間より慣れている。
明依は今、終夜の感じている感覚の入り口に立っているのだろうと感じていた。
自分、もしくは大切な人が傷つくかもしれなかった状況で、知らない人が死んでいる事に関しては比較的に冷静でいられる。
そして日奈よりも自分の方がこの状況に慣れているのだから、しっかりしなければという気持ち。
「日奈、大丈夫?」
「うん。平気」
そういうが、日奈の顔色は悪い。
日奈はきっと、人が死ぬところを見たことがないのだろう。
初めて見る死体がこのありさまなら、トラウマになってしまうかもしれない。
なるべく辺りを見ないようにする日奈の手をしっかりと握った明依は、自分が遊女の屍を踏まないように、日奈にも屍を踏ませないように注意を払って歩いた。
屍の山を抜けると日奈はその場に腰を抜かしたように座り込んだ。
真っ当な反応だ。だから明依はゆっくりと日奈の背中をさすった。
「大丈夫か、日奈」
「うん。大丈夫」
問いかける宵に日奈は少し震える声でそう言って、胸に手を当てた。
「明依」
心配して日奈を見つめる明依の名を、宵が呼ぶ。
なぜかトクンと心臓が鳴った。
明依が振り返ると、宵は明依の頬に触れた。
今度は、心臓があからさまに跳ねる。
しかし宵の手はあっさりと離れた。
宵の指先には血。どうやら頬に血液が飛んでいたらしい。
きっと極度の緊張状態から宵に名前を呼ばれた安心感が、情緒を大きくかき乱したのだろう。そんな予想ができる程、明依は冷静だった。
「ありがとう」
どうやら明依の感謝の言葉は、今の宵には届かないらしい。
宵はほんの少し俯いて、明依の言葉に返事をしなかった。
「俺がこんな状況に慣れさせてしまったんだな」
ぽつりと言う宵の言葉は、今にも消えてしまいそうなくらい弱々しい。今すぐに行動を起こして、宵の中にある不穏なものを全部取り除いてあげたいと思うくらい。
宵はきっと後悔しているのだろう。傷つけたくない人を傷つけてしまった苦しみは計り知れない。しかし宵という人間は暮相が人を傷つける為に生み出された。だが、今の宵の中に暮相はいない。
もしかすると、宵の中には暮相という存在がいた方が楽だったかもしれない。しかしそんな葛藤を宵は表に大きく出さないだろう。
『私ね。宵さまって、思っているより強い人間じゃないと思うの』
明依はいつか十六夜が言った言葉を思い出していた。
十六夜はきっとその言葉を、暮相に対して言ったのだろう。しかし、それは今となれば〝宵〟に関しても当てはまる話だ。
宵はきっと、宵という人間に関わった全員が思うほど万全な人間じゃない。人間らしい気分があって、葛藤がある。
例えば、終夜のように。
「明依、ごめん。辛い思いをさせたな」
辛くなかったかと言えば嘘だ。だけどもうそれは過去の事。今は宵自身が一番つらいだろう。それなのに他人を思いやれる。宵は昔から、明依の中で何一つ変わっていない。
また思い出に縛られている。過去に近付けば近付くほど。思い出に縛られていると分かっているのに、本気で抗いたくはない。そんな人間らしい葛藤。
「私は後悔してないよ、宵兄さん」
だからせめて、宵に見える部分だけはしっかりしていたいと、明依は言葉を選ぶ。
「日奈もごめん。俺が日奈の未来を奪ってしまった」
「宵兄さんは何も悪くないよ」
日奈は首を振って宵を見上げた。落ち着いた様子を見せた日奈に、宵は手を差し出す。日奈はその手を握って立ち上がった。
宵は少し間を空けてから、いつも通り二人の頭を撫でた。
宵に触れられるのは、安心する。
満月屋の中で彼に守られていた時間に引き戻される。
何があっても絶対に宵は満月屋にいて、必ず守ってくれるという絶対的な安心感。
本来両親から貰うような庇護を、宵から貰っていた。
紛れもなくあの頃は、満月屋こそが帰る場所だった。
またこの安心感に埋もれてしまえたら。
「ずっと、こうしていられたらいいのにね」
日奈の言葉に感じる、胸の痛み。
思い出に引きずり込まれる。思い出が胸に沁みて、じわじわと痛む。
すっとこうしていられたらいいのに。
幸せだった、あの頃の吉原のまま。
遊女という立場に縛られていたのだとしても、今ならきっと、以前よりもっと、自分で幸せを見つけて生きていくことが出来るのに。
「何事にも終わりはあるよ」
宵は日奈の言葉を汲んで、それでいてしっかりと明依に将来の見通しを立てられる言葉を選ぶ。
「うん。そうだね」
日奈は精一杯明るく、しかし悲しそうに言う。それから日奈はゆっくりと明依へと視線を移した。
「明依。終夜と一緒に珠名屋から出るんだからね」
日奈は念を押すように言う。
しかし明依は返事をすることが出来なかった。
「大丈夫。明依はちゃんとどうすべきなのかをわかってる。そうだろ、明依」
返事が出来ない明依の気持ちを図ったように、宵ははっきりとした口調で言い切る。
ズルいと思った。
そんなことを言われたら、〝珠名屋から出たくない〟なんて、口が裂けても言えなくなる。
きっと宵は分かっている。わかっているから、あえて言えない状況を作っているのだと思う。
また別れの苦しみを味わうのか。その苦しみを思い出すと、別れを選択するのが苦しい。
やっぱり地獄大夫は天才だ。
明依の目から堪えていた涙がぽろぽろと零れた。
「ちゃんと、わかってる」
「……明依」
あふれる涙を見た日奈が泣く。日奈は明依を抱きしめて、二人で支え合った。
必ず別れが来る。それは紛れもなく悲しい事で。だけどもう終わりが目前にあると知っているのは、逆に言えば幸運なことかもしれないと思った。
違う。全然違う。
思い出が多すぎて。日奈や旭、宵がいた頃の吉原と今の吉原は違い過ぎて。違い過ぎるからこそ、叶うのなら
あの頃に戻りたいと思ってしまっている。
宵は抱き合って泣く明依と日奈の背を優しくさすった。
宵が暮相だったと認識して二年間を過ごしてきたつもりだった。
しかし暮相という本来の要素を含まない〝宵〟なら、きっと自分を前にしてこんな反応をしてくれるのだろう。
拾って満月屋に受け入れてくれた時からずっと変わらない優しさで受け止めてくれる。
それを嬉しく思う。だけどこの気持ちはやっぱり、終夜に感じているものとは違う。
恋ではない。しかしそれは終夜への気持ちが恋と仮定しての事。
恋とは何だろう。人を大切にする思いがすべて恋なら、たくさんの人に恋をしてきたことになる。
後悔はしないだろうか。
伝え残したことはないだろうか。
本当にこの場を去って、後悔はしないだろうか。
弱い自分が顔を出して、またひとつ、罪が深くなる。



