造花街・吉原の陰謀-百鬼夜行-

「俺も、日奈と旭も本人じゃない。そう思って関わる方が身のためだよ」

 言われなくてもわかっている。先ほどから自分自身にそう言い聞かせているんだから。

 しかし何度本人じゃないと言い聞かせても、本人以外の可能性なんて少しも感じさせない言動が、本人に決まっていると言い聞かせてくる。

 言動も声も、きっと思考も、全てが宵で。だからきっと日奈と旭もそうで。

 明依はそこまで考えてからはっと我に返った。

 一体いつからか普通に会話をしていただろう。そして思った。今自分の中に生まれている感情は、宵の洗脳ではない。

 自らが望んだこと。宵とこうやって話しがしたかったと自分自身が思っているからなのかもしれない。

「俺達はもう、本当の自分が何一つわからない」

 淡々と言う宵の口調の中には、ぽつりとした寂しさのようなものが混じっていた。

「俺の中には確かに、満月屋で過ごした思い出がある。思い出せる限りの情報が全部他人の物だとは思えないくらい」

 目の前にいるのは紛れもなく宵で。だけど本当は宵じゃない。
宵を宵だと思う何より理由は、彼自身が〝宵〟本人以外の何物でもないと思っているからに他ならないと思った。

 自分を自分だと思うのは当然の事だ。例えばある日、〝お前は明依という人間をコピーして作られたニセモノだ〟と言われたら。
 信じられるはずがない。きっと、信じたくもないだろう。

 それなのに宵は、〝自分は本人じゃない〟と言う。この言葉を口にするには、一体どれだけの覚悟が必要なんだろう。

「行こう」

 思考をさえぎるような宵の言葉に、明依は思わず警戒の色を強めた。
 そうだ。普通に話をしていたが、今の宵は敵だ。
 警戒している様子が伝わったのか。宵は、いまさら? とでも言いたげに笑った。

「違うよ。珠名屋に閉じ込めようとしている訳じゃない。俺と一緒に移動すれば怪しまれないから。今のうちに、入り口に近い所まで行こう」

 本当に宵は敵なのだろうか。
 疑いたくないという心理が働いて、懐かしさに呑まれて、判断が鈍っているのではないだろうか。

 だけど宵は、地獄大夫の目的を教えてくれた。

「終夜は必ず来るよ。だからそれまでは、俺と一緒にいよう」

 きっと宵なら危ない思いをさせないようにと、こういうのだろう。

 これが地獄大夫の造る世界。
 なんて綺麗で、なんて残酷な夢なんだろう。

 これから先、必ず別れが訪れるのに。

「どうして、そこまでしてくれるの……? 」
「珠名屋は危ない。それ以外の理由が必要か?」
「もし地獄大夫に私を外に逃がす手助けをした事が知られたら……殺されちゃうんじゃないの……?」
「そうかもしれないね」

 恐る恐る問いかける明依に、宵は拍子抜けするほどあっさりした口調で言う。

「そうかもしれないって……他人事みたいに……」
「でも、本来なら俺はもう死んでる。生きていちゃいけないんだ」

 もしも。もしも自分が〝明依〟という人間のコピーに過ぎなかったとして。本当の明依は死んでいると言われたとして、宵と同じ言葉をためらいなく言えるだろうか。
 自分であって自分ではない存在の死をすり替える事もせず、目の前の宵のようでいられるだろうか。

「地獄大夫は人を精巧に作りすぎた。本当の事を言えば、俺の人格が造られているなんて自分でも信じられない。……明依と一緒に満月屋にいた時の事を()()()()()。明依と関わった時にどんな気持ちだったのか、そんなことまで正確に()()()()()

 宵は懐かしむような顔をしている。
 きっと宵は二年間会わずにいたらこんな表情で思い出をなぞって懐かしむのだろうと思うくらい、宵はただ、宵だった。

 それは〝暮相〟という本来の人格を含まない、宵のようで。

「〝宵〟は明依が困っていたら必ず力になる。俺がそうしたいと思っているんだから、間違いないよ。……まあ、俺はニセモノだけどね」

 そう言うと宵はニコリと笑った。

 宵の言う通り、地獄大夫が本当に精巧に人間の感情を作っているのなら、宵は敵ではないのではないか。
 いや、でも。宵はそうやって人の中に感情を作ることが得意なはず。
だけどもし、彼がそのままの〝宵〟なら――

「……宵兄さん」

 まだ頭の中ではいろいろと考えていたのに、気付けば明依はぼそりと親しみを含んだ彼の愛称を口にしていた。
 宵は驚いた顔をして、それから息を抜いたように笑った。
 あの優しい顔で。

