「触れたいと思うよ」
終夜は呟くように言うと、握っていた明依の手を放して距離を取った。
「だけど、明依がやめる理由を作ってくれて安心もしてる」
終夜が淡々と説明している内容は、ほとんど同じ気持ち。しかし終夜の言葉で息が詰まって、胸が苦しくなる。
「後悔したらどうしようって、後悔させたらどうしようって考える」
終夜は自分の気持ちを素直に説明している。昔なら終夜の新しい一面を知ったと嬉しく思っていただろう。
今となれば、悲しい材料だ。
本当に人間という生き物は――
「欲張りだよね、人間って」
終夜が見慣れない表情で、少し悲しそうに笑うから。
「終夜、」
「来るのが遅くなってごめん。でも、元気そうで安心した」
先ほどよりもずっと、胸の痛みを感じている。
しかし終夜に遮られて、言葉の続きを言う事は出来なかった。もしかすると、説明できるだけのなにかが自分の中にないだけなのかもしれない。
違う。そうじゃなくて。
そんな顔をさせたかったわけじゃなくて。そう思っている事が表情に出ていても、言いたいことが喉元で絡まって言葉にならない。
気持ちの整理がつかない明依をよそに、終夜は立ち上がった。
「珠名楼の事は心配しなくていい。俺が責任を持って対処する」
日奈と旭がいたことに混乱しているのは、終夜も一緒のはずだ。
苦しいのも、悲しいのも全部一緒のはずなのに、終夜はまた一人で抱え込もうとしている。
だけど一体、何ができるというんだろう。
「……終夜」
名前を呼んだことに意味はない。意味がないと分かっているから、終夜は返事をせずに病室を出て行ったのだと思う。
静かになった病室でゆっくりと息を吐いてから、身体中に力を入れていたことに気付いて緊張を解く。
そして考えた。終夜の事を傷つけてしまった。
どうしよう。どうしてあんな言い方をしてしまったんだろう。あんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
『憎しみ合う事も愛し合う事すらも出来ない関係に価値がない事は、終夜もよく分かっているだろうに』
地獄大夫の言葉は、今になって明確に胸に刺さる。終夜との関係に何の価値があるのだろう。終夜に問いかければ、彼なりの答えをくれるのだろうか。
『〝向き合う〟って言うのは、少なくとも人生が交わる人間同士がする行為だ』
二年前、終夜が言った言葉を明依は思い出してた。
向き合うというのは、人生が交わる人間同士がする行為。
人生が交わることがないから、〝向き合う〟が出来ないのだろうか。
もしそうならそれはすごく――
「明依お姉ちゃん!!」
すぐそばで聞こえた声にはっとして、明依は俯いていた顔を上げた。
「……雪」
「ずっと呼んでたんだよ。体調悪い?」
二年前よりも身長が大きくなり、顔つきが大人に近づいていく雪は、心配そうな顔をしている。
「ごめん。ちょっと考え事」
「終夜もめずらしくぼーっとしてたんだよ。さっきすれ違ったんだけど……」
雪は不思議そうに言う。
終夜とごちゃごちゃした関係の現状でも、雪は本当に表情が豊かになったな、と嬉しい気持ちになる。
「今度は笑ってる」
雪は明依の心からにじみ出た微笑みに安心した笑顔を浮かべた。
まさか自分が笑っているとは思っていなかった明依は驚いて、それから今度はしっかりと笑った。
ほんの少しだけ、調子が戻ってきた気がする。
「さっきの終夜、すごく変だったんだよ」
「終夜が変なのはいつもの事でしょ」
「そうだけど。……だって、雪が話しかけないと気づかないんだよ。いつもは雪が気付くより前に隠れておどかしてくるのに」
ここ二年。終夜の雪に対する態度と言えば、可愛くて可愛くてたまらない娘にいたずらを仕掛けるめんどくさいタイプの父親そのものだった。
前から雪が来ると分かればさっと細道に隠れておどかし、満月屋でご機嫌な様子で歩く雪を後ろからおどかす。
おかげで雪は辺りをしっかりと警戒するという事を覚えた。それを明依がとがめた時、終夜は『〝背後を取られない〟は自衛の基本』とか訳の分からない事を言っていた。
しつこい終夜にそろそろ雪は本気でキレるのではないかと思って一年は経つが、雪は『びっくりしたあ……もう、やめてよ! 終夜』とムッとした様子で言って笑うばかりだ。
