「ジュリエット様、荷物が届きました」
客室の扉をノックするマーシャの声に、ジュリエットは振り返った。ドアを開けると、トランクと大きな箱を抱えたマーシャが相変わらずの素っ気ない表情で立っていた。
「まあ、重いのにすみません。言って下されば玄関まで取りに行きましたのに」
「全くですわ。次からはそうさせて頂きます。では私はこれで」
ドアを閉めて荷物を客室内に運び入れたジュリエットは、これでようやく着るものに悩まなくて済むとほっと胸を撫で下ろした。
グリーンウッド将軍の正式な朗読係として雇われてからすぐ、ジュリエットはロンドンにいる母親に手紙を書き、いくつか衣装を送ってほしいと頼んだ。当初喪服以外ほとんど大したドレスを持ってきていなかったおかげで、もう二週間以上もの間、ほとんど毎日同じ白いデイ・ドレスを着続ける羽目になったのだ。ドレスがないのも困ったが、それよりも困ったのが帽子だった。喪服に合わせる黒い絹のボンネットしか持ってきていなかったので、ここ数日の初夏の陽射しを遮るものが何一つなくてほとほと困り果てていたところだった。
とは言えジュリエットのワードローブ自体がそれほど豊かなわけではなかったので、トランクに入っていたドレスを整理するのにそう時間はかからなかった。昼のデイ・ドレスが三着、夜のディナー・ドレスが二着、そしてほとんど着る機会はないだろうけれど、もしもの時のためにイヴニング・ドレスが一着。帽子は淡いブルーのタフタのボンネットと、麦わらで編んでピンクのリボンを飾ったものが一つづつ。そのほかに細々したショールやちょっとした羽織りものの上着。……まあギリギリなんとかなるでしょうと、ジュリエットは頭の中で計算した。朗読係としての俸給は年30ポンドだが、支払いがいつ、どういう形になるのかはこれから調整して決めることになっていた。もしかしたら数ヶ月後に、最低限のドレスを仕立てるためにいくらかの現金を融通してもらわなければいけないかもしれない。グリーンウッド将軍は男性だから、淑女の着る物がどうやって出来ているのかなど、お考えになったこともないだろう。ということは……仕方ない、マーシャに相談するしかないかと、ジュリエットは少しばかり憂鬱になった。
だがまだ希望はある。あれ以来マーシャとの仲は急接近、とまでは行かなかったが、ジュリエットの口添えでロバートが私室の外に出る訓練を始めてから、マーシャの負担が飛躍的に減ったのは確かだ。二人が庭に出ている間にマーシャは主の私室を整えることができたし、今では何か用があればロバートが階下まで降りて来てくれるので、毎回呼び鈴が鳴るたびに長い螺旋階段を上り下りする必要もなくなった。それに関してはマーシャもそれなりに感謝してくれているらしく、最近はジュリエットに対して以前ほど敵意を剥き出しにすることは少なくなっていた。
朗読係と代筆の仕事も、ありがたいことにかなり上手く回るようになっていた。ジュリエットがやって来るまでに溜まっていたいくつもの手紙をようやく整理し終わって、最近は処理するものもそれほど多くない。むしろ本来の役目よりも、ロバートの求めに応じて小説や新聞を読んで聞かせたり、庭の散歩に付き合う時間のほうが長くなってしまっている節もある。全てが順調すぎるほど順調、と思いたいところだったが、一つだけジュリエットには気がかりなことがあった。
あの日ジュリエットはロバートに頼まれて情熱的な恋文を書いたが、あの恋文はどうなったのか、その顛末がずっと気になっていた。もちろんマーシャは命令通り翌日の朝一番で郵便局に出かけていったから、余程のことがない限り先方に届いているだろう。であればもうそろそろ返事が来てもおかしくない頃なのに、一向にその気配がない。さらに困ったことに、ここ数日、ロバートがジュリエットに手紙は来ていないかと何度も尋ねるようになっていた。
あの恋文のお返事のことを言われているのだ、と、ジュリエットにはすぐに分かった。あれほど募る想いを鮮烈にしたためた恋文を送られるのだから、お相手に対して何かしら返信が欲しいと思うのは無理もないこと。
お相手はどういう方なのだろうか、とジュリエットは想像を膨らませようとしたが、残念ながら全くその人物像が浮かび上がってこなかった。分かっているのはセシリアという名前と、たぶん相当な家柄の令嬢だろうということだけ。ジュリエットがあれこれ考えてもどうにもならないことではあったが、手紙が来ていないかと訊ねるたびにがっかりした様子で肩を落とすロバートの姿を見なければならないのは流石に精神的にきつくなってきていた。
