ロバートはものすごい勢いでいくつかの書簡を片付けた。張りのあるキビキビとした声で指示を出し、雑多な相談事を的確に処理していく。表情には気力がみなぎり、黒い瞳は何も見えていないとは到底思えないほど熱っぽく輝いていた。

 その様子を目の当たりにして、ジュリエットは今さらながら痛感した。たった一つの言葉が、たった一通の手紙が、これほど人を変えるのか、と。

 初めて会った時にロバートの底知れぬ絶望と悲嘆を目の当たりにしてからずっと、どうにかして彼に前を向いてほしいと思っていたし、自分なりに彼の助けになれるよう努力しているつもりではいた。けれど、しょせんロバートにとって自分はどこにでもいる代筆係でしかない。彼に頼ってもらえる存在になりたいなどと、そのような大それた望みを抱くことすらおこがましいのだということをジュリエットは改めて思い知らされた。

 今、目の前にいるロバートは昨日までとは別人のようだ。ジュリエットの心の中では喜ばしい気持ちと罪悪感がせめぎ合っていた。ロバートに勇気を与えるきっかけを作ったのは実は侯爵令嬢セシリアではなく自分なのだと誇らしく思う気持ちと、それはすべていつわりの喜びでしかないという空虚さ。どちらも真実であるが故に、ジュリエットの心は小川に浮かべられた一枚の木の葉のように善と悪との間を行ったり来たりとせわしなく揺れ動いた。それと同時になぜか胸の奥が鋭い薔薇の棘でひっかかれたようにヒリヒリと痛むのに気がついて、ジュリエットは困惑した。わたくしは以前にも、この気持ちを味わったことがある。あれはそう、ウィリアム様……あなたのあの言葉が……。でも、なぜロバート様を前にしてこんな気持ちになるのかしら。きっと、ロバート様とセシリア様のような相思相愛の方に嫉妬しているのね。やはりわたくしは醜い人間なのだわと、ジュリエットは無意識に自分に戒めを課すことによって、己の感情に向かい合うことから逃げた。

 だが確かにマーシャの言葉通り、()()()()からの手紙が今のロバートにとって何物にも代えがたい希望の灯だったのは間違いない。ついにジュリエットがその手紙の封を切ろうとした時、ロバートは天を仰いで大きな溜息をつき、柄にもなくもじもじと不安げな表情でジュリエットに懇願した。

「何が書いてあるのだろうか……ああ待ってくれ、ジュリエット嬢。まだ開けないでくれ。私には気持ちを落ち着ける時間が必要だ。この数分後に、果たして私は天上の音楽の調べを耳にするのか、あるいは業火の燃え盛る地獄の底に突き落とされるのか……神よ、私に勇気を与え給え……よし」

 そして覚悟を決めたかのように、ジュリエットに向かって片手を上げて合図した。読んでくれ、と。

 封蝋にナイフを入れながら、ジュリエットは自分の指が氷のように冷たくなっているのを感じ取った。当然ながらこの封蝋も侯爵家のものではなく、ジュリエットが普段使っているもので代用している。これではまるでわたくしがロバート様に恋文を差し上げているようじゃないのと、ふとジュリエットはおかしくなった。

 カサカサと乾いた音を立てて折りたたまれた便箋を広げると、ジュリエットは呼吸を整えた。どうか声が震えませんように、ロバートに不審を抱かれませんようにと、そこに全神経を集中させて、ジュリエットは偽りの恋文を読み上げた。

「親愛なるロバート様……」

 時候の挨拶に始まり、手紙への礼、ロバートの健康状態を気遣う言葉、近況報告、そして肺炎からまだ回復しておらずあまり長時間机に向かっていられないという言い訳まで。自分ではかなり無理をして長文を書き上げたつもりでいたのだが、いざ声に出してみるとそれはあまりに短く、あっという間に読み終わってしまった。ジュリエットが手紙を読み終えても、ロバートは一言も言葉を発さず、部屋には気詰まりな沈黙が満ちた。

 ジュリエットは不安で押しつぶされそうになった。なにしろセシリアとロバートとの間でどんな書簡が取り交わされていたのかなど知る由もなかったのだから。書く前に一度マーシャに質問してはみたものの、使用人の彼女が当然そのような立ち入った内容まで知っているはずもなく、仕方なくジュリエットは全くの想像と、貴族の令嬢ならばこういう手紙を書くだろうという自分の経験を元にこの手紙を書きあげたのだ。そういった意味ではあの求人広告は非常に的確な内容で、ダリルがジュリエットのことをまさに求めていた人だと評したのも頷けた。

(大丈夫かしら、おかしくなかったかしら……。ロバート様は不審に思っておられないだろうか。今までセシリア様から受け取っていたお手紙と、あまりにも内容がかけ離れていたら、鋭いロバート様にはセシリア様が書いた手紙ではないことを感づかれてしまうかもしれない……嘘をつくことには慣れていたはずなのに……ああ、怖い、お願いロバート様、何か仰って下さいまし……)

「ジュリエット嬢」
「は、はい」

 ロバートから声をかけられたジュリエットは上ずった声で返事をして、恐る恐る顔を上げた。ロバートは瞳を閉じて、右手を胸に当てていた。そしてうっとりとした声で言った。

「もう一度、読んでくれ」
「え? もう一度? あ、はい」

 ジュリエットはロバートの真意を測りかねながら、もう一度手紙を読み返した。最後の『セシリア・ブラウニング』という署名まで読み終えてジュリエットが口を噤むと、ロバートは小さくその名を呟き、やがてゆっくりと目を開けて、ジュリエットの声がするほうに顔を向けた。その黒い瞳が潤んでいることに気が付いて、ジュリエットの胸がどきりと高鳴った。その表情は目の前にいるジュリエットに対して一かけらの疑いも抱いていないことは明白だった。

 ロバートは信じている。この手紙が紛れもなく侯爵令嬢セシリア・ブラウニングからのものであると。ジュリエットの背中を一筋の汗が伝った。