「明依、大丈夫か?」
宵の言葉で明依は我に返った。
日奈に問われた〝幸せ〟について夢中になって考えていたらしい。考えていたとは言っても、結論が出たわけではなく、ぼんやりとしていただけと言われればそうなのかもしれない。
毒のせいかこの妓楼のせいか。
何にしてもいつも通りの調子ではないのは確かだった。
「明依、気分が悪いの……?」
日奈の切羽詰まった声に驚いて、明依は日奈を見た。
「ごめん、明依。私、全然気づかなくて……」
恐怖に染まった顔の日奈と目が合って、明依はとっさに首を振った。
「違うよ、日奈。気分が悪いんじゃない。少しぼーっとしていただけ」
明依がそう言うと日奈は疑いの目を向けたが、明依が笑顔を作ったことで信じたのかほっと息を抜いた。
「よかった……。また明依の体調が悪くなったのかと思った」
胸を撫でおろす日奈に、明依もゆっくりと肩の力を抜いた。
宵は二人の様子を見て思う所があるようだったが、気を取り直した様子で口を開く。
「この辺りを見てきた。すぐそこに階段があったよ。だけど、多分罠だと思うんだ」
「罠って……もしかして地獄大夫は、私たちを三階に来させるために……」
「そうだと思う。さっきも言ったみたいに、吊り橋効果を狙っているんだろう。仲間意識を高めて、明依にここに居たいと思わせるのが目的だ。地獄大夫に鉢合わせる可能性が高いと思っておいた方がいい。だから明依、改めてしっかりね」
「うん。わかった」
明依が頷いたことを確認すると、宵は日奈に視線を向けた。
日奈もこくりと大きく頷く。
「これから先に進むけど、なるべく目立たないように移動する。だけど地獄大夫は俺達が三階に行くまでの道順を把握していると思っておいた方がいい」
「わかった。とにかく今は終夜達と合流するしかないんだね」
それならもう先に進むしかない。
やることは決まった。後は進むだけだ。
言葉に出して気持ちを整理しただけの明依だったが、宵は嬉しそうに笑っていた。
どうしたんだろう、と思った明依の疑問は宵の言葉にかき消された。
「そういう事だ。行こう」
出入り口に向かって調理場を歩きながら、明依はあたりを眺めた。
調理道具や火が使われた痕跡はない。だからか、閉ざされた調理場なのに空気がからりと乾いている。
調理場から見た出入り口は木の引き戸になっていた。
廊下側の襖とは違う。どうやら表と裏で見た目が変わっているらしい。
明依は木の戸に触れてみたが、やはり触りなれた木の感覚だ。明依はあの茨の棘に触れた感覚を思い出し、もう何が現実に目に見えているもので何が幻覚なのかもよくわからなくなっていた。
先に調理場を出た宵が辺りを見回す。宵が黙って振り向き頷いたことを合図に、二人は調理場を出て宵の後ろを歩いた。
大見世の妓楼というのは同じなのに、様子が全く違う。
満月屋は観光客に見せつけるような〝日本〟〝妓楼〟という印象の強い様子をしているからだろうか。
珠名屋はとにかく、広くて何もない。しかしそこはかとない日本独特の美的感覚〝侘び寂び〟がある。
壁に沿うように作られた階段タンス。木の濃い色合いを残しつつ表面に光沢を出す漆塗が、心もとない光を反射する。
太陽の光さえ入っていれば、満月屋とは随分違う、という楽しむ感覚を持って見る事が出来ただろう。
現状では、ただ不気味だ。不気味な中での極度の緊張の状態。それは頭がおかしくなりそうな緊張感だった。
今の明依には、宵がいる事が本当に心強かった。彼がいるなら何かあってもきっと大丈夫だろうと思える。
一人でいる時に遊女が襲ってきたら、殺されるしかないだろう。完全に宵が頼りだ。
また、戦えない人間が自分だけではなく日奈もいるという状態が、自分の無力さを半減して安心する材料にもなっていることに、明依は気付いていた。
この感情すら、地獄大夫は意図して作っているのだろうか。それくらいの事は出来ると思っておいた方がいいだろう。意図して作っているくらいは思っておいた方がいい。そうしないと、すぐに思い出に呑まれてしまうから。
明依は頭の中だけに終夜の顔を思い浮かべた。
終夜はもう二階にたどり着いただろうか。彼は今、どんな気持ちでいるのだろう。思い出に呑まれそうになってはいないだろうか。
