季節はあっという間に春から初夏に移ろうとしている。
外に出る訓練を始めてほんの数日で、グリーンウッド将軍の行動範囲は以前より桁違いに広くなっていた。視力を失って屋敷に引き籠って以来、それまでは私室とその隣にある図書室を往復するのがやっとだったのに、ジュリエットの手助けを借りた彼は屋敷の構造と広さをあっという間に完璧に頭の中に叩き込み、今ではステッキを頼りに厨房でも客間でもどこでもほぼ自由に歩き回れるようになっていた。
次は屋敷の前庭と裏庭に出たいと将軍が言うので、ここ数日間、二人は朝食後の数時間をほぼ屋外で過ごすようになっていた。今日も前庭の端にある薔薇の花壇まで歩を進めたところで少し息が上がって来たので、楡の木陰に置かれたベンチでしばし休むことにしたのだった。
いくつかその日処理する手紙のことなどについて言葉を交わした後で、不意に将軍がジュリエットに尋ねた。
「そう言えば、あなたがここへ来て今日で何日過ぎた?」
「今日は木曜日でございますから……あっ」
ジュリエットは完全に忘れていた。あの日将軍に一週間だけ時間をやると言われたことを。そうだったわ、わたくしはまだ閣下の朗読係として正式に認めて頂けたのではなかった。でも今こうして話題に出されたということは、閣下はお心を決められたのかしら、わたくしをこのままここに置くことの是非を……どうしよう、もし今ここでロンドンに帰れと言われたら……。ジュリエットの鼓動は早鐘のように激しくなり、白いデイ・ドレスの下の足がガクガクと震えた。将軍が再び口を開いた。
「気がついたら一週間が過ぎていた。あっという間だな」
「申し訳ございません、わたくしも失念しておりました」
「いや、いいんだ。それで今後のことだが」
将軍は一度言葉を切ると、一呼吸おいてからジュリエットのほうを向いた。
「……ダリルに手紙を書いてほしい」
「はい、どのように」
ジュリエットは死刑宣告を受ける罪人のように足元から冷たい空気が昇ってくるのを感じながら、それでも精一杯落ち着いた様子で将軍の言葉を待った。
「良い人を見つけてくれて感謝している、と。それからもう今までのようにしょっちゅう様子を見に来なくても良い、こちらは万事うまくいっているから、と書いておいてくれ」
(良い人を見つけてくれて感謝している……?)
思考を止めてしまっていたジュリエットの頭が、ゆっくりとその言葉の意味を理解した。
「え……閣下、それは」
将軍はきまりが悪そうな表情で頭を掻きながら、ぼそぼそと答えた。
「あー、うん、まあ、そういうことだ」
そしてゆっくりとジュリエットのほうを向くと、右手を差し出しながらこう言った。黒い瞳は相変わらず何も映していなかったが、その声は初めて会った時とは全く違う、穏やかで優しく力強い声だった。
「正直なところ、あなたのロンドンでの振る舞いについては、今でも納得できかねる部分もある。だが同時に……噂というものはあてにならないものだ、ということも良く分かった。そういうことで、改めてよろしく頼む、、ジュリエット嬢」
ジュリエットの胸に、じわじわと喜びの波が押し寄せた。わたくしはここにいられる。グリーンウッド将軍閣下のために働くことができる。あの日以来止まってしまっていた時計が、ゆっくりと針を進め、再び時を刻み始めるのをジュリエットは確かに感じた。所在無さげに上げられた将軍の右手にそっと手を添えて、彼女は静かに答えた。
「こちらこそ、改めてよろしくお願い申し上げます、グリーンウッド将軍閣下」
すると将軍が少し照れたように笑って言った。
「ああ。それと一つ提案なんだが」
「はい、なんでございましょう?」
「……私は今は将軍ではないから、閣下ではなく、ロバートと呼んでもらえないだろうか」
ジュリエットは度重なる驚きのあまりに気を失いそうだったが、何とか一つ小さく深呼吸して、こう答えたのだった。
「かしこまりました。ありがとうございます、ロバート様」
