造花街・吉原の陰謀-百鬼夜行-

 すぐ後ろに宵がいる。しかし今の彼は敵だ。
 日奈と旭のように優しく声をかけてはくれないという事実が悲しいと思っていて、それでもいいから一目だけ宵の顔が見たいと思っている。

 自分勝手な考えをなかったことにしようと、明依はゆっくりと息を吐き捨てた。
 顔を見てどうするというんだ。珠名屋の中で見る世界は造られていて、全部ニセモノだ。

 絶対に心を許してはいけない。
 宵は銃を突きつけたりなんかしない。

 考えるのは、宵の事。しかし途端に、明依の頭の中には暮相が浮かぶ。彼なら平然とした顔をして、銃口を向けるのかもしれないと思った。

「無駄にしゃべると情報を抜き取られて、いいように利用されますよ」
「利用される?」

 白萩は納得できない様子で宵を見た。

「そう。特に遊女の言葉には気を付けた方がいい。彼女たちは言葉を使うのがうまい」
「ただの会話をしながら情報を得ようとする人間がいるとは思えませんけどね」
「一般人の想像を超える思考のメカニズム。自らを叩きあげる事によってのみ形成されるそれを掴み取り自分のものにしている。だから彼女たちは〝松ノ位〟なんですよ」

 宵の言葉を聞いても白萩はピンと来ていないのか、この女がね……、という不審そうな視線を明依に向けていた。
 後ろから図星を突かれ、正面からは疑いの目を向けられる明依は自分の立場に困り、とりあえず決まりが悪そうに白萩を睨んだ。

「彼女たちの前で、余計なことを言わない方がいい。ここは俺が代わりましょう。例の部屋に入れておけばいいんですね」
「……そこまで言うなら、後の事は任せましたよ。あなたも情報を抜き取られないといいですけどね、宵さん」
「そんなミスはしない」

 宵ははっきりとした口調で言う。

「吉原の頭領候補に選ばれることに比べれば、遊女一人見張る任務なんて容易いことですから」

 抗争の時に宵の正体を見た。暮相という人間の部分を見たはずなのに、明依の中ではやはり宵は宵として存在しているらしい。そうでなければ敵という事実に胸を痛めてはいないだろう。

 敵という言い方が正しいのかはわからない。宵にとっては、ただ従順に与えられた任務をこなしているだけ、という感覚なのかもしれないから。

 白萩は少し不服そうな様子を見せながらも、暗い廊下の向こうに消えて行った。
 数十秒がたったが、宵は拳銃を突き付けたまま。お互い何かを喋ることはない。

 しかし明依は、自分から宵に話しかける気はなかった。
 どんな言葉を言えばいいのか、全くわからなかったから。

「ごめんね、明依。もういいよ」

 先ほどと雰囲気がずいぶん違う。いつも通りの様子で宵は言う。いつも通りの、優しい口調で。

 きっと宵は〝暮相〟という自分の正体を知らないままでいたら、こうやって優しく声をかけてくれるのだろうと思うくらい。

 明依はゆっくりと振り向いた。
 すぐ後ろにいた宵は、優しい顔で笑っている。やっぱり何も知らなかった頃のまま、何も変わらない。

 頭に明確な懐かしさが浮かんですぐ、明依は宵から視線を逸らした。

 今の宵は敵だ。いや、そもそも本人ではないのだから懐かしさを感じるのがおかしな話で。
 いろいろと頭の中に浮かんだものと一緒に、ゆっくりと息を吐き出して、後ずさって距離を取る。

 きっと操りやすくするためだ。宵は自分の正体を知られた時、『人間は他人から強制されたことには能動的に動けない性質がある。だから受け入れた』と言っていた。
 騙されるなと自分に言い聞かせた。

 終夜とはやり方が違う。
 だけど宵も、人間の心理をよく理解している。

 宵はしばらく立ち止まっていたが、明依との距離を詰めようと一歩を踏み出した。

「言う事は聞きます。だから、近寄らないで」

 明依の言葉に、宵はぴたりと動きを止めた。

 人間は(もろ)い。
 苦しい。数歩歩けば手が届く距離で向き合っても、宵はどこまでも本当に宵のままだ。

「……じゃあ、俺についてきてくれないか」

 どうやら強引に事を進めるつもりはないらしい。
 明依は宵に言われるまま彼の後ろをついて行った。

 白萩ならまだ何とかなっただろうが、宵となれば話は別だ。
 地獄大夫がどこまで精巧に〝宵〟を作っているのかは知らない。しかし、ある程度であっても身体能力の差は明らかだ。
 振り切って逃げきることは出来ないと思った方がいい。