階段を上がり切ると、突き当りには壁。
そしてまた、一階と何一つ変わらない廊下。同じところをぐるぐる回っているような錯覚に陥る。きっと日奈と宵も同じことを思っているだろう。しかし緊張感を解かないように、誰も、何も言わない。
「行こう」
宵の言葉に明依と日奈は頷き、宵の後ろを歩く。
ふいに隣の襖が開き、遊女が二人、姿を現した。
宵が四発、遊女の足に銃を撃つ。
遊女は立ち上がることが出来ずに、まるでそういう人形かのように、使えない両足を地面につけて立ち上がろうとする動きを何度も何度も繰り返していた。
驚くのが遅かったのかと思うくらい、短い時間の話。
「人が死ぬところを見るのは明依と日奈にとっては精神的な負担が大きい。だからなるべく避けようとは思ってる」
宵は放心状態の明依と日奈をよそに、冷静な様子で口を開く。
「だけど切羽詰まった時にも人を殺さないとは断言できない。だから敵が襲ってきたら、なるべくそっちを見ないようにしておいて。わかったね」
宵の言葉を聞いた日奈は、ゆっくりと呼吸を繰り返して落ち着き、それから「わかった」と呟いた。
宵の余裕と優しさを感じる。
手段を選ばなければ三階まで連れて行ってくれるのだろうという安心感。それに、戦えない人間に対する気遣いに、強者だからこそできる敵に対する慈悲。
最低限の音を立てて隣の襖からすっと現れた大鎌の刃が、日奈の身体を裂こうとしていた。
焦りだった。
日奈が死んでしまうという、焦り。
「日奈……!!」
明依はとっさに日奈を押しのけるように手を伸ばした。
至極、自己中心的なもの。
もう人を失う痛みを感じるのは嫌だという、どこまでも自分中心の。
刃が明依の腕を真っ二つにしようという瞬間。宵は襖を強く蹴った。
その拍子に襖が外れ、大鎌の刃は明依から離れて行く。
ガタガタと動く襖を足で抑えつけた宵は、数発の銃弾を放った。
襖は動きを止めて、血液を吸い上げる。ジワリと染め上げられた血は、ゆっくりと広がっていった。
盗み見た宵の顔は、無機質。
明依はそれを、まるで終夜のようだと思った。
「ダメだよ、明依」
真剣な口調で言う日奈は、怒っているような悲しそうな顔で明依を見ていた。
「私を庇ったら意味ないよ。明依がこの妓楼から出ないといけないんだから」
わかっている。そのためにみんなが協力しようとしてくれている事はわかっている。
だけどそれは明依にとって、日奈を庇わない理由にはならない。
「……日奈が死んだとき、私すごく後悔した。本当に、寂しかったの」
もう死なないでほしい、あんな思いはしたくないから。
だからといって庇うなんて、本末転倒だ。あんな形で庇われた日奈は、きっと後悔するだろう。
お互いにお互いを守りたい気持ちは同じだ。
最初からそうだった。
日奈が生きていた時から今も、それは何一つ変わっていない。
「大丈夫」
宵は二人の様子を見てから、穏やかな口調で言って明依と日奈の頭に手を乗せた。
「俺がちゃんと、二人を守るよ」
胸の中に、ジワリと広がる感覚。
身をゆだねると泣いてしまいそうになる感覚だ。
例えば、死んだ人間が生きているはずがないという常識とかそんなものを全部、手放すことが出来たら。
抵抗する間もなくすべてを奪われて、珠名屋の中で決められた範囲で決められたことだけしていればいいのなら、それはきっと幸福だと思う。
心がひどく、反発している。
宵に気をしっかり持つようにと言われているのに。
立っていられなくなるほどの目のくらみ。気付いたのはおそらく本人の明依よりも宵が先だった。
先ほどよりも明らかな体調不良を明依が察した時にはもう、宵に身体を支えられている所だった。
「少し休もう」
「私は大丈夫」
「身体に負担をかけるのはよくない。毒の回りが早くなる」
「宵兄さん。明依をこっちに」
日奈は座敷を開けて敵がいない事を確認してから振り返る。
中に敵がいたらどうするの。死んでしまうかもしれないのに。
生命活動に集中して大して余白の残っていない頭で、日奈の事を考える。
やっぱり日奈の事が大切で、それから大好きだと自覚する。
こんな大切な時に役に立たない自分の身体が、本当に憎い。
