「旭と日奈が死んで寂しい?」
終夜は相変わらず、挑発的に言う。
しかし明依は自分の心の内側に違和感。
終夜のいう〝旭〟〝日奈〟という名前そのものが胸を刺している気がする。
反発していると言い換えることも出来る気がする。しかし、肝心の反発する理由については一つもわからない。
「旭と日奈と宵が、世界の全てだもんね?」
ただ事実を述べているだけの終夜の言葉に深く傷つく。
三人が世界の全て。
肯定しようとするなにかを押しやって、別のなにかが反発する。違和感という小さな形で。
本当に三人だけが、世界の全てだっただろうか。
そんなに単純な話ではない気がして。だけど明確に言葉にすることは出来そうにない。
明依は俯いて考えていた。
何かが違う。何かがおかしい。
何か、大切なひとピースを忘れている。あともう一つあれば、全体像が見えるような。
「かわいそうに」
しかし終夜は、考える事を拒むように挑発的な言葉を吐くと明依の顔を掴んでいる手に力を込めた。
顔をしかめた明依の意識は、一瞬で思考から目の前の終夜へと切り替わる。
「慰めてあげようか?」
何だろう。この違和感は。
胸が苦しい、気がする。
終夜は以前、自分の手を振り払おうと思わないのは、〝力や体力じゃ到底、敵わない人間。当たり前の顔をして予測不能の動きをする人間。だけど、直接的に害はないと思われる人間〟と脳みそが終夜という人間を判断した結果だと話していた。
まだぼんやりとしている頭ではそれがいつの事だったか思い出すことも出来ない。
しかし、今の明依には終夜の手を振り払おうと思わないのがそれだけだとは思わなかった。
この苦しみの原因はなんだ。
終夜の事を何もしらないのに。
本当に何も知らなかっただろうか。
絶対に何か、おかしい。
終夜の首に、刀が入り込もうとしている。
明依の目にはまだ、その様子は景色として映っていた。
終夜は目を見開いて、刀を止めようととっさに手で刀を握る素振りをする。
そこでやっと明依は口を開いた。
「終夜……!!」
血が噴き出して、終夜が視界から消えた方向へ顔を向けようとしたのに、今度は別の誰かが顔に触れられたことで終夜に視線を向ける事は許されなかった。
「終夜はこっち」
吹っ飛んでいったはずの終夜の声が、すぐ近くにある。しかし、先ほどよりもずっと親し気に、ふてくされた声で。
目の前には終夜がいた。
先ほどの終夜と喋り方も触れ方も、全然違う。
どうして終夜が二人。疑問と並行して感じるのは、息を抜いてしまいそうなほどの安心感。
どうして終夜が生きていると分かって、安心しているのだろう。
どうして目の前の終夜はこんなに、優し気な雰囲気を持っているんだろう。
これはきっと、間違った感情で。終夜は敵のはずで。
本当に、そうだろうか。
割れそうな頭痛がビリビリと走り抜け、明依は頭を抱えた。
「明依!」
「触らないで……!!」
明依は思わず終夜の手を打ち払った。
「どうして平気で人を殺せるの!?」
終夜が先ほどまで目の前にいた終夜を殺したからなのか、それとも今まで利用されてきたことが根深かったのか。
どうしてこの言葉を選んだのか、明依自身にもわからなかった。
また利用するクセに。そんな気持ちがあるのに、その言葉は口にしてはいけなかったような気もしている。
明依の言葉に、終夜は何も返事をしない。
明依はゆっくりと、先ほどまで側にいたはずの乱暴な終夜を見た。
しかしその間に終夜が入り込んだことで、彼の姿は見えなかった。
「見なくていい。傷になる」
この優しさはなんだ。どうしてこんな気持ちになるんだろう。
「また、私を騙すの……?」
「騙すって?」
「いつも終夜は、私に嘘をつく」
〝私に嘘をつく〟それはまるで二人の距離感に似合わない、親し気な響き。
こんな言葉は似合わない。そう思うのに、これが真っ当な言葉のようにも思う。
終夜はほんの少しだけ、一瞬だけ、悲しそうな顔をした。
