造花街・吉原の陰謀-百鬼夜行-

「終夜が役立たずで悪いな、明依。俺の不始末だ」
「……役立たず」

 終夜はぼそりとそう呟くと、すっと立ち上がってしゃがみ込む暮相の顔面を足蹴にして、暮相を明依から引き離した。

「いった!!!」

 暮相は思い切り後ろに転がり、後頭部を強めに畳に打ち付けて悶えていた。

「暮相兄さんが終夜にやられた!!」

 足元に転がってきた暮相をよけながら、旭は言う。

「終夜てめェ!!」
「黙ってろ、疫病神」
「ああ!! 兄貴に向かって!! お前、俺と酒飲んだろーが!」

 まるで日常の延長のように思えるのは、暮相の人柄なのか。

 しかし明依の中では、宵は宵として存在していて、暮相は暮相として、終夜や旭に関わった過去の人として存在している。

 〝暮相〟という存在が親を殺し、明依を吉原に誘い込み、この街に閉じ込めようとした。
 しかしそれを実行したのは〝宵〟で。しかし、〝宵〟という存在は満月屋での素敵な思い出の印象が強すぎる。それとも暮相を直接見る事がなかったから、印象が紐づかないだけなのだろうか。

 終夜は明依へ向き直った。

「ねえ、終夜。……私、宵兄さんにも暮相さんにも嫌だとか、憎いとか、何も感じないの」
「本人じゃないからね」

 みんなが騒がしさに気をやっているうちに、終夜にだけ聞こえる声で言う明依に、終夜は冷静に返事をする。それから明依に手を差し出した。明依は当然のように終夜の手を握ろうとして、やめた。

 日奈がすぐ近くにいるから。

「大丈夫。一人で立てるから。リハビリしとかないと、今の内に」

 明依はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。
 そのやり取りを見ていた暮相はにやりと笑った。

「断られてやんのー。ほらな? お前、顔だけに頼ってると痛い目見るって教えてやったろーが。なー旭、俺昔っからそういってるよなー?」
「おー。そういえば言ってたような……?」

 おそらくよく分かってない旭が暮相の言葉に返事をする。

 終夜は怒りすら通り越したのか、ゆっくりとため息を吐き出して天井を見上げた。

「なに、この無駄に高いクオリティ……。ウザい……」

 うつむいた終夜は不快気に顔をしかめて、それから小さな小さな笑顔を作った。

 やっぱり、終夜もそうだ。
 地獄大夫は終夜が憎しみを抱かないように調整して、暮相と宵を造り分けているのだろうか。現に明依も恨むとしたらどちらか、という考えの答えは出そうにない。

 暮相という人間は、終夜と旭が幼少期に関わったころのまま。
 宵は明依や日奈と満月屋で過ごした時のまま、ここに存在している。

 自分と終夜の心理を理解して造っているのなら、地獄大夫は天才だと思った。

 本当に残酷だ。
 必ず、別れは来てしまうんだから。

「気ィしっかり持ってろよ。終夜」
「なにが?」
「俺と宵を分けて造ったのは、お前をこの理想郷に縛り付けるためだ」

 暮相はまるで他人事のように言うが、暮相の言葉には終夜を心配する気持ちが含まれていた。

「わかってるよ」

 また訪れた目のくらみに、目を閉じる。
 今回はそんなに強いものじゃないという実感があった。

 きっと、身体に悪いものが入っている。自分の事は自分が一番よく分かっているというのはこの感覚の事を言うのだろう。

「……明依」
「大丈夫」

 日奈は心配そうに明依の肩に手を当てた。声色だけで泣きそうになっているのが分かる。

 ずっとこの世界にいられたらいいのに。そう思う事は地獄大夫の思うツボというヤツで。わかっているから抵抗しようと試みて見るものの、やっぱりこんなに幸せな世界にいられたらいいのにと思ってしまう。
 正気ではきっと、選択できない。

「絶対、外に出ようね」

 日奈は本当に優しい。
 自分が死ぬかもしれない状況でも、他人の事を思いやる。

 しかし明依は、自分の身体の異変を明確に意識していた。
 明らかに体がおかしい。例えるならそれは、高熱が出ていて熱いはずなのに寒いとか、そんな類のもの。

 明依はゆっくりと目を開けた。
 心配そうにする旭と日奈とは対照的に、冷静な様子の終夜と宵と暮相。

 それを見て、何となく自分の状況を察していた。

「明依」

 自分の体調を察していると思ったから、きっと終夜は口を開いたのだと思う。

「明依の身体の中には今、毒が回ってる」
「おい終夜……!」

 はっきりと言い切る終夜に、宵が焦った様子を見せる。暮相はただ見守るように終夜と明依を見ていた。
 日奈と旭は唖然として、終夜の言葉は真実なのかを探るために、ただ周りの様子をうかがっている。

