蹄の音と馬のいななきに続いて、馬車が停まり、タラップが軋む。
 そして玄関のドアが開いて、マーシャが玄関ホールでマントを脱いで、階段を昇って……。

 客室の書き物机の前に座っているジュリエットの耳には、その全てが聞こえていた。
 マーシャの慌てた声が二階の廊下に響く。……と言っても、これもすべて打ち合わせ済みだ。分かっているはずなのに、それでもやはりジュリエットの背中がビクッと跳ねた。

「旦那様、お返事でございますよ! セシリア様からの!」

 するとバタバタとけたたましい音が響き、慌ただしくドアが開け閉めされる音がしてから、ロバートの上ずった声が微かに聞こえた。

「マーシャ、ジュリエット嬢を呼んでくれ。今すぐに。急いで!」

 ジュリエットは膝の上で両手を固く握りしめて目を閉じた。足音が近づいてきて、客室のドアの前で止まった。

 コン、コン……。

 マーシャがゆっくりと客室のドアをノックした。

「ジュリエット様、旦那様がお呼びです。手紙を読んで欲しいと」
「……はい、ただ今」

 立ち上がって客室のドアを開けると、封筒の束を手にしたマーシャが立っていた。
 ジュリエットは黙って封筒の束を受け取るとマーシャの横を通り抜け、廊下に出た。すれ違いざまの一瞬の隙をついて、マーシャがそっと囁いた。

「頼みましたよ。……あなただけが頼りです」

 その言葉には答えず、ただジュリエットはほんのわずか、首を縦に振って、静かに客室のドアを閉めた。
 廊下を屋敷の反対側へ進む。いち早く足音に気づいたのだろう、ロバートの私室のドアをノックする間もなく、(はや)るロバートの弾んだ声が返ってきた。

「早く入ってくれ、ジュリエット嬢。さあ早く!」
「失礼します」

 私室に足を踏み入れたジュリエットが目にしたのは、一通の手紙を胸に抱きしめ、頬を紅潮させたロバートの姿だった。その黒い瞳は何も映していないはずなのに喜びの色が満ちていて、昨日までの憂鬱さは微塵も感じさせない。これほど溌溂(はつらつ)として生気にあふれるロバートを見るのは初めてで、それがまたジュリエットの心を逆に重く沈ませた。

「これを見てくれ、ジュリエット嬢。セシリアから返事が来たのだ。ああ、愛しいセシリア、あなたはやはり私のことを忘れてなどいなかったのだ。それなのに私は彼女の真心を一瞬でも疑ったりして、なんという心の汚い男なんだろう。セシリア、美しいセシリア……」
「それは、良うございましたね」

 なるべく他人行儀で冷たいと思われないよう気をつけてロバートに答えたつもりだったが、やはりどうしても抑揚のない無感情な言い方になってしまっていたかもしれない。ロバートがふとばつの悪そうな顔になった。

「……失礼した、ジュリエット嬢。少しはしゃぎすぎただろうか。……そうだ、あなたにお礼を言わなければな」

 そう言うとロバートはジュリエットに近づいたかと思うと、手探りでジュリエットの両手を探し当て、いきなりしっかりと握った。ジュリエットは心臓が止まりそうになったが、なぜかその手を離すことができず、されるがままになっていた。

「あっ、あのっ、ロバート様? わたくし、お礼を言われるようなことはしておりませんわ。その……代筆係として当然のことをしたまでで……」

 だがロバートはジュリエットの困惑など全く意に介さない様子で、しみじみと彼女に礼を述べた。それは初めて会った時、数週間前に聴いた冷淡で(さげす)みに満ちた声からは到底思い描けないほどの暖かさと親密さに満ちていた。

「あなたのおかげだ、ありがとう、ジュリエット嬢」
「わ、わたくしの……?」
「ああ、あなたが書いてくれた手紙がセシリアの心に触れたのだ」
「いえそんな、わたくしはただロバート様のお言葉通りに……」
「そんなことはない、あなたが私のために心を込めて書いてくれた言葉がセシリアの心に届いたのだ。ダリルが何度侯爵家に手紙を送っても、何の反応もなかったのに、こうして返事をくれたことが何よりの証拠だ」
「そう、ですか……お役に立てたのであれば、良かったです……」

 ジュリエットは思わず目を伏せた。見えていないとは分かっていても、あまりにもまっすぐなロバートの謝意を素直に受け取れない自分の表情を、誰にも見せたくなかったのだ。

 あの日、マーシャからジュリエットが雇われた本当の理由を聞かされ、自分もその企みの一員に加わることを決めてから、ジュリエットは毎夜遅くまで机に向かい、一通の手紙をしたためた。それはなかなかに骨の折れる作業で、筆は遅々として進まず、その間マーシャはあえて何も言わなかったが、出来上がりを今か今かと首を長くして待っているのは明白だった。それほどまでにロバートの苛立ちと絶望は深くなっていたのだ。そして昨日ようやくこれなら何とかと思えるものが出来上がったので、今日早速マーシャが上手いこと理由をつけて出かけてゆき、帰りに村の郵便局に寄ったら偶然手紙が届いていたという(てい)を装ったのだった。

 もちろん不安材料はいくつもあった。便箋もそれまでセシリア嬢が使っていたものとは全く違うものだし、何より封蝋のスタンプがどう頑張っても侯爵家と同じものなど手に入らない。だが遠慮がちにそれを指摘したジュリエットに向かって、マーシャはきっぱりと言い切った。セシリア様からのお手紙であるとさえ伝えれば、今の旦那様には便箋や封蝋などどうでも良いことです、どうせ見えないのだから、と。そこまで肝が据わっているのならと、ジュリエットはもうそういった細かいことは考えないことにした。

 ふと自分がマーシャから受け取った封筒の束を手にしていたことを思い出して、ジュリエットはロバートに問いかけた。折角の弾む心に水を差さないよう、細心の注意を払いながら。

「あの、ロバート様、あいにくお仕事のお手紙もいくつか届いておりまして……。どうしましょう、まずセシリア様からのお返事をお読みしましょうか?」
「ああ、もちろんだ!……あ、いや、やはり最後にしよう。かぐわしいスミレのようなあの方からの美しい言葉を耳にした後で海軍だのロンドンの館だのパーティーの誘いだの、そんな俗にまみれた言葉など聞きたくはない。そうと決まれば善は急げだ、ジュリエット嬢、初めてくれ」

 冷静であろうと努めようとはしているのだろうが、つい知らず知らずのうちにとろけるような笑みが浮かんでしまうロバートに向かって、ジュリエットは頷いた。よかった、これでまだ少し、自分の心を落ち着かせるための時間稼ぎができる……他でもないわたくし自身が書いた、()()()()()を読むという、罪を重ねる瞬間が来るまでに……。

 ジュリエットはこっそり小さく息を吐くと、いつもの場所に腰かけて、封筒の束を手に取った。