造花街・吉原の陰謀-百鬼夜行-

「お尋ねしたいのですが」

 一人の女が珠名屋の前に立つ男に話しかけた。女性にしては低く、しかし艶のある声で。
 凛とした芯のある女性であることが見て取れる。しかし、少し眉を潜める様子は否応なく相手に困っている事を想定させる。

 明依は梅雨の着物を羽織って建物の隙間からその様子を見ていた。

 今しがた陰に話しかけた女性は梅雨。
 身包みをはがされ、はがされた自分の着物を身に着ける梅雨を見ていた明依の目から見ても完璧な女性だった。

 所作や声色がそうさせるのか。一度スイッチが入ってしまえば、どこからどう見ても女性にしか見えない。
 凄い、という一言に尽きる。

 二人の陰は警戒した様子を見せたが、梅雨の困った表情に絆されたのかそれとも、梅雨の美しさがそうさせたのか、陰の男二人は警戒を解いた。

「なんだ」
「困り事か」

 陰の男二人は、何の警戒も見せていない様子で梅雨に問いかける。

「はい……。あの、ここはどのあたりですか。スマホを預けてしまったので、どうしていいのかわからなくて……」

 観光客を装い迷い込んだふりをして、電子機器を預ける吉原を利用し、警戒心を解く。
 細かく計算された結果なのだろうが、はたから見ていても本当にただ困っている女性にしか見えない。

 梅雨は二年前の抗争まで、暮相の隙を突く為に喋れないふりをしていた。
 しかし今女性として喋っている所を見ている明依からすれば、喋らない選択をする必要はどこにもないように思える。喋っていても完璧な女性だった。

 聞く人が聞けば、ほんの少しの綻びがあるのかもしれない。

 明依は二年前の緊張感の走る抗争を思い出していた。
 暮相の片目をつぶすという一瞬の隙を突くために、寸分の狂いの無いように計算された梅雨の存在。
 梅雨の能力の高さありきの話だとしても、今となってみても終夜の用意周到さが恐ろしい。しかし、同時に誇らしくもあった。

「吉原ではよくある事だ。連れがいないのか?」
「はぐれてしまったんです。あの、大きな通りはどちらでしょう」
「それなら……」

 陰の男が道を指さそうと腕を上げた。
 梅雨は道案内をしようとする男の腕を掴むと、隙が出来た男の腹部に膝を沈めた。
 遠慮のない梅雨の様子に、明依は思わず顔をしかめた。

「貴様、」

 男の腹部に一撃を見舞った足でもう一人の男のこめかみに綺麗な形の蹴りが入ると、男は吹き飛んで動きを止めた。

 恐ろしい。その一言に尽きる。
 梅雨に恐怖心が芽生えた明依だったが、梅雨が振り返って手招きをしたことで平常心を取り戻した。
 明依は小走りで梅雨の元へと走る。

「本当にありがとう梅雨ちゃん」
「ああ。そこの道で着替えて、」

 梅雨は言葉を止めて辺りに耳を澄ませる。それから明依を珠名屋の暖簾の向こうに押し込んだ。
 その途中、明依の視界の端には陰が二人歩いていた。

「さっさと行け」

 梅雨はそう言うと、着物の重なりを握りしめて陰の男の所へと走って行った。

「助けてください……!」

 二人の陰の前にしゃがみこむ梅雨の身体は小刻みに震えている。

「どうした。何があった?」
「あの人たちが目の前で……! 私怖くて……」

 梅雨はそう言うと震える両手で顔を覆った。

「落ち着いていい。もう大丈夫だ。どんなヤツだった?」
「男の人で……眼鏡をかけて、刀を持っていました。顔以外、肌は全部隠れていて……」

 そういう梅雨の言葉を背中で聞きながら、そのいで立ちはもしかしなくても晴朗の事ではと思い、晴朗の事をちょっと哀れに思った。
 しかし晴朗ならこれくらいの事は朝飯前でやってのけそうで、頭のおかしい彼はけろっとした顔をしていそう。というほぼ事実を頭の中ででっちあげると、哀れな気持ちはあっという間にどこかに消え去った。