「できる限り急いで珠名楼を出たいんだ」

 終夜は真っ直ぐに明依を見ている。
 信用されているのだと思った。終夜は心の底から自分を信用してくれている。

 なんて事のない答えだ。
 だって吉原を解放するときも、終夜は信用して吉原を任せようとしてくれた。

 名残惜しい。本当の事を言うなら、ずっとこの妓楼の中にいたい。

 だけどここから出ないといけない。
 生きていないと、終夜を一人ぼっちにさせてしまうから。

「毒って……それなら、解毒薬は星乃が持ってるんじゃないのかよ」

 旭の怒りを堪えた様な、震えた声で言った。

「そうだよ」
「そうだよって……じゃあ、まず先に解毒薬だろ?」

 旭はなんでそんな計画を立てたんだとでも言いたげに口を開く。
 ほら、好きでもない女の為にでも旭は本気で向き合ってくれる。こんな旭に、何度救われたかわからない。

「解毒薬を取りに行っている時間はないよ。それより先に俺と明依がダメになる」
「じゃあ別行動して解毒薬を取りに行く方が、」
「ダメだ。一度地獄大夫に接触して洗脳をかけ直された状態で戻ってくる可能性もある。そうなると、受け取った解毒薬が本物じゃない。判別がつかないものを飲ませるわけにはいかない。一度珠名楼を出て、解毒薬を作る」
「星乃は終夜を自分の所に来させるために明依に毒を盛ったんだろ? それなら、あっさり解毒薬を作れるほど簡単な毒のはずがない。そんな事している間に明依が死んだらどうするんだよ!」
「その時は、残念だけど死んでもらうしかない」

 あっさりとした終夜の言葉を聞いた旭はすっと表情を引っ込めて終夜に近寄ると、力任せに胸ぐらを掴んだ。

「見損なったぜ、終夜」

 旭の声は、怒りを必死に抑えつけている。

「俺は死ぬときに言ったよな? 〝明依を頼む〟って、お前に……」

 旭の怒りはおそらく、絶望に色を変えようとしているのだろう。

「……お前は強いから、誰にも寄り掛からないで生きていけるから、弱い人間の気持ちがわからないかもしれない。けどな、明依はお前みたいに、」
「私は大丈夫」

 明依はしっかりと意思を持った声で言った。

 〝残念だけど死んでもらうしかない〟なんて、本当にイヤな言い方だ。
 言葉足らずだ。〝絶対に助ける〟とか、そんな立派な人間が言いそうなことを言ったらいいのに。

 しかし終夜の言葉は二人にとっては、最大の信頼の証だった。

「終夜の考えでいいよ。解毒薬はいらない。珠名屋の外に出る計画でいい。動けるから」
「お前何言ってんだ……」
「人間はいつか死ぬの。遅いか早いかの違いだけ」

 いつか、終夜が言った言葉を繰り返す。
 こんな気持ちで言っていたなんて、知らなかった。

「だけど、私に〝生きていてほしい〟って思ってくれてありがとう、旭。でも、終夜は本当は〝絶対に助ける〟って言いたいけど恥ずかしくて言えないだけだから、本気にしないで」
「でた。都合のいい解釈」

 終夜はぼそりとささやかな抵抗を見せる。

 必死に生きてきたのだと思った。もし死ぬとして、後悔はするだろう。終夜ともっとちゃんと向き合っておけばよかったと思うだろう。
だけど、過去のどんな形で死んでいるよりも、後悔は少なかったと胸を張って言える。

 そんな人生を送ってきた自分を、ちゃんと誇ることができる。
 人生が終わるかもしれない時にそう思えるのは、幸せだった証拠だ。

 満月屋・黎明大夫。
 満月屋の系譜、〝吉野大夫〟の門戸から分かれて派生した、称号(となえ)

 気が強くてそれなのによく泣いて、誰かに寄り掛かって生きている姿じゃなくて、本当の自分を。
 日奈と旭に、ずっと、こんな姿を見てほしかった。

 だからまぎれもなく今も、幸せ者だ。