会ったこともない侯爵令嬢になりすまして、目の前にいる雇い主と恋文を交わし合う。そんなことが本当に上手くいくのだろうか。それに、そもそもなぜセシリア嬢はロバート様からのお手紙に返事を出されないのだろう。あんな……あんなに甘く熱く切ない情熱がほとばしるような恋文を読んで、心が全く動かないなんてことあるのかしら。わたくしだったらきっと……。

「ジュリエット様?」
「? あ、ああ、ごめんなさい。ちょっとびっくりして」

 マーシャに声をかけられて、ジュリエットは我に返った。改めてテーブルの上のロバートからの手紙を見ると、開封すらせずに送り返して来たようだ。

「これは読まずに送り返されてきたのですね。もうずっとこうなのですか?」
「旦那様が先の海戦でお怪我をされて、この荘園に療養のために戻ってこられた頃からでしょうか。と言っても旦那様はお目があの状態なので自力でお手紙を書くことができませんでしょう? それでずっとバイロン様のほうから近況をお伝えしていたのです。……目が見えないということは伏せて、右手を酷く負傷されたのでペンが持てないということにして」
「なるほど」

 マーシャの話を総合すると、こういうことらしかった。

 ロバートとセシリアが知り合ったのは今から2年と少し前。ブラウニング家で催された夜会でのことだったらしい。セシリア嬢は当時十七歳で社交界にデビューされたばかりだったが、既にその美しさが評判で、ロバートは一目で彼女に恋をしたのだという。

「旦那様はああいう真っ直ぐなお方ですから、すぐにセシリア様に熱烈な想いを寄せられるようになられました。セシリア様もやがてお手紙を下さるようになったのですが、お父上のブラウニング侯爵様がご結婚に反対されたのです。そうこうしているうちに旦那様の出征が決まって、しかも運の悪いことにその時ちょうどセシリア様が肺炎にかかられて、出征前のご挨拶もできないままになってしまわれました」

 手紙の中に病のことが書かれていたのはこのことだったのかとジュリエットは納得した。出征前のバタバタもあって機会を逃してしまったのだろう。それにロバート自身もまさか自分が暗闇の世界で生きることになるとはゆめゆめ思っていなかったに決まっている。すぐにまた会える…それが叶わぬ夢になった時、人はどれほど自分を責め、その選択を悔やむのか、ジュリエットには骨身に沁みて分かっていた。

「ではロバート様は、セシリア様からのお返事がないのは未だご病気から回復されていないせいでお手紙が書けないからだと思われている可能性がありますね」

 ジュリエットの推理に、マーシャは頷いて続けた。

 ブラウニング家にいくら訊ねてみてもなしのつぶてなので、もしかしたら本当にセシリア嬢は健康上の問題で手紙が書けないのかもしれない。ただ今回こうしてロバートからの手紙が封も切られないまま送り返されてきたことをロバートが知ったら、どれだけ悲しむか。ただでさえ視力を失って絶望のどん底にいる(あるじ)にこれ以上の悲しみを味わわせたくないのだと、マーシャは沈んだ声で言った。

「それでああいう求人広告を出されたのですね」
「ええ。あまり考えたくはないのですが、もしセシリア様がお心変わりをされたのだとしても、今それを旦那様に知らせることなど到底できません。失明されたことに加えて、セシリア様の愛まで失ったと知ったら、いかに旦那様といえど、もう生きて行くことができなくなってしまわれるでしょう。……いつかは真実を伝えなければならないとしても、せめてもう少し立ち直られるまで……セシリア様とのお手紙のやり取りが、少しでも前を向く手助けになるのならと、私とバイロン様はそう考えたのです」

 マーシャとダリルの企みがロバートを思いやる余りのことだというのは、ジュリエットにもよく分かった。だが、自分に侯爵令嬢など務まるだろうか。もともと内気で社交的ではないし、それに何よりわたくしは美しくはない。社交界の華と謳われる名門貴族など、自分にとっては雲の上のような存在だ。もしロバート様がそれで少しでもお元気になって下さるのであれば協力したいけれど……。

「お話はなんとなく分かりました。そういうことであればお手伝いさせて頂きたいとは思いますけれど、わたくしに侯爵令嬢が務まるでしょうか。もし露見したら余計にロバート様を傷つけてしまうのではないか、それが心配でなりません」

 ジュリエットの不安に、マーシャが背中を押すように言った。

「私達もこれがそういつまでも通用するものではないことは分かっています。問題を先送りして、旦那様を騙して現実から遠ざけているだけだということも……でもあの日、戦地から戻られて意識を取り戻した旦那様が、何も見えないとお知りになった時のお嘆きようを見ていた私には、その上セシリア様が心変わりをなされたなど、どうして言えましょうか……今もしそれを知ったら、旦那様は本当にご自分で命を絶っておしまいになるかもしれない……ですから……」

 マーシャの言葉の最後は嗚咽で聞き取れなかった。ジュリエットにはマーシャの気持ちが痛いほど理解できた。しばらくそのまま時が流れて、やがてジュリエットはマーシャにこう言った。

「やってみましょう」

 ジュリエットは腹を括った。元々ここへ来てロバートの目が見えないということを知りながら朗読係に収まった時点で、自分はもうパンドラの箱を半分開けてしまっていたのだから。であればこの際、行きつくところまで行ってやろう。それがわたくしにしかできないと言うのなら、わたくしの力で少しでも彼を救えるのなら。毒を喰らわば皿までもと言うではないか。勇気を出すのよ、ジュリエット。

 こうしてジュリエットはまた一つ、秘密を抱えることになった。

 ……だが、この時まだジュリエットは知らなかった。侯爵令嬢としてロバートに偽りの恋をすることが、そして真実を知らぬロバートからの深く激しい愛を受け取ることが、やがてどれほど辛く悲しい結末を迎えるのかということを。