「あ、あの……」
「バイロン様から連絡は頂いております」

 凍り付くようなその冷たい視線に気圧(けお)されながらも、なんとか会話の糸口を見つけようとジュリエットはおずおずと口を開いたが、扉の向こう側にいた女性は有無を言わさない口調で短く答えた。そしてそのままジュリエットから顔を背けると苦々しそうに呟いた。

「全く、なぜこんな……」

 そう簡単にいくわけではないだろうとある程度の心づもりはしてきたつもりだった。だが、ここまではっきりと拒絶されるとは思っていなかった。ジュリエットは途方に暮れた。バイロン氏の言葉は嘘だったのだろうか。彼はおずおずと事務所のドアを開けて入って来たジュリエットを見てこう言ったのだ。あなたなら大丈夫だ、と。その言葉に縋ってここまでやって来たのに、やはりここにもわたくしの居場所はなかったのか……。
 だが、今ここでそれを認めてしまうわけにはいかない。とにかく、まずはこの館の主に会わなければ。ジュリエットが折れかけた心を奮い立たせて口を開こうとしたのと同時に、再び冷たい声が彼女に投げられた。

「あの」
「馬車がいないようですが」
「はい?」
「だから、馬車ですよ。あなたが乗って来た馬車はどこで待っているのですか?」
「え、あの、もう帰ってもらいました。門のところで」
「帰った? 門のところで?」

 ありえないといった声が返ってきて、ジュリエットはますます困惑する。

「あの、それが何か……?」
「まさかとは思いますが、門からここまで歩いていらしたのですか?」
「はい」
「この暑い昼日中(ひるひなか)に、一人で? 供の者もつけず?」
「はい……」

 自分では何がおかしいのかよくわからなかったのだが、ジュリエットの返事に対してその女性はありえないといった表情で首を左右に振り、今度ははっきり聞こえるほどにあからさまな溜息をついた。

「あの、奥様」
「私はここの女主人ではありません。ただの家事使用人(ハウスメイド)です」

 相変わらずの木で鼻をくくるような調子でぴしゃりと言われて、ジュリエットは困り切ってしまった。あなたが誰かなんて、そんなこと知るわけないでしょう、あまりに尊大な態度だから、ここの女主人なのかと思っただけよ。さすがのジュリエットもこれには少し腹が立った。その勢いを借りて、自分がやらねばならないことを言葉に出す。

「そ、そうですか。それは失礼しました。ではあの……なんとお呼びすれば?」
「……マーシャ、で結構です」
「では《《マーシャさん》》、改めてこちらのご当主様へのお取次ぎをお願いします。このお手紙をお渡しくださればわかるはずです」
「……」

 帰れ、と目の前でドアを閉められてしまったらどうしようかと、ジュリエットは内心ハラハラしながら返事を待った。が、意外にもマーシャはその言葉を聞くと押し黙り、手の中の封筒とジュリエットを何度か交互に見て、やがて仕方ないといった様子でドアを開けた。

「こちらへどうぞ」

 そう言って顎で廊下の奥を示すと、さっさと歩き出してしまう。ジュリエットは慌ててマーシャを追いかけた。ようやく通してもらえた、長かった……だがそう思ったのも束の間、マーシャは大きくて立派な扉のある部屋の前をいくつも通り越すと、屋敷の端にある小さな部屋の粗末なドアを開けて、ジュリエットに中に入るよう促した。またしてもジュリエットには何が起こっているのかさっぱり理解できなかった。どう考えてもここは客間ではない、使用人の住む私室だ。……どういうことかしら?

「早く入って下さい。私は忙しいんです」
「あ、は、はい。失礼します」

 お尻を叩かれそうな勢いのマーシャに急かされて、おずおずと部屋に入る。その部屋には小さなベッドと箪笥、簡易な洗面台と、椅子が二脚置かれていた。その一つにマーシャは腰かけると、座るよう目線で示したので、ジュリエットはとりあえず言われた通り静かに腰を下ろした。

「《《クインズビー子爵令嬢様》》、今回のお話について、バイロン様からはどう聞いていらっしゃいますか?」
「どう、とは?」

 質問の意図が理解できず、訊き返したジュリエットに、マーシャの苛立ちがさらに積もったようだった。

「ですから、《《あなたがここで何をするか》》、ですよ」
「朗読と、手紙の代筆と伺っておりますが」
「雇い主については?」
「それが何も……。向こうに着けばわかるとしか」

 今日、ジュリエットが耳にした中で最大の溜息が聞こえてきた。

「全く、バイロン様も無責任が過ぎる……」

 マーシャはそう呟くと、苦虫を嚙み潰したような顔で黙ってしまった。その沈黙があまりにも刺々しくて冷たくて、それ以上どうすることもできず、仕方なくジュリエットはロンドンの弁護士事務所で交わした会話を思い出していた。