「びっくりするくらい平和だね」
珠名屋の二階、とある廊下。
もうかれこれ一時間は二階を彷徨っている。
壁に背を預けて座り込む終夜は、退屈そうな口調で呟いた。
「これのどこが平和なんだよ」
湾曲した木の板が人体のあばら骨のように壁から伸び、半円形を作っている。
その頑丈な湾曲した三本の木と壁との隙間に挟まれた暮相が、苛立ちを抑えた様子で終夜に言う。
「くっそ!! しばらく仕掛けなかったから油断した……!! どうだ、旭。外れそうか」
「めっちゃ固いぞ、コレ……!!」
旭は暮相を助けようと奮闘している。
壁の隙間から伸びた木を取り外そうと躍起になり、壁に片足を乗せて引き抜こうと全体重をかけているが、暮相の身体にほんの少しの隙間を残して湾曲している木はびくともしない。
「ぼーっと見てないで助けろよ!!」
「さっき助けたよ」
必死の形相で助け出そうとする旭の横で暮相がわめく。
「少しは旭を見習えよ!! お前さあ! 本っ当に昔から連携って言葉を知らねーよな!」
「つくづく〝連携〟って言うのは、同じレベル同士の人間じゃないと成立しないんだなって思うよね」
終夜はそう言うと、退屈しのぎに廊下の向こう側に目をやった。
暮相はいらだった様子を見せたが、ここで感情を出しては負けだと思ったのか、ほとんど無理矢理感情を沈めたように息を吐いて、それから終夜を見た。
「お前さー、終夜。こんなことしてる間にも明依が危険にさらされているんじゃないか、とか思わない訳? 早く俺が駆けつけて守ってやらなきゃとか思わない訳ー?」
暮相の挑発にも終夜は焦りを見せない。そして短気な暮相がまた暴れ出した。
「お前は本当に冷たいヤツだな、終夜!! 女が死にかけてるっていうのによー」
旭は「やり辛いから暴れんなよ!」と暮相に言うが、彼はお構いなしに身体を動かし続けていた。
「どれだけ急いだって、結局帳尻を合わせられるだけだよ」
「はあ?」
「一階で階段を見つけるまで、俺達は秒速約2mで歩いていた。そこで一度邪魔が入って、タンスを調べて二階に上がるまでに10分。暮相兄さんを助けて二階に上がって三人で廊下を歩き始めるまでに大体5分。そこから約一時間。仕掛けられたトラップが発動したのは階段を合わせて5回。遊女に遭遇した回数は12回。秒速1.7mから2mで歩いた時には高頻度で遊女にも遭遇するしトラップも発動する。だけど秒速1.4mから1.6mの間なら、遊女に遭遇する数もトラップが発動する数も半分まで落ちる。秒速1.2mまで速度を落とせば、トラップのみ発動しない。アンタらがわーわーわめいて時間を食ったりトラップなんかを調べながら動いて、時速換算でそれ以下になったらトラップは発動しないし遊女にも遭遇しない」
終夜はそう言うと頭頂部を壁に預けるようにして天井を見上げた。
「ここは地獄大夫の領域。向こうの三人と合流する時間の帳尻合わせをしているんだよ。俺達に地の利はない。六人で地獄大夫の部屋の前にたどり着くことを前提にしている。だから急げば急ぐ分だけこうやって時間を取られるし、困難を乗り越えた印象ばかりが俺の中で強くなって、アンタらと離れたくなくなるように出来てる」
〝アンタらと離れたくなくなる〟
そんな言葉を終夜から聞くとは思っていなかったのか、それとも終夜の計算尽くしの行動に唖然としているのか、二人は終夜をただ驚いた表情で見つめていた。
「焦ったって仕方ないんだよ。それにむこうには宵がいる」
終夜はぼそりという。何の気もない様子で。
それに暮相と旭は顔を見合わせた。
自分が死んだことで生きている者に背負わせてしまった重い荷物に、申し訳ない気持ちを感じているのだろうか。
「終夜……。お前って意外と宵の事信用してるんだな」
「な! 意外とな!」
暮相と旭はそう言うと調子付いたのか、暗い雰囲気をかき消すように笑顔を作った。
「まあ? 明依が宵に惚れる可能性もありありだけどなー」
「あ、やっぱ暮相兄さんも思った? だよな! そう思うよな。まあそうなったらなったで祝ってやろうぜ。結婚の適性は終夜より宵兄さんの方があるからな」
「つまり、俺ナイスってことだな」
終夜は何の気もない様子でふらりと立ち上がると、暮相の前に立った。