その数日後、事態は思わぬ方向に動いた。
その朝も手紙が来ていないことを知ったロバートは、明らかに苛立ちを隠せないようになっていた。いつもなら朝食後はしばらくジュリエットと屋敷の周りを散歩するのに、その日は用意された朝食にもほとんど手をつけず、黙って一人で私室に籠ってしまった。ジュリエットが困り果てていると、隙をみてマーシャがジュリエットに素早く囁いた。
「今夜、旦那様がお休みになられた後で、私の部屋にいらして下さい。お話ししたいことがあります」
その夜遅く、マーシャはジュリエットを部屋に招き入れた。あの日のように向かい合って座ると、マーシャは何も言わずジュリエットの顔をまじまじと見つめた。ジュリエットは沈黙に耐えられなくなって口を開いた。
「お話というのは、ロバート様のお手紙のことですね?」
「お察しが早くて、助かります。仰るとおりです」
「何か困ったことでも起きたのですか?」
マーシャはそれには答えず、考えをまとめるかのようにしばらく目を閉じた。そしてジュリエットにこう尋ねた。
「ここへいらした日に、私はあなたにここで見たことは決して口外しないよう、お願いしました。覚えていらっしゃいますか?」
「もちろんですわ。それが何か?」
「実はあなたに、まだお話ししていないことがあるのです。けれど、この話を聞かれたら、あなたはもう引き返すことはできません。私とバイロン様の犯す罪に、あなたも手を貸すことになります。……ジュリエット様、旦那様のために、共犯者になる覚悟はおありですか?」
ジュリエットは驚かなかった。
ここへ来て以来、いやその前からずっと、何かがおかしいとは思っていた。何か、まだ自分に知らされていないことがある。それが何かはわからないけれど、この求人広告の本当の目的はそちらで、自分はそのために雇われたのだろうということは何となく感じていた。だからマーシャに共犯者になる覚悟はあるかと問われても、思ったよりは冷静でいられたし、もう既にほとんど答えは出ていた。
膝の上で組んだ手に視線を落としてから、ジュリエットは静かに言った。
「その前に、わたくしからも質問させて下さい。あなたがこれからお話ししようとなさっていることは、あの求人広告に関係することですね? 『貴族の女性らしい美しい文章を書ける方』という、あの広告に」
「仰る通りです」
「やはり、そうでしたか。ただの代筆係にわざわざこのような条件が付けられているのは何かおかしいと、ずっと思っておりました。でもマーシャさん、あなたはわたくしのロンドンでの評判をご存じでしょう? わたくしのような人でなしで良いのですか? ごめんなさい、当てこすりで言っているのではないのです。事実は事実として受け止めて頂かねばなりませんので」
「この二週間あまり、あなたの仕事ぶりを見させて頂いて、バイロン様と相談いたしました。あなたの噂はもちろん存じておりますし、正直、私はあなたに良い感情は抱いておりません。けれど、その上で伏してお願いしています。旦那様を救えるのはあなた以外おられません、ジュリエット様。それに共犯者とは言っても、警察に逮捕されたり新聞に名前が載るといったことは絶対にありません。今まで黙っていたことと、あなたに必要以上に辛く当たったことはお詫びします。どうか、力を貸して下さいませんか」
ここまで丁重に、真剣に話すマーシャを見るのは初めてだった。
ジュリエットは覚悟を決めた。
「お話しください、マーシャさん。ロバート様のお力になれるのであれば、わたくしにできることは何でもいたします」
マーシャが肩で大きく息をするのが、蝋燭の灯りに照らし出された。一通の手紙をテーブルに置くと、マーシャは声を潜めて言った。
「この方になりすまして、旦那様にお手紙を書いて頂きたいのです」
「どういうことですか、なりすます、ですって? それにこの方は……」
ジュリエットは震える手で、テーブルに置かれた手紙を手に取った。それはあの時、ジュリエットがロバートに依頼されて代筆した、あの恋文だった。
手紙の宛先には、こう書かれていた。
”セシリア・ブラウニング”
青ざめた顔で便箋を凝視するジュリエットに、マーシャは真実を告げた。
「そう、セシリア・ブラウニング様。ブラウニング侯爵家のご令嬢で、旦那様の想い人です」
ブラウニング侯爵家。それは大英帝国の名門貴族の一つで、セシリアは当代侯爵の二番目の令嬢だった。