どうしてそんな顔をするのだろう。演技だろうか。いいように丸め込むための演技。
頭の働く限り全てを使って状況を整理している明依をよそに、終夜は気付けばもう冷静な様子で明依を見ていた。
「ここがどこかわかる?」
何の脈絡もなく、そういう。
「それを聞いて何に、」
「いいから。答えて」
終夜の圧に明依は押し黙った。そういえば、ここはどこだっけ。
明依はあたりを見回して、満月屋ではない事を確認する。
そして記憶の限り経緯をたどると、案外簡単に答えは出た。
「……珠名屋」
珠名屋だ。光一つ入らない珠名屋。ここは、満月屋とは随分違う。
ただ、認識しただけ。
それなのにまるでたった今この妓楼に放り込まれたみたいに、背筋を冷たい何かが這う。
「ここに何しに来たの?」
「……ここに……」
日奈と旭。
そうだ。日奈と旭に会うためにここに来たんだ。それなのに一体、何をしているんだろう。
「日奈と旭に、会いに」
「死んだ人間に会いに来たの?」
「……だけど私は確かに、日奈と旭を見たの」
「うん、知ってるよ。明依が俺に、そう言ったんだから」
そう言った? 一体いつだ。いつ、終夜にそんな話をしたんだろう。
「一緒に帰ろう」
また頭痛がする予感を、終夜の言葉が遮る。
「……帰るってどこに?」
「明依の帰る場所はどこ?」
やたら質問が多い。そう思っている所とは別の部分で、脳みそは終夜の質問の答えを算出しようと働いている。
帰る場所。帰る場所はどこだろう。
満月屋に決まっている。いや、そんなわけはない。旭が死んで、日奈が死んでそれから。雪を側に置くために松ノ位に上がりたくて。それから終夜を説得するために松ノ位に。
どうして終夜を説得しなければいけなかったのだろうか。
「……私……」
頭に霞がかかっている事を、明確に理解する。
しかしどうすれば実体のない霧を払う事が出来るのか、明依には見当もつかなかった。
「二年前の話だ」
終夜は握っている刀を放った。刀はあっけなく、畳に落ちる。
警戒する明依をよそに、終夜は何も持っていないとでも言いたげに、手を顔の前に上げてゆっくりと明依のすぐ前に胡坐をかいて座った。
自分に見せているとは思えないくらい、優しい顔をして。
終夜が無防備に、目の前に座り込んでいる。
酷い人間のはずだ。それなのに、優しい終夜の表情を知っている気がして。
「明依が引退の花魁道中をした時の話」
引退の花魁道中。
一体何を引退したのだっただろうか。そうだ。松ノ位だ。二年前、松ノ位に昇格した。
引退して遊女をやめて、満月屋から離れたんだ。それから、どうしたんだっけ。
「一人で吉原に残ろうとする俺の所に走ってきた。覚えてる?」
そうだ。たくさんの人に怒られ、世間の批判とそれから称賛を浴びた。
あの時は終夜が主郭の中に匿って守ってくれた。
「一緒にいるって、明依が言ってくれたんだよ」
明依は終夜を見て視線を揺らした。いつもよりずっと雰囲気が柔らかくて。しかしその終夜さえ、知っている気がするのだ。
大事なことを忘れている。
終夜に関わる、大切なことだ。
「俺がどれだけ嬉しかったか、わかる? 明依」
それは心の一部分を、堪らなく幸福に染める。
だけどまた別のどこかでは、終夜はそんなことを言わないと思っている。
何かがおかしい。絶対になにかがおかしいのは分かっていて。
だけど堪らなく、終夜が愛しい気持ちになる。その気持ちの在処が、見つからない。
だけど心の中には明らかに、終夜に絡む何かがあって。
明依の目からぽろぽろと涙が零れた。
胸が締め付けられる。受け入れると苦しくなると、本能が思い出すことを拒絶しているような。
なんとなくわかっているこの感覚は、いつか日奈と旭が死んでから見た夢のようだ。夢の中では二人は生きていて、一緒に走っていた。だけど目を覚ますと、一気に現実に引き戻される。
