昨日の夜、倒れた時に焦った様子で名前を呼んだのは別人だったかと思うくらい、今の終夜は落ち着き払っていた。
「体調は?」
終夜はまるで他愛もない世間話のようにそう言いながら、先ほどまで白萩が作業をしていた机の前に移動した。
「悪くないよ」
「そう。よかった」
終夜は白萩の作業台を眺めると、親指と人差し指と中指の三本ですりつぶされて粉末になった薬を摘まみ上げた。
終夜が親指を滑らせると、なめらかな動きで細かい粉末が石臼の中に戻っていく。
倒れた時くらい焦って病室に駆け込んできてくれてもいいのに。
そんなわがままが心の中だけに浮かんでいる。
「妓楼の中でなにを見たの?」
体調の心配もそこそこにさっそく情報不足の珠名屋の中の事を知りたがるんだ。そうやっていちいち、終夜の言葉に心が反発してまた自分に嫌気がさす。
つくづく自分が嫌になる。
終夜が生きているだけでいいと思っていた二年前の自分とはまるで別人のようだ。
「おばあさんに案内されて座敷の中に入ったんだけど、障子窓の向こうに描かれたがしゃどくろの絵を見ていると気分が悪くなっちゃって……。ここに居ると殺されると思って逃げたの。そうしたら足音が聞こえてきて、急いで入った座敷の中は万華鏡みたいに花がたくさん動いていて……。気を失って、そこからはよく覚えてない。目が覚めたら終夜が目の前にいた」
「薬を飲まされたり、匂いをかがされたりした覚えはある?」
「……薬」
明依は昨日の夜の出来事を頭の中でなぞった。
「草とか花とかばっかりの部屋があった……気がする」
「詳しく話せる?」
「……わからない。よく覚えてないの。夢だったのかもしれない……。でもなんか、気持ちよかった気がする。身体はお風呂に使っているみたいで、とにかくぼんやりしてて……」
どれだけ絞り出そうとしても、よく思い出せなかった。
ただ身体の力が入らないくらい心地のいい空間だったような気がする。
「珠名楼は危険だ。後の事は俺に任せて、明依は何もしないで」
終夜ははっきりと言い切る。
話を聞きだした後は、もう関わるな、と言うのだろうと想像はついてはいたが。
「終夜はやっぱり、日奈と旭の事を知ってたんだね」
明依の質問に似せた断定に、終夜は何も答えない。
吐く息が喉元で震えるのは、涙が出る前の前兆だと明依は知っていた。
「〝何も知らない〟って、言わなかった……?」
悲し気に響く声にさえ、終夜は返事をしない。
終夜に任せて、どんな結果になるのだろう。
また終夜が日奈と旭を殺すのだろうか。それとも別の誰かが、日奈と旭を殺すのだろうか。
二人はまた、死ぬのだろうか。
終夜はまた苦しくなるだろう。そしてきっとまた、一人で抱え込む。
「俺は裏の頭領として吉原で起こった事に対処するだけだ」
終夜が一人で抱え込むと思っているから、終夜の言葉は想定内。
終夜はこんな時に心を殺すのがうまい。
あっさりした口調で言うから、一瞬本当に何も感じていないのではないかと疑ってしまうくらい。
きっと終夜という人間を知らなかった頃、〝吉原の厄災〟と思っていた頃の終夜だったら、そのまま言葉を受け取っていただろう。
しかし明依は珠名屋の中で日奈を殺そうとした終夜の苦しみに耐える顔を思い出していた。
だから、一緒に乗り越えて――
「明依が知っていないといけない事は、あの二人が死んだことだけ」
絶対に言われたくない言葉を終夜が言うという、確信。
「もう明依には関係ない事だよ」
意図して冷たい言葉を選んでいるのだろうと、わかっていた。
わかっていたはずなのに、終夜の一言は明依の中にある夢や希望の類を一瞬で殺した。
『終夜の洗脳術はすごい』
『しっかりと感情を絡めて、人の心の内側に根を張る』
ちょうど今、花が咲いたような感覚を明依は覚えていた。
「終夜の言葉はどこまでが本当で、どこからが嘘なの?」
明依の言葉に、終夜は少しだけ注意深い視線を明依に向ける。
終夜はどうして向き合おうとしないんだろう。
辛い事を一緒に乗り越えようとしないんだろう。
明依は珠名屋から終夜と帰った時の事を思い出した。
『一緒にいろんなことを乗り越えたいって思ったのは、私だけなの?』
『……形が違うだけだよ』
形って、一体なんだ。
「私が吉原に戻ってきたことも全部、終夜が仕組んだことだった?」
少し冷静になれば、終夜は吉原の外に出したがっていたのだから間違いなく自分が選んだ結果だと言い切れるのに。
