造花街・吉原の陰謀-百鬼夜行-

 目を覚ますとそこは、光の一切入らない部屋の中だった。

 一縷(いちる)の光が入る隙間さえない様子は、さながら洞窟。
 明依はぼんやりとした意識の中でも、全身が思い出したような不快感をあらわにして、すぐにここが珠名屋であることを理解した。

 身を横たえたまま、ぼんやりとした意識がもう少し浮上するのを待つ。

 薬とは違う理由で気分が悪くなるのは、気が触れそうな不快感。じわじわと犯されていている感覚に抵抗が出来ないことに、今はまだ恐怖心を持っている。
 きっともう少し気が触れそうな感覚が進行すれば、犯されている感覚は消えて、抵抗できない事への恐怖心すら抱かなくなる。

 まさか白萩が地獄大夫と繋がっていたなんて。
 白萩と深く関わっていた訳ではないとは言え、胸に傷をつけられた時に丁寧に薬を処方してくれたあの人が、と信じられない気持ちを明依は抱えていた。
 しかし、やはりこの街の闇は深いと片付けられるのが吉原という街の怖い所だ。

 五感が働くと判断出来たのは、部屋中を埋め尽くす生薬の匂い。明依はゆっくりと身を起こして、何度か経験して慣れつつある無理矢理眠らされた後の覚醒時の不快感に頭を抱えて、過ぎ去るのを待った。

 少し慣れてから、生薬の匂いをより強く感じて袖で口元を覆う。

 暗い部屋の中を照らすのは、雪洞の明かり。
 いたるところに綺麗な切り口でそろえられた草がある。大小さまざまな花瓶には、見慣れない草花が飾られている。
 天井には絵が描かれている。

 明依はゆっくりと壁に手をついて立ち上がった。それから襖を開けて、生薬の匂いが充満している部屋から出た。

 右も左も、全く同じ廊下。どちらも道の先は見えない。

 終夜はきっと助けに来てくれる。
 終夜に迷惑をかけてしまうから、少しでも今の自分にできる事をしなければ。

 終夜に酷いことを言った。それでも終夜はきっと助けに来てくれるという確信がある。

 だから終夜から大切にされている自覚は心のもっと深い部分にあるはずなのに、どうして人間には慣れという機能が備わっていて傲慢になってしまうのだろう。

「とにかく、逃げないと」

 呟いて自らを奮い立たせようと試みてはみるものの、明依は自力で珠名屋から出られる自信が全くなかった。

 終夜と珠名屋から出た時、目の前の壁は偽物どころか触れるとすぐにわかる幻覚。
 幻覚だとトリックが分かっている今でも、見破れる自信がない。だけど思い返してみれば頭がぼんやりしていただけのような気もする。そうやって思い返しているだけでも頭がおかしくなりそうだ。

 当たり前だと思っていた外の世界から光一つ入らない洞窟のような場所で、嗅ぎなれない匂いにさらされていると頭がおかしくなって当然だ。
 廃人になる人間の気持ちがわかる気がした。

 歩くたびに感じる、明らかに体に悪いものを入れている感覚。
 汗をかいて、全身に広がる変な感じ。

 前回地獄大夫に洗脳された時とは違う。
 嫌な予感はしたが、明依は考えないようにして一歩一歩を踏みしめて歩いた。

「なんだ。もう起きたんですか」

 まるですべての行動が想定内、とでも言った様子の声が響く。
 明依は肩を浮かせてから、振り返った。

「部屋に戻っていてください。動かれると探すのがめんどうなので」

 白萩は布に包まれた生薬を持ったまま廊下の真ん中に立っていた。
 走って逃げれば振り切れるだろうか。いや、無理だ。薬が効いている状態では時間の問題。珠名屋の中のどこに何があるのか把握していない状態では不利。賢明な判断じゃない。