外に出る訓練を始めてほんの数日で、グリーンウッド将軍の行動範囲は以前より桁違いに広くなっていた。視力を失って屋敷に引き籠って以来、それまでは私室とその隣にある図書室を往復するのがやっとだったのに、ジュリエットの手助けを借りた彼は屋敷の構造と広さをあっという間に完璧に頭の中に叩き込み、今ではステッキを頼りに厨房でも客間でもどこでもほぼ自由に歩き回れるようになっていた。
次は屋敷の前庭と裏庭に出たいと将軍が言うので、ここ数日間、二人は朝食後の数時間をほぼ屋外で過ごすようになっていた。今日も前庭の端にある薔薇の花壇まで歩を進めたところで少し息が上がって来たので、楡の木陰に置かれたベンチでしばし休むことにしたのだった。
いくつかその日処理する手紙のことなどについて言葉を交わした後で、不意に将軍がジュリエットに尋ねた。
「そう言えば、あなたがここへ来て今日で何日過ぎた?」
「今日は木曜日でございますから……あっ」
ジュリエットは完全に忘れていた。あの日将軍に一週間だけ時間をやると言われたことを。そうだったわ、わたくしはまだ閣下の朗読係として正式に認めて頂けたのではなかった。でも今こうして話題に出されたということは、閣下はお心を決められたのかしら、わたくしをこのままここに置くことの是非を……どうしよう、もし今ここでロンドンに帰れと言われたら……。ジュリエットの鼓動は早鐘のように激しくなり、白いデイ・ドレスの下の足がガクガクと震えた。将軍が再び口を開いた。
「気がついたら一週間が過ぎていた。あっという間だな」
「申し訳ございません、わたくしも失念しておりました」
「いや、いいんだ。それで今後のことだが」
将軍は一度言葉を切ると、一呼吸おいてからジュリエットのほうを向いた。
「……ダリルに手紙を書いてほしい」
「はい、どのように」
ジュリエットは死刑宣告を受ける罪人のように足元から冷たい空気が昇ってくるのを感じながら、それでも精一杯落ち着いた様子で将軍の言葉を待った。
「良い人を見つけてくれて感謝している、と。それからもう今までのようにしょっちゅう様子を見に来なくても良い、こちらは万事うまくいっているから、と書いておいてくれ」
(良い人を見つけてくれて感謝している……?)
思考を止めてしまっていたジュリエットの頭が、ゆっくりとその言葉の意味を理解した。
「え……閣下、それは」
将軍はきまりが悪そうな表情で頭を掻きながら、ぼそぼそと答えた。
「あー、うん、まあ、そういうことだ」
そしてゆっくりとジュリエットのほうを向くと、右手を差し出しながらこう言った。黒い瞳は相変わらず何も映していなかったが、その声は初めて会った時とは全く違う、穏やかで優しく力強い声だった。
「正直なところ、あなたのロンドンでの振る舞いについては、今でも納得できかねる部分もある。だが同時に……噂というものはあてにならないものだ、ということも良く分かった。そういうことで、改めてよろしく頼む、、ジュリエット嬢」
ジュリエットの胸に、じわじわと喜びの波が押し寄せた。わたくしはここにいられる。グリーンウッド将軍閣下のために働くことができる。あの日以来止まってしまっていた時計が、ゆっくりと針を進め、再び時を刻み始めるのをジュリエットは確かに感じた。所在無さげに上げられた将軍の右手にそっと手を添えて、彼女は静かに答えた。
「こちらこそ、改めてよろしくお願い申し上げます、グリーンウッド将軍閣下」
すると将軍が少し照れたように笑って言った。
「ああ。それと一つ提案なんだが」
「はい、なんでございましょう?」
「……私は今は将軍ではないから、閣下ではなく、ロバートと呼んでもらえないだろうか」
ジュリエットは度重なる驚きのあまりに気を失いそうだったが、何とか一つ小さく深呼吸して、こう答えたのだった。
「かしこまりました。ありがとうございます、ロバート様」