「おお、なんだ。助けてくれる気になったか」
「まあね。大切な兄さんだし」
終夜はそう言うと身を屈めて暮相を囲うようにしている木を眺めた。暮相は「大切な兄さん……」と呟いて少し照れている。
「何してんだ」
「木を見てる」
「……それは分かるけどさ」
旭の問いかけに、終夜は一言で答える。それから終夜は木に触れた。
「何してんだ」
「木に触ってる」
「……それは分かるけどさ」
先ほどとほとんど同じ会話。しかし旭は慣れた様子で邪魔にならないように終夜の行動を見ていた。
「これは外れないね。ひずまないって事は遊びがないって事だ。相当頑丈に作ってあるから、壊すしかないね」
「壊すって、どうやって?」
「こうやって」
終夜はそう言うと、木がカーブを描いている真ん中の部分を、手のひらで思いきり抑えつけて叩き割った。
勢い余った終夜の手は暮相の腹に深く沈む。
「ぐえっ!!!!」
カエルがつぶれるような声を出した暮相は「終夜……テメェ……」と唸っている。
しかし終夜は間髪入れずに残り二本の木も同じように叩き割った。
暮相はばたりと床に倒れ込むと、ダンゴムシの様に丸まり、痛みに耐えながら小刻みに震えた。
「……わざとだろ」
「助けて貰っといて文句言わないでよ」
終夜はそう言うと、さっさと先を歩き始める。
旭は暮相に声をかける事も忘れて、いつの間にか地雷だらけになった終夜の性格におびえていた。
「……本当に誰に似たんだか」
暮相は終夜の背中を見ながら呟いた。
「やっぱダメな人間の側にはまともな人間がつくって本当なんだな」
暮相を見てそれから終夜の背中を見た旭が言う。
「お前それ、自分の事言ってんのか?」
「ちげーよ。……俺は確かにしっかりはしてないけどさ、暮相兄さんよりは終夜に迷惑かけてな、」
旭がそう言った直後、足元にピンと張ってあるピアノ線が形を変えた。
「あ」
旭と暮相の声に、終夜は振り返る。旭が顔面を床に強打した途端、ガコンと何かがはまり込んだ音がする。
「このペースで歩いてたらトラップは無いんじゃなかったのかよ!!」
旭は床に這いつくばりながら顔だけを上げて終夜に抗議したが、肝心の終夜は天井を見上げていた。
「上」
「……上?」
終夜の言葉を繰り返して旭が天井を見ると、そこには今にも落下しそうな無数の包丁。
旭は顔を真っ青にして、身を固くしてから素早い動きで寝返りを打つように動く。
包丁はストンと綺麗な音を立てて床に深く刺さっていく。
旭は壁と天井の端まで避けたが、最後の一本が旭の後頭部を目掛けて真っ逆さまに落ちてきた。
終夜が放った弾丸が、包丁をはじいて軌道を変えた。軌道を変えた最後の一本の包丁が、床に深く刺さって動きを止めた。
「しっ、死ぬかと思った……」
「終夜いなかったら死んでたな。ま、今の人生はボーナスタイムだしな」
旭は顔を真っ青にして起き上がって、自らの心臓に手を当てて音を聞いていた。
「もういい加減にしてよ」
呆れた声で言う終夜をよそに、暮相は旭に手を貸して起き上がらせた。
「で? だーれが俺より終夜に迷惑かけてないってー?」
暮相はニヤニヤしながら旭を茶化す。
「いや。俺は基本迷惑かけてないはずだ。な、終夜」
「迷惑だよ」
終夜にはっきりと言われた旭は落ち込んだ様子を見せる。それを見て暮相が笑っていた。
終夜は小さな溜息を洩らすと同時に、小さな笑みを浮かべる。しかしそれからふと表情を消した。
「おい終夜! これ、階段じゃねーのか!」
終夜は我に返って、旭の声がした方向を向く。
階段は先ほどと同じように壁に沿って三階に続いていた。
「なんだ。意外とあっさりだったな」
「一番トラップに引っかかったアンタが言うなよ」
暮相に呆れた様子を見せた旭が気合を入れるように息を吐いて階段を見据えた。
「よし! 次は終夜に代わって俺が調べて、」
「いいってお前は!! いいか、よく聞け旭」
「……なんだよ」
「人間には適正ってものがあんだよ。俺らはダメだ。絶対に見逃す。二人で終夜に頼もう」
暮相はそう言うと終夜の方を向いて階段を指さした。
「よし、行け終夜。お前だけが頼りだ」
「それが人にものを頼む態度かよ」
二人の騒ぎの外側で、終夜は寂しそうに小さな笑顔を浮かべていた。