そんな現実と夢の狭間にいるみたいに。
「思い出すと辛いって思うなら、何も思い出さなくていいよ。明依の代わりに俺が全部、覚えてるから」
終夜という男は、そんな優しい言葉をかける人ではないはずじゃないか。
それと同時に、終夜に全部背負わせるわけにはいかないと心が言うのだ。
「なにも思い出さなくていいから、一緒にいようよ」
終夜は明依の涙を袖で拭った。
途端に、ちくりと胸を刺して、頭の中には日奈の顔が浮かんだ。
この痛みを知っている。
明依は終夜へ片手を伸ばした。終夜はためらいもせず、伸ばした明依の手を握る。
断続的な痛みが走る。まるで心臓の鼓動に合わせているみたいに。
胸が確かに痛んでいる。痛んでいるのに、ずっとこうしたかったような気がする。
終夜は身を乗り出して、ゆっくりと明依を抱きしめた。明依は思わず身を固くして、それから終夜の腕の中に納まっている事実を認識すると安心して、力を抜いた。
気を緩めれば胸が痛んで。痛くて痛くて、仕方がない。
よく知っている。避けてきた痛みだ。
この痛みに向き合う事が怖くて、ずっとずっと避けてきた。
「痛いね」
終夜も同じ気持ちでいる。
終夜と自分の共通点なんてあっただろうか。
そう自分自身に問いかけてすぐ思い出す。
いったい今まで、何を考えていたんだろうと思うくらい。
思い返してみれば今までの事はやはり、夢から目覚めてすぐ現実との区別がつかない時の感覚に似ている。
「どうして痛いのか、わかる?」
明依はこくりと頷いた。
終夜は少しだけ間を開けて、それから口を開く。
「……それは、どうして?」
この胸の痛みは――
「裏切ったから」
薄い靄はかき消えて、ありのままの世界を見せる。
「私と終夜が、日奈と旭を裏切ったから」
日奈と旭が死んだ世界で、二人の想いを裏切って終夜と吉原という地獄に縛り付けられることを選んだ。
忘れて堪るかと、心が言う。
不明確に造られた世界から、残酷な現実・地獄の最下層へ。
終夜は相変わらず、挑発的に言う。
しかし明依は自分の心の内側に違和感。
終夜のいう〝旭〟〝日奈〟という名前そのものが胸を刺している気がする。
反発していると言い換えることも出来る気がする。しかし、肝心の反発する理由については一つもわからない。
「旭と日奈と宵が、世界の全てだもんね?」
ただ事実を述べているだけの終夜の言葉に深く傷つく。
三人が世界の全て。
肯定しようとするなにかを押しやって、別のなにかが反発する。違和感という小さな形で。
本当に三人だけが、世界の全てだっただろうか。
そんなに単純な話ではない気がして。だけど明確に言葉にすることは出来そうにない。
明依は俯いて考えていた。
何かが違う。何かがおかしい。
何か、大切なひとピースを忘れている。あともう一つあれば、全体像が見えるような。
「かわいそうに」
しかし終夜は、考える事を拒むように挑発的な言葉を吐くと明依の顔を掴んでいる手に力を込めた。
顔をしかめた明依の意識は、一瞬で思考から目の前の終夜へと切り替わる。
「慰めてあげようか?」
何だろう。この違和感は。
胸が苦しい、気がする。
終夜は以前、自分の手を振り払おうと思わないのは、〝力や体力じゃ到底、敵わない人間。当たり前の顔をして予測不能の動きをする人間。だけど、直接的に害はないと思われる人間〟と脳みそが終夜という人間を判断した結果だと話していた。
まだぼんやりとしている頭ではそれがいつの事だったか思い出すことも出来ない。
しかし、今の明依には終夜の手を振り払おうと思わないのがそれだけだとは思わなかった。
この苦しみの原因はなんだ。
終夜の事を何もしらないのに。
本当に何も知らなかっただろうか。
絶対に何か、おかしい。
終夜の首に、刀が入り込もうとしている。
明依の目にはまだ、その様子は景色として映っていた。
終夜は目を見開いて、刀を止めようととっさに手で刀を握る素振りをする。