時々二人で団子を食べに行ったり、買い物をしたりしていると雪から聞くから、それでバランスが取れているのかもしれない。
計算しつくされているようだが、おそらく違う。人間として底辺の男・終夜は百パーセント自分のためだ。雪の気長な性格をもってしてなんとか噛み合っている終夜と雪だった。
「ああ見えて終夜も人間なんだから、そういう事もあるよ」
「明依お姉ちゃんと終夜って仲良しさんだよね」
何の気もない様子で言う雪は、大人びた穏やかな笑顔を浮かべていた。
〝仲良し〟。少し前なら、まあなんだかんだ仲はいいしな、と思えていたが、今の明依にはその自信がなかった。
「……どうしてそう思うの?」
だから聞いてみたいと思った。
答えをくれるような気がしたから。
「だってみんな終夜の事〝あの人は人間じゃない〟〝敵わない〟って言ってるもん。だけど明依お姉ちゃんは終夜の普通の人っぽいところを一番よく知ってるの。それに二人で話していてよく笑っているし、ぼーっとするのも一緒なんでしょう? 仲良しさんじゃなきゃできないよ」
確かにそうかもしれない。
同じ方向を向いているから同じものを見て、同じ苦しみを感じている。
離れていても、お互いの事を一番よく分かっている。
「雪もいつか明依お姉ちゃんと終夜みたいな結婚をするんだ」
明依の中で時間が止まった。
ちょっと待て。もしかして雪は、終夜と結婚してると思っているんじゃないだろうな。えっ、いつから? もしかしてここ二年間ずっと……?
口を開いて夢を壊すのも申し訳ないくらい穏やかな顔をしている雪とは対照的に、明依の心の中は終始騒がしかった。
「今日はちょっと寄っただけだから、そろそろ行かないと。じゃあ、明依お姉ちゃん。また明日ゆっくり来るね」
大人顔負けにしっかりしてる。そんな感想がぽつりと浮かんでいる間に、雪は明依の返事も聞かずにあっさりと帰って行った。
「黎明さんの周りは賑やかでいいですね」
放心状態の明依をよそに病室に入ってきたのは白萩。彼は見慣れない生薬を布に包んで持っていた。
そしてまた作業台に向かう。
「黎明大夫の人徳ですね」
「いや、そんなことは……」
差し障りのない言葉を言いながら、明依は先ほどの雪の言葉にまだ衝撃を受けていた。
新たな悩みが増えてしまった。
まさか雪が結婚していると思っていたなんて思いもしなかった。
今の子どもは結婚の制度とか詳しく知っているのか。そんなことが頭の中に浮かんでは消える。
しかし少し気持ちが晴れた。
今日の事はしっかりと終夜に謝ろう。そしてちゃんと話そう。私は一緒に乗り越えたいって思っていると、もう一度言おう。日奈と旭に関わることを隠されていたのは悲しかったと、素直に。
「薬です。どうぞ」
「ありがとうございます」
白萩から手渡された白湯を口に含んでから、紙の上に乗った薬を一気に飲み下した。鼻から息を抜くと、気分が悪くなりそうだった。
「気分はいかがですか」
「……悪くないです」
白萩は明依から白湯の入った器を受け取ると、作業台に戻っていった。
そう言いながらも、なんだか頭がぼんやりする気がする。
「使い勝手のいい用心棒をお持ちですね。まさかあの珠名屋から逃げ出せるなんて」
何言ってるの、という言葉すら口にできないくらいぼんやりしてきた頃だ。
この感覚は、珠名屋で味わったものに似ている。身体が動かないのは怠惰なのかもしれないと思ったが、動かそうと思っても体は動かない。
白萩はニヒルな笑みを浮かべている。
「でも、次は逃がさない」
やっぱり見た目からして優しい人間には裏がある。
終夜くらい性格の悪さを前面どころか全面に出している方が心構えができるというものだ。
まもなく意識が飛んでしまうのだろうと思うのに、考えるのはアホみたいなこと。それが何となく、自分らしいとも思った。
終夜に申し訳ない。きっと終夜はまた危険を冒して珠名屋に来てくれるだろう。
それが分かっているだけで、終夜から大切にされていると実感できていたはずなのに。どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
深いところまで沈もうとする中で考えるのは、終夜のことばかり。