珠名屋の二階、とある廊下。
もうかれこれ一時間は二階を彷徨っている。
壁に背を預けて座り込む終夜は、退屈そうな口調で呟いた。
「これのどこが平和なんだよ」
湾曲した木の板が人体のあばら骨のように壁から伸び、半円形を作っている。
その頑丈な湾曲した三本の木と壁との隙間に挟まれた暮相が、苛立ちを抑えた様子で終夜に言う。
「くっそ!! しばらく仕掛けなかったから油断した……!! どうだ、旭。外れそうか」
「めっちゃ固いぞ、コレ……!!」
旭は暮相を助けようと奮闘している。
壁の隙間から伸びた木を取り外そうと躍起になり、壁に片足を乗せて引き抜こうと全体重をかけているが、暮相の身体にほんの少しの隙間を残して湾曲している木はびくともしない。
「ぼーっと見てないで助けろよ!!」
「さっき助けたよ」
必死の形相で助け出そうとする旭の横で暮相がわめく。
「少しは旭を見習えよ!! お前さあ! 本っ当に昔から連携って言葉を知らねーよな!」
「つくづく〝連携〟って言うのは、同じレベル同士の人間じゃないと成立しないんだなって思うよね」
終夜はそう言うと、退屈しのぎに廊下の向こう側に目をやった。
暮相はいらだった様子を見せたが、ここで感情を出しては負けだと思ったのか、ほとんど無理矢理感情を沈めたように息を吐いて、それから終夜を見た。
「お前さー、終夜。こんなことしてる間にも明依が危険にさらされているんじゃないか、とか思わない訳? 早く俺が駆けつけて守ってやらなきゃとか思わない訳ー?」
暮相の挑発にも終夜は焦りを見せない。そして短気な暮相がまた暴れ出した。
「お前は本当に冷たいヤツだな、終夜!! 女が死にかけてるっていうのによー」
旭は「やり辛いから暴れんなよ!」と暮相に言うが、彼はお構いなしに身体を動かし続けていた。
「どれだけ急いだって、結局帳尻を合わせられるだけだよ」
「はあ?」
「一階で階段を見つけるまで、俺達は秒速約2mで歩いていた。そこで一度邪魔が入って、タンスを調べて二階に上がるまでに10分。暮相兄さんを助けて二階に上がって三人で廊下を歩き始めるまでに大体5分。そこから約一時間。仕掛けられたトラップが発動したのは階段を合わせて5回。遊女に遭遇した回数は12回。秒速1.7mから2mで歩いた時には高頻度で遊女にも遭遇するしトラップも発動する。だけど秒速1.4mから1.6mの間なら、遊女に遭遇する数もトラップが発動する数も半分まで落ちる。秒速1.2mまで速度を落とせば、トラップのみ発動しない。アンタらがわーわーわめいて時間を食ったりトラップなんかを調べながら動いて、時速換算でそれ以下になったらトラップは発動しないし遊女にも遭遇しない」
終夜はそう言うと頭頂部を壁に預けるようにして天井を見上げた。
「ここは地獄大夫の領域。向こうの三人と合流する時間の帳尻合わせをしているんだよ。俺達に地の利はない。六人で地獄大夫の部屋の前にたどり着くことを前提にしている。だから急げば急ぐ分だけこうやって時間を取られるし、困難を乗り越えた印象ばかりが俺の中で強くなって、アンタらと離れたくなくなるように出来てる」
〝アンタらと離れたくなくなる〟
そんな言葉を終夜から聞くとは思っていなかったのか、それとも終夜の計算尽くしの行動に唖然としているのか、二人は終夜をただ驚いた表情で見つめていた。
「焦ったって仕方ないんだよ。それにむこうには宵がいる」
終夜はぼそりという。何の気もない様子で。
それに暮相と旭は顔を見合わせた。
自分が死んだことで生きている者に背負わせてしまった重い荷物に、申し訳ない気持ちを感じているのだろうか。
「終夜……。お前って意外と宵の事信用してるんだな」
「な! 意外とな!」
暮相と旭はそう言うと調子付いたのか、暗い雰囲気をかき消すように笑顔を作った。
「まあ? 明依が宵に惚れる可能性もありありだけどなー」
「あ、やっぱ暮相兄さんも思った? だよな! そう思うよな。まあそうなったらなったで祝ってやろうぜ。結婚の適性は終夜より宵兄さんの方があるからな」
「つまり、俺ナイスってことだな」
終夜は何の気もない様子でふらりと立ち上がると、暮相の前に立った。