客室の扉をノックするマーシャの声に、ジュリエットは振り返った。ドアを開けると、トランクと大きな箱を抱えたマーシャが相変わらずの素っ気ない表情で立っていた。
「まあ、重いのにすみません。言って下されば玄関まで取りに行きましたのに」
「全くですわ。次からはそうさせて頂きます。では私はこれで」
ドアを閉めて荷物を客室内に運び入れたジュリエットは、これでようやく着るものに悩まなくて済むとほっと胸を撫で下ろした。
グリーンウッド将軍の正式な朗読係として雇われてからすぐ、ジュリエットはロンドンにいる母親に手紙を書き、いくつか衣装を送ってほしいと頼んだ。当初喪服以外ほとんど大したドレスを持ってきていなかったおかげで、もう二週間以上もの間、ほとんど毎日同じ白いデイ・ドレスを着続ける羽目になったのだ。ドレスがないのも困ったが、それよりも困ったのが帽子だった。喪服に合わせる黒い絹のボンネットしか持ってきていなかったので、ここ数日の初夏の陽射しを遮るものが何一つなくてほとほと困り果てていたところだった。
とは言えジュリエットのワードローブ自体がそれほど豊かなわけではなかったので、トランクに入っていたドレスを整理するのにそう時間はかからなかった。昼のデイ・ドレスが三着、夜のディナー・ドレスが二着、そしてほとんど着る機会はないだろうけれど、もしもの時のためにイヴニング・ドレスが一着。帽子は淡いブルーのタフタのボンネットと、麦わらで編んでピンクのリボンを飾ったものが一つづつ。そのほかに細々したショールやちょっとした羽織りものの上着。……まあギリギリなんとかなるでしょうと、ジュリエットは頭の中で計算した。朗読係としての俸給は年30ポンドだが、支払いがいつ、どういう形になるのかはこれから調整して決めることになっていた。もしかしたら数ヶ月後に、最低限のドレスを仕立てるためにいくらかの現金を融通してもらわなければいけないかもしれない。グリーンウッド将軍は男性だから、淑女の着る物がどうやって出来ているのかなど、お考えになったこともないだろう。ということは……仕方ない、マーシャに相談するしかないかと、ジュリエットは少しばかり憂鬱になった。
だがまだ希望はある。あれ以来マーシャとの仲は急接近、とまでは行かなかったが、ジュリエットの口添えでロバートが私室の外に出る訓練を始めてから、マーシャの負担が飛躍的に減ったのは確かだ。二人が庭に出ている間にマーシャは主の私室を整えることができたし、今では何か用があればロバートが階下まで降りて来てくれるので、毎回呼び鈴が鳴るたびに長い螺旋階段を上り下りする必要もなくなった。それに関してはマーシャもそれなりに感謝してくれているらしく、最近はジュリエットに対して以前ほど敵意を剥き出しにすることは少なくなっていた。
朗読係と代筆の仕事も、ありがたいことにかなり上手く回るようになっていた。ジュリエットがやって来るまでに溜まっていたいくつもの手紙をようやく整理し終わって、最近は処理するものもそれほど多くない。むしろ本来の役目よりも、ロバートの求めに応じて小説や新聞を読んで聞かせたり、庭の散歩に付き合う時間のほうが長くなってしまっている節もある。全てが順調すぎるほど順調、と思いたいところだったが、一つだけジュリエットには気がかりなことがあった。
あの日ジュリエットはロバートに頼まれて情熱的な恋文を書いたが、あの恋文はどうなったのか、その顛末がずっと気になっていた。もちろんマーシャは命令通り翌日の朝一番で郵便局に出かけていったから、余程のことがない限り先方に届いているだろう。であればもうそろそろ返事が来てもおかしくない頃なのに、一向にその気配がない。さらに困ったことに、ここ数日、ロバートがジュリエットに手紙は来ていないかと何度も尋ねるようになっていた。
あの恋文のお返事のことを言われているのだ、と、ジュリエットにはすぐに分かった。あれほど募る想いを鮮烈にしたためた恋文を送られるのだから、お相手に対して何かしら返信が欲しいと思うのは無理もないこと。
お相手はどういう方なのだろうか、とジュリエットは想像を膨らませようとしたが、残念ながら全くその人物像が浮かび上がってこなかった。分かっているのはセシリアという名前と、たぶん相当な家柄の令嬢だろうということだけ。ジュリエットがあれこれ考えてもどうにもならないことではあったが、手紙が来ていないかと訊ねるたびにがっかりした様子で肩を落とすロバートの姿を見なければならないのは流石に精神的にきつくなってきていた。