 梅雨への感謝を心の中で伝えながら、明依は暖簾をくぐって見えている珠名屋の中に視線を向けた。

 海の言っていた通り、雰囲気で言えば完全にお化け屋敷。
 やはり妓楼の中は提灯の光や月の明かり、それから日光が入ってくる様子はなさそうだ。

 心もとないろうそくの光が、ぽつりぽつりと灯ってはいるものの、廊下の奥は見えない。あの先は本当の地獄に続いていると言われても、何も驚きはしない。

 外からの光を遮断すると室内はこんなに暗くなるなんて、知らなかった。

 一般常識から外れた異質な様子は、宵が終夜にとらえられた時に向かった地下に似ている。しかし、様子だけでいえば珠名屋の方がよほど恐ろしい。見慣れているはずの日本屋敷の形をしているからこそ、明確に異質な雰囲気を感じていた。

「これはこれは黎明大夫」

 目の前には、正座で向かい入れる老婆が一人。
 明依は思わず息を呑み、同時に肩を浮かせた。

「お待ちしておりました」

 老婆は薄い笑顔を貼り付けている。
 どこにでもいそうな妓楼の案内人。不気味なことには変わりないが、この空間に人がいる事実は安心感があるのは、きっと少しおかしくなってしまっているからだろう。

「ご用件を伺いましょうぞ」
「……地獄大夫。……乙星さんはいらっしゃいますか」

 老婆は薄い笑顔を貼り付けたまま、明依の言葉に反応を示さない。

「あの……」
「はい。ご用件を伺いましょうぞ」

 話しかけると返事が返ってくる。
 明依が黙ると、老婆は辛抱している様子も見せないでただ薄い笑顔を張り付けたまま明依の言葉を待っていた。
 まるで、そう仕組まれた人形のよう。

 どう言えばいいの。頭の中をぐるぐると廻り、困った結果、目的である人の名前を言う事にした。

「……日奈と旭に、会いたいんです」

 口に出すと、それはとても間抜けな事のように思えた。
 自分の中での納得ともいえる。二人は死んだじゃないか、という納得だ。

 こんなところにまで来て、一体何を言っているんだと、冷静さを少し取り戻した気になったのに

「さようでしたか。雛菊と旭に」

 まるで当たり前のように、老婆が言うから

「あなたが訪ねてきたと聞けば二人は大層喜ぶでしょう。黎明大夫」

 心臓を見えない何かに鷲掴みにされた様な、錯覚。
 
 どういうことだと混乱しているのに、この先にあるものに期待をしている。

 日奈と旭は死んだという事は、誰よりも知っているはずなのに。

「ではどうぞ中に」

 引き返せない。この気持ちは好奇心なんて可愛いものではない。
 きっと終夜は、関係ない。

 もっと本能に近いもの。心の底から渇望する何か。むしろ、これ以外はいらないのではないかと思うくらい。

「まずはお召し物をなんとかしませんとねえ。二人に会おうとお思いなんですから」

 老婆のその言葉は、心臓を刺す最後のトドメのようにも思えた。

 日奈と旭は死んだ。死んだところをこの目で見て、終夜と一緒に乗り越えて行こうと思った。

 自分の中に出来上がった変わりようのない事実と付随する感情を丁寧になぞる上から、大波のように覆いかぶるのは

 日奈と旭に会える

 という、すべてを一瞬にして忘れさせる麻薬のような、なにか。

 死んだはずの二人が何者なのか。正体を知りたかっただけのはずなのに、〝日奈〟と〝旭〟という言葉を自分が発した三浦屋の帰りからずっと、こうやって二人の存在に囚われる事が決まっていたような。