 座敷から逃げ出した女が自分の前から走り去らない事は白萩の中では絶対なのか、もしくは追いつける自信があるのか。それとも、珠名屋から出られないという確信があるのか。

 壁に手を付けて歩く明依とは対照的に、余裕のある様子の白萩。明依は強く白萩を睨んだ。

「そんなに睨まないでくださいよ。光栄なことじゃないですか。地獄大夫の夢を見られるんだから」
「頼んでないんだけど」
「だけど雛菊さんと旭くんに会えるのは嬉しいでしょう?」

 そう言われて明依は思わず言葉に詰まった。

 まずい。まだ頭が回っていない。このままでは言葉で畳みかけられて、圧倒される。
 そう思った明依だったが、白萩は明依の挙動に注意を向けている様子は一切なく、手元の生薬を確認するように見ていた。

「素直に夢を見ていたらいいんですよ。現実なんかよりよっぽど幸せだ」

 少し離れた白萩にだけ注意を向ける。
 しかし白萩は、こちらに注意を向けていない。

 白萩は今まで見てきたどんなタイプとも違う。いや、そういえば遊女と一晩遊ぼうとする客のほとんどはこのタイプだった。

 終夜は人間の一挙手一投足にまで気を配り、その時々で自分の思い通りに動かす一手を打つ。だから、気を抜けない。時雨だってそうだ。連なる言葉の小さな所から齟齬を見つける。
 思い返せば宵もそうだったのだろう。

 彼らに比べると、白萩は隙だらけ。

「あなたも幸せな夢を見ているの?」

 予想が正しければ乗ってくると思って、言葉を使う。

「そうですよ。僕は星乃さまの側にいられるだけで幸せだ。あの人は天才ですよ。幻覚はね、普通かけられる人間次第なんです。体調、室温、今見ているもの、聞いたこと。どんな幻覚を見るのかはわからない。それをあの人は他人の頭の中に造るんです。あれほど凄い人を僕は見たことがない」

 心酔。
 客が遊女に入れ揚げている状態と、全く同じ構図。

 白萩はどうやら、まんまと地獄大夫の張り巡らす蜘蛛の糸に絡まり、身動きが取れずに幸せな夢を見ている最中らしい。

「確かに凄い人だけど……。私は自分がそんな凄い人に必要とされるほど何かしたとは思えないんだけど」
「星乃さまは珠名屋の中に理想郷を造りたいんですよ。そのためには終夜さんが必要だ。だけど彼は用心深い。だからあなたを使って珠名屋の中におびき寄せようとしていらっしゃる。まあでも、多分あなたも帰れませんよ。あなたを〝明依〟という役のまま使うおつもりなのか、他の人間に変えるおつもりなのかは知りませんが。……まあ単に憎いから殺すため、という可能性もありますけどね」

 よく喋る。
 やはり、座敷に上がる客たちと一緒だ。自分の興味のある事の話を聞いてもらいたくてたまらない。それは、他者からすごいと褒めてほしい欲求を持つ子どものような。

 しかし何も知り得ない現状では、どんな情報もありがたかった。

 やはり地獄大夫の目的は終夜を珠名屋に誘い込むこと。しかし次の理由として挙がってくるのは憎いから、である気がする。
 沢山の情報を地獄大夫は知っていた。それなら、日奈と旭の死因を作った張本人であると知っていると知っているだろう。

「……地獄大夫の造りたい理想郷って、何なの?」
「そりゃ、」
「ストップ」

 白萩の言葉を遮ったのは、明依のすぐ背後から聞こえた声。
 聞きなれていて、もう聞くことはないと思っていた気持ちは日奈と旭と同じ。

「手を挙げろ」

 背中に銃を突き付けられている感覚があった。
 明依は目を見開いたままゆっくりと両手を挙げる。

「しゃべりすぎですよ。白萩さん」

 また聞こえた余裕のある声が鼓膜を震わせて脳に情報を送る。
 今度こそは間違いないと心の内側が言う。

「……宵さんじゃないですか」

 白萩は少し鬱陶しそうな声で、今は亡き彼の名を呼ぶ。

 しかし後ろにいるはずの彼は、親しげな様子で名前を呼んでくれはしないようだ。