そこでやっと明依は口を開いた。
「終夜……!!」
血が噴き出して、終夜が視界から消えた方向へ顔を向けようとしたのに、今度は別の誰かが顔に触れられたことで終夜に視線を向ける事は許されなかった。
「終夜はこっち」
吹っ飛んでいったはずの終夜の声が、すぐ近くにある。しかし、先ほどよりもずっと親し気に、ふてくされた声で。
目の前には終夜がいた。
先ほどの終夜と喋り方も触れ方も、全然違う。
どうして終夜が二人。疑問と並行して感じるのは、息を抜いてしまいそうなほどの安心感。
どうして終夜が生きていると分かって、安心しているのだろう。
どうして目の前の終夜はこんなに、優し気な雰囲気を持っているんだろう。
これはきっと、間違った感情で。終夜は敵のはずで。
本当に、そうだろうか。
割れそうな頭痛がビリビリと走り抜け、明依は頭を抱えた。
「明依!」
「触らないで……!!」
明依は思わず終夜の手を打ち払った。
「どうして平気で人を殺せるの!?」
終夜が先ほどまで目の前にいた終夜を殺したからなのか、それとも今まで利用されてきたことが根深かったのか。
どうしてこの言葉を選んだのか、明依自身にもわからなかった。
また利用するクセに。そんな気持ちがあるのに、その言葉は口にしてはいけなかったような気もしている。
明依の言葉に、終夜は何も返事をしない。
明依はゆっくりと、先ほどまで側にいたはずの乱暴な終夜を見た。
しかしその間に終夜が入り込んだことで、彼の姿は見えなかった。
「見なくていい。傷になる」
この優しさはなんだ。どうしてこんな気持ちになるんだろう。
「また、私を騙すの……?」
「騙すって?」
「いつも終夜は、私に嘘をつく」
〝私に嘘をつく〟それはまるで二人の距離感に似合わない、親し気な響き。
こんな言葉は似合わない。そう思うのに、これが真っ当な言葉のようにも思う。
終夜はほんの少しだけ、一瞬だけ、悲しそうな顔をした。
どうしてそんな顔をするのだろう。演技だろうか。いいように丸め込むための演技。
頭の働く限り全てを使って状況を整理している明依をよそに、終夜は気付けばもう冷静な様子で明依を見ていた。
「ここがどこかわかる?」
何の脈絡もなく、そういう。
「それを聞いて何に、」
「いいから。答えて」
終夜の圧に明依は押し黙った。そういえば、ここはどこだっけ。
明依はあたりを見回して、満月屋ではない事を確認する。
そして記憶の限り経緯をたどると、案外簡単に答えは出た。
「……珠名屋」
珠名屋だ。光一つ入らない珠名屋。ここは、満月屋とは随分違う。
ただ、認識しただけ。
それなのにまるでたった今この妓楼に放り込まれたみたいに、背筋を冷たい何かが這う。
「ここに何しに来たの?」
「……ここに……」
日奈と旭。
そうだ。日奈と旭に会うためにここに来たんだ。それなのに一体、何をしているんだろう。
「日奈と旭に、会いに」
「死んだ人間に会いに来たの?」
「……だけど私は確かに、日奈と旭を見たの」
「うん、知ってるよ。明依が俺に、そう言ったんだから」
そう言った? 一体いつだ。いつ、終夜にそんな話をしたんだろう。
「一緒に帰ろう」
また頭痛がする予感を、終夜の言葉が遮る。
「……帰るってどこに?」
「明依の帰る場所はどこ?」
やたら質問が多い。そう思っている所とは別の部分で、脳みそは終夜の質問の答えを算出しようと働いている。
帰る場所。帰る場所はどこだろう。
満月屋に決まっている。いや、そんなわけはない。旭が死んで、日奈が死んでそれから。雪を側に置くために松ノ位に上がりたくて。それから終夜を説得するために松ノ位に。
どうして終夜を説得しなければいけなかったのだろうか。
「……私……」
頭に霞がかかっている事を、明確に理解する。
しかしどうすれば実体のない霧を払う事が出来るのか、明依には見当もつかなかった。
「二年前の話だ」