宵の言葉で明依は我に返った。
日奈に問われた〝幸せ〟について夢中になって考えていたらしい。考えていたとは言っても、結論が出たわけではなく、ぼんやりとしていただけと言われればそうなのかもしれない。
毒のせいかこの妓楼のせいか。
何にしてもいつも通りの調子ではないのは確かだった。
「明依、気分が悪いの……?」
日奈の切羽詰まった声に驚いて、明依は日奈を見た。
「ごめん、明依。私、全然気づかなくて……」
恐怖に染まった顔の日奈と目が合って、明依はとっさに首を振った。
「違うよ、日奈。気分が悪いんじゃない。少しぼーっとしていただけ」
明依がそう言うと日奈は疑いの目を向けたが、明依が笑顔を作ったことで信じたのかほっと息を抜いた。
「よかった……。また明依の体調が悪くなったのかと思った」
胸を撫でおろす日奈に、明依もゆっくりと肩の力を抜いた。
宵は二人の様子を見て思う所があるようだったが、気を取り直した様子で口を開く。
「この辺りを見てきた。すぐそこに階段があったよ。だけど、多分罠だと思うんだ」
「罠って……もしかして地獄大夫は、私たちを三階に来させるために……」
「そうだと思う。さっきも言ったみたいに、吊り橋効果を狙っているんだろう。仲間意識を高めて、明依にここに居たいと思わせるのが目的だ。地獄大夫に鉢合わせる可能性が高いと思っておいた方がいい。だから明依、改めてしっかりね」
「うん。わかった」
明依が頷いたことを確認すると、宵は日奈に視線を向けた。
日奈もこくりと大きく頷く。
「これから先に進むけど、なるべく目立たないように移動する。だけど地獄大夫は俺達が三階に行くまでの道順を把握していると思っておいた方がいい」
「わかった。とにかく今は終夜達と合流するしかないんだね」
それならもう先に進むしかない。
やることは決まった。後は進むだけだ。
言葉に出して気持ちを整理しただけの明依だったが、宵は嬉しそうに笑っていた。
どうしたんだろう、と思った明依の疑問は宵の言葉にかき消された。
「そういう事だ。行こう」
出入り口に向かって調理場を歩きながら、明依はあたりを眺めた。
調理道具や火が使われた痕跡はない。だからか、閉ざされた調理場なのに空気がからりと乾いている。
調理場から見た出入り口は木の引き戸になっていた。
廊下側の襖とは違う。どうやら表と裏で見た目が変わっているらしい。
明依は木の戸に触れてみたが、やはり触りなれた木の感覚だ。明依はあの茨の棘に触れた感覚を思い出し、もう何が現実に目に見えているもので何が幻覚なのかもよくわからなくなっていた。
先に調理場を出た宵が辺りを見回す。宵が黙って振り向き頷いたことを合図に、二人は調理場を出て宵の後ろを歩いた。
大見世の妓楼というのは同じなのに、様子が全く違う。
満月屋は観光客に見せつけるような〝日本〟〝妓楼〟という印象の強い様子をしているからだろうか。
珠名屋はとにかく、広くて何もない。しかしそこはかとない日本独特の美的感覚〝侘び寂び〟がある。
壁に沿うように作られた階段タンス。木の濃い色合いを残しつつ表面に光沢を出す漆塗が、心もとない光を反射する。
太陽の光さえ入っていれば、満月屋とは随分違う、という楽しむ感覚を持って見る事が出来ただろう。
現状では、ただ不気味だ。不気味な中での極度の緊張の状態。それは頭がおかしくなりそうな緊張感だった。
今の明依には、宵がいる事が本当に心強かった。彼がいるなら何かあってもきっと大丈夫だろうと思える。
一人でいる時に遊女が襲ってきたら、殺されるしかないだろう。完全に宵が頼りだ。
また、戦えない人間が自分だけではなく日奈もいるという状態が、自分の無力さを半減して安心する材料にもなっていることに、明依は気付いていた。
この感情すら、地獄大夫は意図して作っているのだろうか。それくらいの事は出来ると思っておいた方がいいだろう。意図して作っているくらいは思っておいた方がいい。そうしないと、すぐに思い出に呑まれてしまうから。
明依は頭の中だけに終夜の顔を思い浮かべた。
終夜はもう二階にたどり着いただろうか。彼は今、どんな気持ちでいるのだろう。思い出に呑まれそうになってはいないだろうか。