その数日後、事態は思わぬ方向に動いた。
その朝も手紙が来ていないことを知ったロバートは、明らかに苛立ちを隠せないようになっていた。いつもなら朝食後はしばらくジュリエットと屋敷の周りを散歩するのに、その日は用意された朝食にもほとんど手をつけず、黙って一人で私室に籠ってしまった。ジュリエットが困り果てていると、隙をみてマーシャがジュリエットに素早く囁いた。
「今夜、旦那様がお休みになられた後で、私の部屋にいらして下さい。お話ししたいことがあります」
その夜遅く、マーシャはジュリエットを部屋に招き入れた。あの日のように向かい合って座ると、マーシャは何も言わずジュリエットの顔をまじまじと見つめた。ジュリエットは沈黙に耐えられなくなって口を開いた。
「お話というのは、ロバート様のお手紙のことですね?」
「お察しが早くて、助かります。仰るとおりです」
「何か困ったことでも起きたのですか?」
マーシャはそれには答えず、考えをまとめるかのようにしばらく目を閉じた。そしてジュリエットにこう尋ねた。
「ここへいらした日に、私はあなたにここで見たことは決して口外しないよう、お願いしました。覚えていらっしゃいますか?」
「もちろんですわ。それが何か?」
「実はあなたに、まだお話ししていないことがあるのです。けれど、この話を聞かれたら、あなたはもう引き返すことはできません。私とバイロン様の犯す罪に、あなたも手を貸すことになります。……ジュリエット様、旦那様のために、共犯者になる覚悟はおありですか?」
ジュリエットは驚かなかった。
ここへ来て以来、いやその前からずっと、何かがおかしいとは思っていた。何か、まだ自分に知らされていないことがある。それが何かはわからないけれど、この求人広告の本当の目的はそちらで、自分はそのために雇われたのだろうということは何となく感じていた。だからマーシャに共犯者になる覚悟はあるかと問われても、思ったよりは冷静でいられたし、もう既にほとんど答えは出ていた。
膝の上で組んだ手に視線を落としてから、ジュリエットは静かに言った。
「その前に、わたくしからも質問させて下さい。あなたがこれからお話ししようとなさっていることは、あの求人広告に関係することですね? 『貴族の女性らしい美しい文章を書ける方』という、あの広告に」
「仰る通りです」
「やはり、そうでしたか。ただの代筆係にわざわざこのような条件が付けられているのは何かおかしいと、ずっと思っておりました。でもマーシャさん、あなたはわたくしのロンドンでの評判をご存じでしょう? わたくしのような人でなしで良いのですか? ごめんなさい、当てこすりで言っているのではないのです。事実は事実として受け止めて頂かねばなりませんので」
「この二週間あまり、あなたの仕事ぶりを見させて頂いて、バイロン様と相談いたしました。あなたの噂はもちろん存じておりますし、正直、私はあなたに良い感情は抱いておりません。けれど、その上で伏してお願いしています。旦那様を救えるのはあなた以外おられません、ジュリエット様。それに共犯者とは言っても、警察に逮捕されたり新聞に名前が載るといったことは絶対にありません。今まで黙っていたことと、あなたに必要以上に辛く当たったことはお詫びします。どうか、力を貸して下さいませんか」
ここまで丁重に、真剣に話すマーシャを見るのは初めてだった。
ジュリエットは覚悟を決めた。
「お話しください、マーシャさん。ロバート様のお力になれるのであれば、わたくしにできることは何でもいたします」
マーシャが肩で大きく息をするのが、蝋燭の灯りに照らし出された。一通の手紙をテーブルに置くと、マーシャは声を潜めて言った。
「この方になりすまして、旦那様にお手紙を書いて頂きたいのです」
「どういうことですか、なりすます、ですって? それにこの方は……」
ジュリエットは震える手で、テーブルに置かれた手紙を手に取った。それはあの時、ジュリエットがロバートに依頼されて代筆した、あの恋文だった。
手紙の宛先には、こう書かれていた。
”セシリア・ブラウニング”
青ざめた顔で便箋を凝視するジュリエットに、マーシャは真実を告げた。
「そう、セシリア・ブラウニング様。ブラウニング侯爵家のご令嬢で、旦那様の想い人です」
ブラウニング侯爵家。それは大英帝国の名門貴族の一つで、セシリアは当代侯爵の二番目の令嬢だった。