終夜は呟くように言うと、握っていた明依の手を放して距離を取った。
「だけど、明依がやめる理由を作ってくれて安心もしてる」
終夜が淡々と説明している内容は、ほとんど同じ気持ち。しかし終夜の言葉で息が詰まって、胸が苦しくなる。
「後悔したらどうしようって、後悔させたらどうしようって考える」
終夜は自分の気持ちを素直に説明している。昔なら終夜の新しい一面を知ったと嬉しく思っていただろう。
今となれば、悲しい材料だ。
本当に人間という生き物は――
「欲張りだよね、人間って」
終夜が見慣れない表情で、少し悲しそうに笑うから。
「終夜、」
「来るのが遅くなってごめん。でも、元気そうで安心した」
先ほどよりもずっと、胸の痛みを感じている。
しかし終夜に遮られて、言葉の続きを言う事は出来なかった。もしかすると、説明できるだけのなにかが自分の中にないだけなのかもしれない。
違う。そうじゃなくて。
そんな顔をさせたかったわけじゃなくて。そう思っている事が表情に出ていても、言いたいことが喉元で絡まって言葉にならない。
気持ちの整理がつかない明依をよそに、終夜は立ち上がった。
「珠名楼の事は心配しなくていい。俺が責任を持って対処する」
日奈と旭がいたことに混乱しているのは、終夜も一緒のはずだ。
苦しいのも、悲しいのも全部一緒のはずなのに、終夜はまた一人で抱え込もうとしている。
だけど一体、何ができるというんだろう。
「……終夜」
名前を呼んだことに意味はない。意味がないと分かっているから、終夜は返事をせずに病室を出て行ったのだと思う。
静かになった病室でゆっくりと息を吐いてから、身体中に力を入れていたことに気付いて緊張を解く。
そして考えた。終夜の事を傷つけてしまった。
どうしよう。どうしてあんな言い方をしてしまったんだろう。あんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
『憎しみ合う事も愛し合う事すらも出来ない関係に価値がない事は、終夜もよく分かっているだろうに』
地獄大夫の言葉は、今になって明確に胸に刺さる。終夜との関係に何の価値があるのだろう。終夜に問いかければ、彼なりの答えをくれるのだろうか。
『〝向き合う〟って言うのは、少なくとも人生が交わる人間同士がする行為だ』
二年前、終夜が言った言葉を明依は思い出してた。
向き合うというのは、人生が交わる人間同士がする行為。
人生が交わることがないから、〝向き合う〟が出来ないのだろうか。
もしそうならそれはすごく――
「明依お姉ちゃん!!」
すぐそばで聞こえた声にはっとして、明依は俯いていた顔を上げた。
「……雪」
「ずっと呼んでたんだよ。体調悪い?」
二年前よりも身長が大きくなり、顔つきが大人に近づいていく雪は、心配そうな顔をしている。
「ごめん。ちょっと考え事」
「終夜もめずらしくぼーっとしてたんだよ。さっきすれ違ったんだけど……」
雪は不思議そうに言う。
終夜とごちゃごちゃした関係の現状でも、雪は本当に表情が豊かになったな、と嬉しい気持ちになる。
「今度は笑ってる」
雪は明依の心からにじみ出た微笑みに安心した笑顔を浮かべた。
まさか自分が笑っているとは思っていなかった明依は驚いて、それから今度はしっかりと笑った。
ほんの少しだけ、調子が戻ってきた気がする。
「さっきの終夜、すごく変だったんだよ」
「終夜が変なのはいつもの事でしょ」
「そうだけど。……だって、雪が話しかけないと気づかないんだよ。いつもは雪が気付くより前に隠れておどかしてくるのに」
ここ二年。終夜の雪に対する態度と言えば、可愛くて可愛くてたまらない娘にいたずらを仕掛けるめんどくさいタイプの父親そのものだった。
前から雪が来ると分かればさっと細道に隠れておどかし、満月屋でご機嫌な様子で歩く雪を後ろからおどかす。
おかげで雪は辺りをしっかりと警戒するという事を覚えた。それを明依がとがめた時、終夜は『〝背後を取られない〟は自衛の基本』とか訳の分からない事を言っていた。
しつこい終夜にそろそろ雪は本気でキレるのではないかと思って一年は経つが、雪は『びっくりしたあ……もう、やめてよ! 終夜』とムッとした様子で言って笑うばかりだ。