終夜は握っている刀を放った。刀はあっけなく、畳に落ちる。
警戒する明依をよそに、終夜は何も持っていないとでも言いたげに、手を顔の前に上げてゆっくりと明依のすぐ前に胡坐をかいて座った。
自分に見せているとは思えないくらい、優しい顔をして。
終夜が無防備に、目の前に座り込んでいる。
酷い人間のはずだ。それなのに、優しい終夜の表情を知っている気がして。
「明依が引退の花魁道中をした時の話」
引退の花魁道中。
一体何を引退したのだっただろうか。そうだ。松ノ位だ。二年前、松ノ位に昇格した。
引退して遊女をやめて、満月屋から離れたんだ。それから、どうしたんだっけ。
「一人で吉原に残ろうとする俺の所に走ってきた。覚えてる?」
そうだ。たくさんの人に怒られ、世間の批判とそれから称賛を浴びた。
あの時は終夜が主郭の中に匿って守ってくれた。
「一緒にいるって、明依が言ってくれたんだよ」
明依は終夜を見て視線を揺らした。いつもよりずっと雰囲気が柔らかくて。しかしその終夜さえ、知っている気がするのだ。
大事なことを忘れている。
終夜に関わる、大切なことだ。
「俺がどれだけ嬉しかったか、わかる? 明依」
それは心の一部分を、堪らなく幸福に染める。
だけどまた別のどこかでは、終夜はそんなことを言わないと思っている。
何かがおかしい。絶対になにかがおかしいのは分かっていて。
だけど堪らなく、終夜が愛しい気持ちになる。その気持ちの在処が、見つからない。
だけど心の中には明らかに、終夜に絡む何かがあって。
明依の目からぽろぽろと涙が零れた。
胸が締め付けられる。受け入れると苦しくなると、本能が思い出すことを拒絶しているような。
なんとなくわかっているこの感覚は、いつか日奈と旭が死んでから見た夢のようだ。夢の中では二人は生きていて、一緒に走っていた。だけど目を覚ますと、一気に現実に引き戻される。
そんな現実と夢の狭間にいるみたいに。
「思い出すと辛いって思うなら、何も思い出さなくていいよ。明依の代わりに俺が全部、覚えてるから」
終夜という男は、そんな優しい言葉をかける人ではないはずじゃないか。
それと同時に、終夜に全部背負わせるわけにはいかないと心が言うのだ。
「なにも思い出さなくていいから、一緒にいようよ」
終夜は明依の涙を袖で拭った。
途端に、ちくりと胸を刺して、頭の中には日奈の顔が浮かんだ。
この痛みを知っている。
明依は終夜へ片手を伸ばした。終夜はためらいもせず、伸ばした明依の手を握る。
断続的な痛みが走る。まるで心臓の鼓動に合わせているみたいに。
胸が確かに痛んでいる。痛んでいるのに、ずっとこうしたかったような気がする。
終夜は身を乗り出して、ゆっくりと明依を抱きしめた。明依は思わず身を固くして、それから終夜の腕の中に納まっている事実を認識すると安心して、力を抜いた。
気を緩めれば胸が痛んで。痛くて痛くて、仕方がない。
よく知っている。避けてきた痛みだ。
この痛みに向き合う事が怖くて、ずっとずっと避けてきた。
「痛いね」
終夜も同じ気持ちでいる。
終夜と自分の共通点なんてあっただろうか。
そう自分自身に問いかけてすぐ思い出す。
いったい今まで、何を考えていたんだろうと思うくらい。
思い返してみれば今までの事はやはり、夢から目覚めてすぐ現実との区別がつかない時の感覚に似ている。
「どうして痛いのか、わかる?」
明依はこくりと頷いた。
終夜は少しだけ間を開けて、それから口を開く。
「……それは、どうして?」
この胸の痛みは――
「裏切ったから」
薄い靄はかき消えて、ありのままの世界を見せる。
「私と終夜が、日奈と旭を裏切ったから」
日奈と旭が死んだ世界で、二人の想いを裏切って終夜と吉原という地獄に縛り付けられることを選んだ。
忘れて堪るかと、心が言う。
不明確に造られた世界から、残酷な現実・地獄の最下層へ。