今日は明らかに何かがおかしい。おかしいと分かっているから後ろめたさのようなものがあるのに、引き下がりたくない。この感覚はなんだろう。
「説明したはずだよ。認知的不協和。心の中にあるものと目の前にある現実との差異を利用した洗脳術。今明依が持っている感情は地獄大夫、星乃が作ったものだ」
「違う……! これはちゃんと私が感じている事で、」
「宵の時にも、明依は全く同じことを言ったよ」
終夜に断定されてしまえば、次の言葉はもう出てこない。
違う。喧嘩がしたい訳じゃなくて。しかしこれからどうなりたいのか、どこにたどり着けばいいのか、どうすれば正解なのか。明依の中で明確な形が決まっているわけではなかった。
日奈と旭の事でさえ気持ちを共有しないのなら、終夜の側にいる意味あるのか。
しかし本当は側にいる意味なんて自分で考えないといけない事で。どうしてかと言えばそれは、自分の意志でこの街に残ると決めたからで。
「……終夜にとって、私ってなに?」
洗脳されているとかされていないとか、そういう事じゃなくて。
きっと話をしないといけないのはもっと深い部分。
支離滅裂な自分が嫌い。
大切な話はしっかりと目を見て話さなければいけないのに、終夜の顔を見る事が出来ない自分も嫌い。
「それがわかってるなら、二年も指一本触れないで探り合う関係にはなってないよ」
正論だ。二人の状況を説明するのに、それ以外の言葉はないと思えるくらいの正論。
明依は何も返事をすることが出来なかった。
「じゃあ、確かめてみる?」
終夜はいたって普通にそう言うと明依のベッドに腰かけて、それから明依の手を握った。
終夜が指を絡める度に、刺さって、痛い。
それは反射的に、〝こうされれば、こう動く〟と脳があらかじめプログラムしていたみたいに反応する。
明らかに心に根付いた違和感。不快感だけとも言い切れない、なにか。
終夜はベッドに腕を預けて明依に近付くと、そっと唇を寄せた。
電気なんて必要がないほど太陽の恩恵を受けた病室。
生薬の匂いがする部屋の中。
誰も見ていない、真昼のこと。
『久しぶりだね、明依』
珠名屋の中での日奈の言葉が浮かんで、明依は息を呑んで終夜と唇が触れ合わないように顎を引いた。
それも極めて、反射的に。
「体調は?」
終夜はまるで他愛もない世間話のようにそう言いながら、先ほどまで白萩が作業をしていた机の前に移動した。
「悪くないよ」
「そう。よかった」
終夜は白萩の作業台を眺めると、親指と人差し指と中指の三本ですりつぶされて粉末になった薬を摘まみ上げた。
終夜が親指を滑らせると、なめらかな動きで細かい粉末が石臼の中に戻っていく。
倒れた時くらい焦って病室に駆け込んできてくれてもいいのに。
そんなわがままが心の中だけに浮かんでいる。
「妓楼の中でなにを見たの?」
体調の心配もそこそこにさっそく情報不足の珠名屋の中の事を知りたがるんだ。そうやっていちいち、終夜の言葉に心が反発してまた自分に嫌気がさす。
つくづく自分が嫌になる。
終夜が生きているだけでいいと思っていた二年前の自分とはまるで別人のようだ。
「おばあさんに案内されて座敷の中に入ったんだけど、障子窓の向こうに描かれたがしゃどくろの絵を見ていると気分が悪くなっちゃって……。ここに居ると殺されると思って逃げたの。そうしたら足音が聞こえてきて、急いで入った座敷の中は万華鏡みたいに花がたくさん動いていて……。気を失って、そこからはよく覚えてない。目が覚めたら終夜が目の前にいた」
「薬を飲まされたり、匂いをかがされたりした覚えはある?」
「……薬」
明依は昨日の夜の出来事を頭の中でなぞった。
「草とか花とかばっかりの部屋があった……気がする」
「詳しく話せる?」
「……わからない。よく覚えてないの。夢だったのかもしれない……。でもなんか、気持ちよかった気がする。身体はお風呂に使っているみたいで、とにかくぼんやりしてて……」
どれだけ絞り出そうとしても、よく思い出せなかった。
ただ身体の力が入らないくらい心地のいい空間だったような気がする。
「珠名楼は危険だ。後の事は俺に任せて、明依は何もしないで」
終夜ははっきりと言い切る。
話を聞きだした後は、もう関わるな、と言うのだろうと想像はついてはいたが。
「終夜はやっぱり、日奈と旭の事を知ってたんだね」
明依の質問に似せた断定に、終夜は何も答えない。