階段を上がり切ると、突き当りには壁。
そしてまた、一階と何一つ変わらない廊下。同じところをぐるぐる回っているような錯覚に陥る。きっと日奈と宵も同じことを思っているだろう。しかし緊張感を解かないように、誰も、何も言わない。
「行こう」
宵の言葉に明依と日奈は頷き、宵の後ろを歩く。
ふいに隣の襖が開き、遊女が二人、姿を現した。
宵が四発、遊女の足に銃を撃つ。
遊女は立ち上がることが出来ずに、まるでそういう人形かのように、使えない両足を地面につけて立ち上がろうとする動きを何度も何度も繰り返していた。
驚くのが遅かったのかと思うくらい、短い時間の話。
「人が死ぬところを見るのは明依と日奈にとっては精神的な負担が大きい。だからなるべく避けようとは思ってる」
宵は放心状態の明依と日奈をよそに、冷静な様子で口を開く。
「だけど切羽詰まった時にも人を殺さないとは断言できない。だから敵が襲ってきたら、なるべくそっちを見ないようにしておいて。わかったね」
宵の言葉を聞いた日奈は、ゆっくりと呼吸を繰り返して落ち着き、それから「わかった」と呟いた。
宵の余裕と優しさを感じる。
手段を選ばなければ三階まで連れて行ってくれるのだろうという安心感。それに、戦えない人間に対する気遣いに、強者だからこそできる敵に対する慈悲。
最低限の音を立てて隣の襖からすっと現れた大鎌の刃が、日奈の身体を裂こうとしていた。
焦りだった。
日奈が死んでしまうという、焦り。
「日奈……!!」
明依はとっさに日奈を押しのけるように手を伸ばした。
至極、自己中心的なもの。
もう人を失う痛みを感じるのは嫌だという、どこまでも自分中心の。
刃が明依の腕を真っ二つにしようという瞬間。宵は襖を強く蹴った。
その拍子に襖が外れ、大鎌の刃は明依から離れて行く。
ガタガタと動く襖を足で抑えつけた宵は、数発の銃弾を放った。
襖は動きを止めて、血液を吸い上げる。ジワリと染め上げられた血は、ゆっくりと広がっていった。
盗み見た宵の顔は、無機質。
明依はそれを、まるで終夜のようだと思った。
「ダメだよ、明依」
真剣な口調で言う日奈は、怒っているような悲しそうな顔で明依を見ていた。
「私を庇ったら意味ないよ。明依がこの妓楼から出ないといけないんだから」
わかっている。そのためにみんなが協力しようとしてくれている事はわかっている。
だけどそれは明依にとって、日奈を庇わない理由にはならない。
「……日奈が死んだとき、私すごく後悔した。本当に、寂しかったの」
もう死なないでほしい、あんな思いはしたくないから。
だからといって庇うなんて、本末転倒だ。あんな形で庇われた日奈は、きっと後悔するだろう。
お互いにお互いを守りたい気持ちは同じだ。
最初からそうだった。
日奈が生きていた時から今も、それは何一つ変わっていない。
「大丈夫」
宵は二人の様子を見てから、穏やかな口調で言って明依と日奈の頭に手を乗せた。
「俺がちゃんと、二人を守るよ」
胸の中に、ジワリと広がる感覚。
身をゆだねると泣いてしまいそうになる感覚だ。
例えば、死んだ人間が生きているはずがないという常識とかそんなものを全部、手放すことが出来たら。
抵抗する間もなくすべてを奪われて、珠名屋の中で決められた範囲で決められたことだけしていればいいのなら、それはきっと幸福だと思う。
心がひどく、反発している。
宵に気をしっかり持つようにと言われているのに。
立っていられなくなるほどの目のくらみ。気付いたのはおそらく本人の明依よりも宵が先だった。
先ほどよりも明らかな体調不良を明依が察した時にはもう、宵に身体を支えられている所だった。
「少し休もう」
「私は大丈夫」
「身体に負担をかけるのはよくない。毒の回りが早くなる」
「宵兄さん。明依をこっちに」
日奈は座敷を開けて敵がいない事を確認してから振り返る。
中に敵がいたらどうするの。死んでしまうかもしれないのに。
生命活動に集中して大して余白の残っていない頭で、日奈の事を考える。
やっぱり日奈の事が大切で、それから大好きだと自覚する。
こんな大切な時に役に立たない自分の身体が、本当に憎い。