「……まだ、そう呼んでくれるのか。明依」

 珠名屋の中には日奈がいて、旭がいて、宵がいる。
 あの頃の世界の全て。自分が取りこぼしてきた全部が、この妓楼の中にある。

 だけど必ず、別れは来てしまうのだ。

「行こう、明依。この妓楼は広いから」

 宵にそう言われて、明依は宵の後ろを歩いた。
 般若の面をつけた遊女たちは、みんな全く同じ動きをする。同じ動きで立ち止まり、同じ動きで去って行く。誤差はない気がした。

 宵が出入り口の近い所まで連れて行ってくれたら、妓楼の外に出られるかもしれない。

 しかし、そもそも終夜にとって自分は弱点なのだろうか。
 確かに助けに来てくれる確信はあった。しかし、それはきっと日奈と旭の忘れ形見、というわけではないだろうが、日奈と旭と約束したからである可能性が高いかもしれない訳で。

 しかし終夜が迎えに来るだろうという確信がある時点で弱点なのか。そうなれば必然的に大切にされているが、認めたくないような。複雑な気持ちだ。

 この気持ちは何なんだろう。

「終夜と喧嘩でもした?」

 宵にド真ん中を当てられて、明依は思わず言葉に詰まった。
 明依の反応だけで理解した様子の宵は楽しそうに笑っている。

「じゃあ、日奈と旭の事だね」
「……なんでわかるの?」
「わかるよ。詳しく当ててあげようか」
「いや、だいじょうぶ、」
「そうだなあ。……明依の性格的に、日奈と旭が珠名屋の中にいる事を黙っていた終夜に対してまず悲しくなる。終夜は冷静に対処するだろうから、悲しい気持ちが怒りに代わって我慢できなくなった明依が怒る。それから、言葉を選ばすに終夜にいろいろと言ってしまって後悔してるって所かな。……場所は多分、病院だ。明依が倒れた後だろうから、時間的に考えると終夜がお見舞いに来た時。そうなるときっかけは、目が覚めても終夜は一番に病室には来なかった事だ」
「……なんでわかるの?」

 どんな超能力をお持ちなのだろうと思いながらも、明依は冷静に宵という人間の事を考えた。
 宵という男はこんなに分析能力に優れた人間だったのか。明依はすぐそばにいた宵という男が生前に見せる事がなかった事実に驚愕していた。

「わかるよ。俺は何年も終夜より近くで明依の事を見てきたんだから」

 宵は的確に伝える為なら、こんな言葉も恥ずかしがらずに口にするだろう。
 暮相という人間が意図的に作り出した別人格とも呼べる宵。しかし今の宵には、抗争の時に見た暮相の面影は一つだって感じなかった。

 しかし、〝宵〟とこんな会話をするのは背徳感がある。だって一度は、というか二度は身体を重ねかけた仲な訳だし。なんなら生涯を共にする覚悟があったわけだし。

 つまりこういうことだ。
 まず、ひとつのテーブルの上に宵と一緒に建設中だったジオラマがあるとする。それを宵はもう帰ってこないと思って勝手にザザーッと机の上から払いのけてまっさらになったところに、あーだこーだと言いながら終夜と一緒にジオラマを造っている最中に宵が帰ってきた、みたいな感じだ。

 もちろん、テーブルは一つしかない訳で。
 つまり、宵には無断で終夜との関係を築いてしまっているという事になる、のだろうか。

 〝暮相〟という宵の正体がなければ一昔前の昼ドラ顔負けのすごい泥沼だと冷静に考えていると、宵は急に少し息を呑んで立ち止まった。

「……どうしたの?」
「いや」

 冷静な口調で言ったかと思うと、宵はふっと気が晴れたように笑った。

「……もしかするとこれはチャンスかもしれないと思って」
「なんのチャンス?」
「終夜から明依を奪い去るチャンス」

 宵はそう言うと明依に近付いた。
 〝終夜から明依を奪い去るチャンス〟
 そんなキザなタイプのイケメンがあっさり口にしそうな言葉を言われる日が来ると思わなかった明依はしばらく放心していたが、近づいてくる宵に気付いて、自分を守るように身をすくめて後ずさった。

「待って……!! なんで、急に……! さっきまで俺は本物じゃないって言ってたじゃん……!!」
「でも自分が造られているって信じられないとも言ったし」
「なんで!?」

 さすがにそんなドロドロの三角関係があって堪るかと思いながら、じりじりと距離を詰める宵から離れる。しかし壁に背を取られてしまった。

 『〝背後を取られない〟は自衛の基本』という終夜のありがたい言葉が頭の中に浮かんだ。

 宵が急にこんなことをするはずがない。
 絶対に何か裏があると思いながらも、危機が正面に迫った頭では、自分を納得させるだけの理由は浮かばなかった。