「おお、なんだ。助けてくれる気になったか」
「まあね。大切な兄さんだし」
終夜はそう言うと身を屈めて暮相を囲うようにしている木を眺めた。暮相は「大切な兄さん……」と呟いて少し照れている。
「何してんだ」
「木を見てる」
「……それは分かるけどさ」
旭の問いかけに、終夜は一言で答える。それから終夜は木に触れた。
「何してんだ」
「木に触ってる」
「……それは分かるけどさ」
先ほどとほとんど同じ会話。しかし旭は慣れた様子で邪魔にならないように終夜の行動を見ていた。
「これは外れないね。ひずまないって事は遊びがないって事だ。相当頑丈に作ってあるから、壊すしかないね」
「壊すって、どうやって?」
「こうやって」
終夜はそう言うと、木がカーブを描いている真ん中の部分を、手のひらで思いきり抑えつけて叩き割った。
勢い余った終夜の手は暮相の腹に深く沈む。
「ぐえっ!!!!」
カエルがつぶれるような声を出した暮相は「終夜……テメェ……」と唸っている。
しかし終夜は間髪入れずに残り二本の木も同じように叩き割った。
暮相はばたりと床に倒れ込むと、ダンゴムシの様に丸まり、痛みに耐えながら小刻みに震えた。
「……わざとだろ」
「助けて貰っといて文句言わないでよ」
終夜はそう言うと、さっさと先を歩き始める。
旭は暮相に声をかける事も忘れて、いつの間にか地雷だらけになった終夜の性格におびえていた。
「……本当に誰に似たんだか」
暮相は終夜の背中を見ながら呟いた。
「やっぱダメな人間の側にはまともな人間がつくって本当なんだな」
暮相を見てそれから終夜の背中を見た旭が言う。
「お前それ、自分の事言ってんのか?」
「ちげーよ。……俺は確かにしっかりはしてないけどさ、暮相兄さんよりは終夜に迷惑かけてな、」
旭がそう言った直後、足元にピンと張ってあるピアノ線が形を変えた。
「あ」
旭と暮相の声に、終夜は振り返る。旭が顔面を床に強打した途端、ガコンと何かがはまり込んだ音がする。
「このペースで歩いてたらトラップは無いんじゃなかったのかよ!!」
旭は床に這いつくばりながら顔だけを上げて終夜に抗議したが、肝心の終夜は天井を見上げていた。
「上」
「……上?」
終夜の言葉を繰り返して旭が天井を見ると、そこには今にも落下しそうな無数の包丁。
旭は顔を真っ青にして、身を固くしてから素早い動きで寝返りを打つように動く。
包丁はストンと綺麗な音を立てて床に深く刺さっていく。
旭は壁と天井の端まで避けたが、最後の一本が旭の後頭部を目掛けて真っ逆さまに落ちてきた。
終夜が放った弾丸が、包丁をはじいて軌道を変えた。軌道を変えた最後の一本の包丁が、床に深く刺さって動きを止めた。
「しっ、死ぬかと思った……」
「終夜いなかったら死んでたな。ま、今の人生はボーナスタイムだしな」
旭は顔を真っ青にして起き上がって、自らの心臓に手を当てて音を聞いていた。
「もういい加減にしてよ」
呆れた声で言う終夜をよそに、暮相は旭に手を貸して起き上がらせた。
「で? だーれが俺より終夜に迷惑かけてないってー?」
暮相はニヤニヤしながら旭を茶化す。
「いや。俺は基本迷惑かけてないはずだ。な、終夜」
「迷惑だよ」
終夜にはっきりと言われた旭は落ち込んだ様子を見せる。それを見て暮相が笑っていた。
終夜は小さな溜息を洩らすと同時に、小さな笑みを浮かべる。しかしそれからふと表情を消した。
「おい終夜! これ、階段じゃねーのか!」
終夜は我に返って、旭の声がした方向を向く。
階段は先ほどと同じように壁に沿って三階に続いていた。
「なんだ。意外とあっさりだったな」
「一番トラップに引っかかったアンタが言うなよ」
暮相に呆れた様子を見せた旭が気合を入れるように息を吐いて階段を見据えた。
「よし! 次は終夜に代わって俺が調べて、」
「いいってお前は!! いいか、よく聞け旭」
「……なんだよ」
「人間には適正ってものがあんだよ。俺らはダメだ。絶対に見逃す。二人で終夜に頼もう」
暮相はそう言うと終夜の方を向いて階段を指さした。
「よし、行け終夜。お前だけが頼りだ」
「それが人にものを頼む態度かよ」
二人の騒ぎの外側で、終夜は寂しそうに小さな笑顔を浮かべていた。