 明依の頭の中には終夜が浮かんだ。
 終夜が来てくれるのを待つしかないのだろうか。しかし終夜は宵を見てまた胸を痛めるだろう。
 兄と慕った人間と二度も戦わないといけないのだろうか。なんとか終夜が傷つかずに終わる方法はないだろうか。

 そんな考えは、前から歩いて来た般若の面をつけた遊女によって無理矢理止まった。
 遊女は明依の姿を見つけてピタリと動きを止めた。

「彼女は俺が捕まえた。もういいよ」

 宵がそう言うと、遊女は反応一つ示さずに、まるで何もなかったみたいに廊下を歩いて行った。

「珠名屋の遊女たちは、明依が部屋以外の場所にいたら捉えるように地獄大夫に命令されている。だから、一緒にいよう」
「……あなたもそうなんでしょう?」
「まあ、そうだね」

 宵は煮え切らない返事をして、また真っ直ぐに前を向いて歩き出した。明依は何を言う事もなく、宵の後に続いた。

 後ろ姿も、歩き方も宵だ。彼が造られているだなんて信じられない。関われば関わるほど、本人だという確信に変わってしまう。

 後ろから宵の情報を探ることに必死になってほとんど呼吸を止めていたことに気付いた明依は、ゆっくりと息を吐く。
 思い出したように、気分の悪さを自覚した。

「地獄大夫が珠名屋の中に何を造りたいか、わかる?」

 『地獄大夫にとって旭と雛菊と過ごした日々は、人生の中で一番心が安らぐ時間だったのかもな』
 病室で梅雨が言った言葉を思い出し、明依は自分の考えが正しいのか。それ以前に宵と会話をする事は正しいのか。何もわからないまま、しかし宵との無言には耐えきれずに口を開いた。

「……日奈と旭のいる世界を造りたい、とか」
「そう。地獄大夫は珠名屋の中に満月屋で過ごした時間の()を過ごせる理想郷を造ろうとしている」
「満月屋で過ごした時間の先……」

 地獄大夫はやっぱり、日奈と旭と過ごした時間をもう一度取り戻したいのだろう。
 だから珠名屋の中に満月屋を造ろうとしている。
 それならどうして、終夜が必要なのだろう。

「じゃあ次の疑問だ。どうして地獄大夫が終夜に執着するのかわかる?」
「わからない」
「地獄大夫は完璧な終夜を造れないからだ。肉体を改造するにも限界がある。そして技術を身に着けるにはどれだけコツを掴んだって時間が必要になる。俺はもう死んでいるからどうにもならないけど、終夜はまだ生きている。だから地獄大夫は終夜が欲しいんだよ。だから終夜の弱点、明依をこの妓楼の中に引きずり込んでいる」
「だけど、〝満月屋〟を造りたいのなら、終夜は関係ないんじゃないの? 地獄大夫がいた時の満月屋に終夜は何も関係ないはずでしょう?」
「そう。だけどきっと彼女の思い描く〝理想郷〟の中には、どうしても終夜が必要なんだよ」

 どうして終夜が必要なんだろう。
 同じ釜の飯を食ったと言っていたけど、二人に特別親し気な様子はなかった。

「どうしてそんなことを私に、教えてくれるの……?」
「自分の置かれている状況くらいは把握しておいた方がいい」

 宵らしい一言を言う。危険を冒さない範囲の情報を与えてくれるのは、宵らしい所だ。

 本当に本人ではないのだろうか。

 日奈も、旭も、それから宵も。誰かが死んだように見せかけて、かくまっていた、とか。
 死んだ三人を目の前で見ていても非現実的な事を考えてしまうくらい、そっくりで。

 そうでなければ、懐かしい、なんて感想が胸の内に浮かぶはずがない。

 宵はゆっくりと明依の方を振り返る。何か大事な話をするのだろうと分かるくらい、冷静な様子で。

「明依。俺はお前の知る宵本人じゃないよ」

 宵はうんざりするくらいにはっきりとした口調で、明依を現実に叩きつける。
 つい先ほどまでニセモノだと自分の頭にすり込もうとしていたのに、宵に直接そう言われるとまるで胸を撃ち抜かれたように一度の衝撃の後、じわじわと痛みが広がる気がした。