時々二人で団子を食べに行ったり、買い物をしたりしていると雪から聞くから、それでバランスが取れているのかもしれない。
計算しつくされているようだが、おそらく違う。人間として底辺の男・終夜は百パーセント自分のためだ。雪の気長な性格をもってしてなんとか噛み合っている終夜と雪だった。
「ああ見えて終夜も人間なんだから、そういう事もあるよ」
「明依お姉ちゃんと終夜って仲良しさんだよね」
何の気もない様子で言う雪は、大人びた穏やかな笑顔を浮かべていた。
〝仲良し〟。少し前なら、まあなんだかんだ仲はいいしな、と思えていたが、今の明依にはその自信がなかった。
「……どうしてそう思うの?」
だから聞いてみたいと思った。
答えをくれるような気がしたから。
「だってみんな終夜の事〝あの人は人間じゃない〟〝敵わない〟って言ってるもん。だけど明依お姉ちゃんは終夜の普通の人っぽいところを一番よく知ってるの。それに二人で話していてよく笑っているし、ぼーっとするのも一緒なんでしょう? 仲良しさんじゃなきゃできないよ」
確かにそうかもしれない。
同じ方向を向いているから同じものを見て、同じ苦しみを感じている。
離れていても、お互いの事を一番よく分かっている。
「雪もいつか明依お姉ちゃんと終夜みたいな結婚をするんだ」
明依の中で時間が止まった。
ちょっと待て。もしかして雪は、終夜と結婚してると思っているんじゃないだろうな。えっ、いつから? もしかしてここ二年間ずっと……?
口を開いて夢を壊すのも申し訳ないくらい穏やかな顔をしている雪とは対照的に、明依の心の中は終始騒がしかった。
「今日はちょっと寄っただけだから、そろそろ行かないと。じゃあ、明依お姉ちゃん。また明日ゆっくり来るね」
大人顔負けにしっかりしてる。そんな感想がぽつりと浮かんでいる間に、雪は明依の返事も聞かずにあっさりと帰って行った。
「黎明さんの周りは賑やかでいいですね」
放心状態の明依をよそに病室に入ってきたのは白萩。彼は見慣れない生薬を布に包んで持っていた。
そしてまた作業台に向かう。
「黎明大夫の人徳ですね」
「いや、そんなことは……」
差し障りのない言葉を言いながら、明依は先ほどの雪の言葉にまだ衝撃を受けていた。
新たな悩みが増えてしまった。
まさか雪が結婚していると思っていたなんて思いもしなかった。
今の子どもは結婚の制度とか詳しく知っているのか。そんなことが頭の中に浮かんでは消える。
しかし少し気持ちが晴れた。
今日の事はしっかりと終夜に謝ろう。そしてちゃんと話そう。私は一緒に乗り越えたいって思っていると、もう一度言おう。日奈と旭に関わることを隠されていたのは悲しかったと、素直に。
「薬です。どうぞ」
「ありがとうございます」
白萩から手渡された白湯を口に含んでから、紙の上に乗った薬を一気に飲み下した。鼻から息を抜くと、気分が悪くなりそうだった。
「気分はいかがですか」
「……悪くないです」
白萩は明依から白湯の入った器を受け取ると、作業台に戻っていった。
そう言いながらも、なんだか頭がぼんやりする気がする。
「使い勝手のいい用心棒をお持ちですね。まさかあの珠名屋から逃げ出せるなんて」
何言ってるの、という言葉すら口にできないくらいぼんやりしてきた頃だ。
この感覚は、珠名屋で味わったものに似ている。身体が動かないのは怠惰なのかもしれないと思ったが、動かそうと思っても体は動かない。
白萩はニヒルな笑みを浮かべている。
「でも、次は逃がさない」
やっぱり見た目からして優しい人間には裏がある。
終夜くらい性格の悪さを前面どころか全面に出している方が心構えができるというものだ。
まもなく意識が飛んでしまうのだろうと思うのに、考えるのはアホみたいなこと。それが何となく、自分らしいとも思った。
終夜に申し訳ない。きっと終夜はまた危険を冒して珠名屋に来てくれるだろう。
それが分かっているだけで、終夜から大切にされていると実感できていたはずなのに。どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
深いところまで沈もうとする中で考えるのは、終夜のことばかり。