吐く息が喉元で震えるのは、涙が出る前の前兆だと明依は知っていた。
「〝何も知らない〟って、言わなかった……?」
悲し気に響く声にさえ、終夜は返事をしない。
終夜に任せて、どんな結果になるのだろう。
また終夜が日奈と旭を殺すのだろうか。それとも別の誰かが、日奈と旭を殺すのだろうか。
二人はまた、死ぬのだろうか。
終夜はまた苦しくなるだろう。そしてきっとまた、一人で抱え込む。
「俺は裏の頭領として吉原で起こった事に対処するだけだ」
終夜が一人で抱え込むと思っているから、終夜の言葉は想定内。
終夜はこんな時に心を殺すのがうまい。
あっさりした口調で言うから、一瞬本当に何も感じていないのではないかと疑ってしまうくらい。
きっと終夜という人間を知らなかった頃、〝吉原の厄災〟と思っていた頃の終夜だったら、そのまま言葉を受け取っていただろう。
しかし明依は珠名屋の中で日奈を殺そうとした終夜の苦しみに耐える顔を思い出していた。
だから、一緒に乗り越えて――
「明依が知っていないといけない事は、あの二人が死んだことだけ」
絶対に言われたくない言葉を終夜が言うという、確信。
「もう明依には関係ない事だよ」
意図して冷たい言葉を選んでいるのだろうと、わかっていた。
わかっていたはずなのに、終夜の一言は明依の中にある夢や希望の類を一瞬で殺した。
『終夜の洗脳術はすごい』
『しっかりと感情を絡めて、人の心の内側に根を張る』
ちょうど今、花が咲いたような感覚を明依は覚えていた。
「終夜の言葉はどこまでが本当で、どこからが嘘なの?」
明依の言葉に、終夜は少しだけ注意深い視線を明依に向ける。
終夜はどうして向き合おうとしないんだろう。
辛い事を一緒に乗り越えようとしないんだろう。
明依は珠名屋から終夜と帰った時の事を思い出した。
『一緒にいろんなことを乗り越えたいって思ったのは、私だけなの?』
『……形が違うだけだよ』
形って、一体なんだ。
「私が吉原に戻ってきたことも全部、終夜が仕組んだことだった?」
少し冷静になれば、終夜は吉原の外に出したがっていたのだから間違いなく自分が選んだ結果だと言い切れるのに。
今日は明らかに何かがおかしい。おかしいと分かっているから後ろめたさのようなものがあるのに、引き下がりたくない。この感覚はなんだろう。
「説明したはずだよ。認知的不協和。心の中にあるものと目の前にある現実との差異を利用した洗脳術。今明依が持っている感情は地獄大夫、星乃が作ったものだ」
「違う……! これはちゃんと私が感じている事で、」
「宵の時にも、明依は全く同じことを言ったよ」
終夜に断定されてしまえば、次の言葉はもう出てこない。
違う。喧嘩がしたい訳じゃなくて。しかしこれからどうなりたいのか、どこにたどり着けばいいのか、どうすれば正解なのか。明依の中で明確な形が決まっているわけではなかった。
日奈と旭の事でさえ気持ちを共有しないのなら、終夜の側にいる意味あるのか。
しかし本当は側にいる意味なんて自分で考えないといけない事で。どうしてかと言えばそれは、自分の意志でこの街に残ると決めたからで。
「……終夜にとって、私ってなに?」
洗脳されているとかされていないとか、そういう事じゃなくて。
きっと話をしないといけないのはもっと深い部分。
支離滅裂な自分が嫌い。
大切な話はしっかりと目を見て話さなければいけないのに、終夜の顔を見る事が出来ない自分も嫌い。
「それがわかってるなら、二年も指一本触れないで探り合う関係にはなってないよ」
正論だ。二人の状況を説明するのに、それ以外の言葉はないと思えるくらいの正論。
明依は何も返事をすることが出来なかった。
「じゃあ、確かめてみる?」
終夜はいたって普通にそう言うと明依のベッドに腰かけて、それから明依の手を握った。
終夜が指を絡める度に、刺さって、痛い。
それは反射的に、〝こうされれば、こう動く〟と脳があらかじめプログラムしていたみたいに反応する。
明らかに心に根付いた違和感。不快感だけとも言い切れない、なにか。
終夜はベッドに腕を預けて明依に近付くと、そっと唇を寄せた。
電気なんて必要がないほど太陽の恩恵を受けた病室。
生薬の匂いがする部屋の中。
誰も見ていない、真昼のこと。
『久しぶりだね、明依』
珠名屋の中での日奈の言葉が浮かんで、明依は息を呑んで終夜と唇が触れ合わないように顎を引いた。
それも極めて、反射的に。



